5 雪のあとで
十二月二十三日、朝。
目を覚ますと、彼女はもう窓辺に立っていた。
朝の光がその身体を透かし、露出を上げすぎた写真みたいに、輪郭だけが静かに浮かんでいる。
「おはよう」
「おはよう」
僕は身体を起こした。
「今日はどんな天気?」
「晴れ。でも、すごく寒いよ」
彼女は窓の外を見たまま言う。
「厚手のセーターを着て。青いあれ」
僕はクローゼットからセーターを取り出した。
青いタートルネックのウール。
袖を通すと、たしかに暖かかった。
「今日は何か予定ある?」
着替えながら尋ねる。
「特にはないかな」
彼女は穏やかに笑った気配を見せる。
「いつもの土曜日。部屋を片づけてもいいし、洗濯しても、本を読んでもいい。何もしなくても、それでいいよ」
「一緒にいてくれる?」
「もちろん」
彼女はゆっくりこちらを向く。
顔は相変わらずはっきり見えない。それでも、笑っていることだけは分かった。
「言ったでしょう。私はずっと、君のそばにいるって」
朝食を済ませると、本当に部屋の掃除を始めた。
本棚を整理している途中、古いアルバムが一冊出てくる。
何気なく開くと、そこには幼い頃の写真が並んでいた。
僕。
父さんと母さん。
古い家。
庭の木。
門の前の細い道。
「これ」
彼女が一枚の写真を指さす。
「六歳のお誕生日。手に風車を持ってるでしょう?」
「すごく嬉しそうに笑ってる」
「風車は真っ赤だったの。くるくる勢いよく回って、小さな炎が手のひらで咲いているみたいだった」
写真は白黒だった。
もちろん色なんて映っていない。
それでも、その風車が赤かったことだけは覚えていた。
「よく覚えてるね」
僕が言うと、彼女は静かに頷いた。
「大切なものは、全部覚えているから」
ページをめくる。
今度は小学校の卒業写真だった。
三列目に立つ僕は、ひどく真面目な顔をしている。
「この日はね、緊張してた」
彼女は懐かしそうに言った。
「卒業式でクラス代表の挨拶をすることになって、三日も原稿を覚えたのに、本番で途中まで真っ白になっちゃった」
「それで?」
「客席を見たあと、ふと窓の外へ目を向けたの」
「校庭のプラタナスが風に揺れていてね。葉っぱが拍手してくれているみたいだった」
「君は思ったんだ。――木まで応援してくれてるんだから、大丈夫だって」
「それで、ちゃんと思い出せた」
僕はその出来事を忘れていた。
でも彼女の言葉を聞いているうちに、霞の向こうに沈んでいた記憶が、少しずつ浮かび上がってくる。
たしかに言葉を忘れた。
たしかに窓の外を見た。
そして、たしかに続きを思い出した。
「こんなことまで忘れてたんだ」
僕は苦く笑う。
「いいの」
彼女は優しく言った。
「私が覚えているから」
「君の子どもの頃も、青春も」
「君が生きてきた時間の中にあった、きれいな瞬間は全部」
「私が預かってる」
少しだけ間を置いて、続ける。
「琥珀が小さな命を閉じ込めるみたいに」
「何も欠けないまま」
「色褪せることもなく」
その言葉に胸が温かくなる。
同時に、少しだけ締めつけられる。
こんなにも大切に記憶を抱いてくれる人がいる。
それは、どうしようもなく嬉しかった。
けれど同時に、どうしてそこまで丁寧にしまっておくのだろう、とも思った。
まるで、誰かに託そうとしているみたいだった。
でも僕は聞かなかった。
今日の陽射しはあまりにも穏やかで、その静けさを壊したくなかったから。
昼は二人で簡単な麺を作った。
彼女はいつものように、その何気ない光景をゆっくり言葉にしていく。
「お湯が沸いたね」
「鍋の底から泡が浮かんできた。小さな透明のきのこが、ひとつずつ生まれてくるみたい」
「麺を入れると、少しずつほどけていく。まっすぐだった線が、柔らかな曲線になっていくでしょう」
「卵も入れよう」
「白身が先に固まって、黄身を包み込むの。雲が太陽を抱くみたいに」
その語りを聞いていると、昔の彼女を思い出す。
豊かな言葉で。
思いもよらない比喩で。
ありふれた景色に、そっと詩を宿らせていた彼女を。
