第16話 スマホの中の元カノ、阿佐ヶ谷の影
一人暮らしの夜は、吸い込まれそうなほど静かだ。
時計の針の音だけが響く部屋で、俺は缶チューハイを煽る。
「……寂しいな」
マユとタロウとの月一回の食事が楽しみな反面、その後の虚しさがキツかった。
家族の温もりを知ってしまった分、このワンルームの寒さが骨身に染みる。
俺はまだ40代。このまま独りで枯れていくのかと思うと、胸がざわついた。
魔が差した、としか言いようがない。
俺は暇つぶしにマッチングアプリをダウンロードした。
本気で恋人が欲しいわけじゃない。ただ、誰かと繋がっていたいという弱さだ。
毎日流れてくる女性たちの顔写真を、無心でスワイプする日々。
「ふーん……どいつもパッとしないな」
10日ほど経った夜だった。
画面に現れた一枚の写真に、俺の指が止まった。
濡れたような黒髪。切れ長の瞳。
そして、口元のほくろ。
「……嘘だろ? マリカ?」
心臓が早鐘を打った。
間違いようがない。あのマリカだ。
社長(義父)の愛人として生きる道を選び、俺を捨てたはずの彼女が、なぜこんなアプリに?
社長と別れたのか? それとも、ただの遊び相手探しなのか?それとも物足りないのか?
俺は迷わずメッセージを送った。
『カズキだ。久しぶり。元気か?』
既読スルーが続いた。
だが、俺は諦めきれずに送り続けた。
数日後、ようやく短い返信が届いた。
『……久しぶり。来週の日曜、阿佐ヶ谷駅でなら会えます』
約束の日曜日。
阿佐ヶ谷駅の改札前で、俺は彼女を待っていた。
かつての艶やかなマリカを想像して、少し緊張していた。
だが、現れた彼女を見て、俺は言葉を失った。
「……こんにちは」
そこにいたのは、俺の知っているマリカではなかった。
ふっくらとしていた頬はこけ、顔色は青白い。
派手だったメイクも服装もなく、地味なニットに身を包んでいる。
かつての「魔性の女」のオーラは消え失せ、疲れた影だけが漂っていた。
「あ、ああ……マリカ、さん、だよね?」
「うん。久しぶりだね」
駅前の喫茶店に入った。
コーヒーの湯気が立つ中、俺はずっと気になっていたことを聞いた。
「なんでマッチングアプリなんか……社長とはどうなったんだよ?」
マリカはカップを両手で包み込み、視線を落としたまま答えた。
「別に。暇だったから登録しただけ」
「暇って……」
「社長とは別れたわ。会社も辞めて、今は実家でお母さんと二人暮らし」
淡々とした口調が、逆に痛々しい。
「えっ? マジかよ! なんで言ってくれなかったんだよ!」
「……もう、全部が嫌になったの」
彼女は俺の言葉を遮るように言った。
「もう誰にも頼らず、一人で生きていこうって決めたのよ」
その声は冷たく響いたが、拒絶というよりは、何かを必死に耐えているような響きがあった。
俺はそれ以上、何も聞けなかった。
「そうか……」
沈黙が落ちる。
目の前にいるマリカは、俺の手の届かない場所に行ってしまったように見えた。
再会の喜びよりも、正体不明の不安が俺の胸を締め付けていた。
この時の俺はまだ知らなかった。
彼女の「冷たさ」が、最後の「優しさ」だったなんて。
続く