「今日は元気そうだね」
僕が言うと、
彼女は嬉しそうに笑った。
「君と一緒だから」
「君のそばにいる日は、いつだって元気になれる」
麺が茹で上がり、二人で食卓につく。
窓から差し込む陽射しがテーブルの上に明るい光を落としていた。
「いい陽射しだね」
僕は箸を止める。
「春が少しだけ早く来たみたい」
「うん」
彼女は窓の外を眺める。
「でも、まだ冬」
「冬には冬の美しさがあるよ」
「光は長く斜めに伸びるし、影はくっきりする」
「空気も澄んでいる」
「昔は冬なんて嫌いだって言ってたのに」
「人は変わるから」
彼女は静かに笑った。
「季節が変わるようにね」
「春だけが続くこともないし、冬だけが続くこともない」
「全部、流れていくものだから」
その言葉には、どこか言葉以上の意味が潜んでいる気がした。
午後。
僕はソファで本を読み、彼女は隣に座っていた。
何も話さない。
ただ、一緒にいる。
時々顔を上げると、彼女は柔らかく笑ってくれる。
その笑みは見えない。
けれど、水面を渡る風みたいに、ちゃんと伝わってきた。
「何を考えてるの?」
僕は尋ねる。
「何も」
彼女は首を振った。
「ただ、この時間を味わってるだけ」
「陽射しがあって、静かで、君が隣にいる」
「こういう何でもない時間が、本当はいちばん大切なんだと思う」
「最近さ」
僕は本を閉じた。
「少し話し方が変わったよね」
「変わった?」
「なんというか……前より哲学的というか」
「何かをまとめているみたいな話し方をする」
彼女は少し黙った。
「冬だからかもしれない」
やがて小さく笑う。
「寒い季節は、世界の時間が少しゆっくりになるでしょう」
「だから、普段は考えないことまで考えてしまうのかも」
「例えば?」
「永遠って何だろう、とか」
「短いものって何だろう、とか」
「本当にあるものと」
「幻にしか見えないものとか」
「持つことと」
「失うこととか」
穏やかな声だった。
けれど、一つひとつの言葉が胸の奥へ静かに沈み、小さな波紋を広げていく。
「答えは見つかった?」
僕が尋ねると、彼女は首を横に振った。
「答えはないよ」
「あるのは、感じることだけ」
「陽射しを感じること」
「寒さを感じること」
「誰かといること」
「ひとりでいること」
「そういう時間は全部、本物だから」
少しだけ目を伏せて、
静かに続ける。
「……たとえ、そのきっかけが幻だったとしても」
その先を、僕は考えたくなかった。
夕方になると、僕たちはまた公園へ向かった。
約束でもしていたみたいに、夕陽は今日も空を訪れ、茜から淡い桃色へと溶け合う光で西の空を染めていた。
いつものベンチに腰を下ろす。
今日はいつもより冷え込んでいて、僕はコートの前をぎゅっと閉じた。
「寒い?」
彼女が尋ねる。
「少しね」
「もう少しこっちへ」
彼女は静かに言った。
「風を防いであげるから」
僕は素直に身体を寄せた。
本当は、彼女に風を遮ることなんてできない。
彼女は触れられない存在なのだから。
それでも、不思議と暖かかった。
彼女のいるほうから、ほんの少しだけ高い温度が伝わってくるような気がした。
思い込みなのかもしれない。
それでも、その温もりは確かにあった。
夕暮れは、ゆっくりと色を変えていく。
橙色は紫へ。
紫は深い群青へ。
その隙間を縫うように、一つ、また一つと星が灯り始める。
「きれいだね」
僕は呟いた。
「うん」
彼女も空を見上げたまま、小さく頷く。
「ねえ」
僕は笑って言った。
「今日は描写してくれない?」
「昔みたいに」
「……最後にもう一度」
彼女は何も答えず、しばらく空を見つめていた。
長い沈黙のあと、ゆっくりと言葉を紡ぎ始める。
その声は古い詩を読み聞かせるように穏やかだった。
「夕陽はね」
「最後の絵の具を惜しみなく空へ撒いていく画家みたい」
「西の雲は燃える絹。」
「東の雲は、その火が燃え尽きたあとの灰。」
「そのあいだでは、紫と金色が静かに溶け合っている」
「まるで、お互いに譲り合って生まれた色みたいに」
「やがて最初の星が灯る」
「たぶん金星」
「誰よりも迷わず、静かに輝いている」
「そのあとを追うように、ほかの星たちも少し恥ずかしそうに瞬き始める」
「空は少しずつ冷えていくの」
「暖かな色は深い藍へ沈み」
「熱かった想いが、やがて静かな記憶へ変わっていくみたいに」
「そして私たちは、ここでそれを見ている」
「二人だけのために演じられる、一度きりの舞台を眺める観客みたいに」
語り終えると、彼女は静かに口を閉じた。
僕は彼女を見つめる。
夕闇の中で、その姿はほとんど透明になっていた。
輪郭だけが淡く残り、瞳のある場所だけに、小さな光が二つ。
まるで、遠い星だった。
「ありがとう」
僕は言う。
「どういたしまして」
彼女は微笑む。
「これが、君に贈れる最後の贈り物だから」
「昔みたいに」
「美しくて、途切れることのない景色の描写を」
――最後の贈り物。
その言葉が胸に引っ掛かった。
「どうして……最後なの?」
彼女はくすっと笑う。
「明日はクリスマス・イブでしょう?」
「少し力を残しておきたいの」
「明日は月もあるし、クリスマスの朝もある」
「贈り物はね、一度に全部渡さないほうが素敵だから」
彼女はいつもそうだった。
ちゃんと理由を用意して。
どこまでも自然で。
どこまでも優しくて。
だから僕は、それ以上問い返せなかった。
僕たちは長いあいだベンチに座っていた。
空が完全に夜へ変わり、公園の灯りが一つ残らず点くまで。
「帰ろうか」
彼女が立ち上がる。
僕も腰を上げ、いつものように手を伸ばした。
彼女の手を握ろうとして。
触れたのは、冷たい夜の空気だけだった。
「君の手……」
思わず呟く。
「ここにあるよ」
彼女はそっと僕の手を包んだ。
けれどその感触は、昨日までよりずっと淡い。
一筋の煙を握っているように、頼りなかった。
二人で家まで歩く。
帰り道、彼女はほとんど話さなかった。
時折、
「気をつけて。そこ、水たまり」
「赤信号。もう少し待とう」
「見て。あのお店、クリスマスの飾りに変わってる」
そんなふうに、静かに教えてくれるだけだった。
家に着き、僕が明かりをつける。
暖かな光が部屋いっぱいに広がる。
「今日は早く寝ようね」
彼女が言った。
「明日はクリスマス・イブだから」
「元気で迎えないと」
「明日も一緒にいてくれる?」
僕が尋ねる。
彼女は迷いなく頷いた。
「もちろん」
「私はずっと君と一緒」
「そう約束したでしょう」
――ずっと。
その言葉が、今夜はなぜだか重く響いた。
歯を磨き、部屋着に着替え、ベッドへ入る。
彼女もいつものようにベッドの脇へ腰を下ろした。
「おやすみ」
「おやすみ」
彼女はそっと手を伸ばす。
僕の頬に触れようとして――
指先は肌まであと数センチというところで止まり、そのまま静かに引き戻された。
「どうしたの?」
僕は尋ねる。
「ううん」
彼女は小さく首を振った。
「少しだけ、君を見ていたかったの」
「今の君を、ちゃんと覚えておきたくて」
「明日も同じ顔だよ」
僕は笑う。
彼女も笑った。
「でも光が違うでしょう」
「見る角度も」
「そのときの気持ちも」
「だから、毎瞬の君は少しずつ違う」
「どれも一度きり」
「夕焼けが毎日同じように見えて、本当は全部違うのと同じ」
綺麗な言葉だった。
だからこそ、胸の奥が静かにざわめいた。
「君は……ずっといてくれるよね」
自分でも気づかないうちに、願うような声になっていた。
「うん」
彼女は迷わず答える。
「眠って」
「明日の朝も私はいる」
「明後日も」
「その次の日も」
「ずっと」
「ずっと君のそばにいる」
僕は目を閉じた。
額にそっと手が重なる。
春の日差しのような、やさしい温度。
やがて彼女は歌い始める。
歌詞のない旋律。
静かで、柔らかくて。
子守歌みたいだった。
その音色に包まれながら、僕は深い眠りへ落ちていった。
どれくらい眠っていただろう。
ふと目が覚めた。
部屋は暗く、窓の外からかすかな夜明け前の光だけが差し込んでいる。
僕は反射的にベッドの脇を見る。
――彼女がいない。
身体を起こし、部屋を見回す。
窓辺にも。
机の前にも。
どこにもいなかった。
「……いる?」
声を潜めて呼ぶ。
返事はない。
聞こえるのは暖房の中を流れる水の音と、遠くを走る車の音だけだった。
僕はベッドを降りた。
リビングへ向かう。
誰もいない。
キッチンも。
ベランダも。
どこにも。
もう一度寝室へ戻る。
部屋の真ん中に立ったまま、僕は初めて知るような静けさに包まれた。
雪原の真ん中へ、一人取り残されたみたいだった。
見渡しても白しかない。
何もない。
風の音だけが、どこまでも続いている。
でも。
彼女は言った。
ずっと一緒にいる、と。
約束してくれた。
僕はもう一度ベッドへ戻り、目を開けたまま横になる。
待った。
彼女の声を。
額に触れる手を。
「私はここにいるよ」
その一言を。
けれど。
何も聞こえなかった。
夜だけがあった。
深く。
静かで。
どこまでも完全な、彼女のいない夜だった。
どれくらいそうしていたのか分からない。
数分だったのか。
それとも何時間も過ぎていたのか。
そのときだった。
僕は――見たわけでも、聞いたわけでもない。
ただ、感じた。
彼女が戻ってきた、と。
肌を撫でる、ごく淡い風のように。
鼻先をかすめる、ほとんど消えそうな香りのように。
網膜をそっとなぞる、存在するかどうかも分からないほど細い光のように。
「……ここにいるよ」
囁きにも届かないほど小さな声がした。
「どこへ行ってたの?」
喉の渇いた声で尋ねる。
「どこにも」
彼女は静かに答えた。
「すぐ近くにいたよ」
少しだけ間を置いて、
「冬の夜は長いでしょう」
「だから、ときどき私は少しだけ……散ってしまうの」
「風にほどける雲みたいに」
「でも朝になる前には、ちゃんとまた集まるから」
「……怖かった」
思わずそう漏らした。
彼女は申し訳なさそうに微笑む。
「ごめんね」
今度はちゃんと僕の手を握る。
さっきより少しだけ、その感触は確かだった。
「私はいなくならない」
「絶対に」
「今日は朝までずっと一緒にいるから」
「安心して眠って」
僕は頷いた。
信じるしかなかった。
信じなければ、この夜はあまりにも長すぎたから。
もう一度目を閉じる。
今度は確かに彼女がそばにいた。
昨日までよりも、むしろ強く。
温かく。
揺るがず。
そこに「いる」と思えるほど確かな気配。
その安心感に包まれながら、僕は再び眠りへ落ちていく。
夢を見た。
春だった。
花が満開の木の下に、彼女は立っていた。
陽射しが花びらを透かし、その光が彼女の頬へまだら模様を落としている。
その顔は、初めてはっきり見えた。
目や鼻や口が分かったわけじゃない。
そうではなくて。
「そこにいる」という輪郭だけが、初めて鮮明に結ばれていた。
ずっとぼやけていた写真が、ようやく焦点を合わせたみたいに。
彼女は微笑んで言う。
「ほら、花が咲いたよ」
僕も笑った。
「おかえり」
彼女はゆっくり首を振る。
「私は、一度も離れていないよ」
そこで夢は終わった。
朝の光が頬を照らしている。
僕は目を開けると、真っ先に窓辺を見た。
彼女はそこに立っていた。
こちらへ背を向け、窓の外を眺めている。
朝日に照らされた輪郭は、昨夜より少しだけくっきりして見えた。
「おはよう」
彼女が振り返る。
「メリークリスマス・イブ」
「おはよう」
僕は身体を起こし、小さく息をついた。
「……まだいてくれた」
「もちろん」
彼女は穏やかに微笑む。
「言ったでしょう」
「私はずっとここにいるって」
――ずっと。
今日は、その言葉を文字どおり信じてみようと思った。
今日はクリスマス・イブだから。
奇跡はきっと、こんな日に訪れるものだと思いたかった。
❀
十二月二十四日。
クリスマス・イブの朝。
目を覚ますと、窓の外では雪が降っていた。
粉雪ではない。
一片一片が大きく、ゆっくりと。
灰色がかった空から、急ぐこともなく静かに舞い降りてくる、本当の雪だった。
「雪だね」
彼女が言う。
その声には、珍しく弾むような喜びが混じっていた。
「クリスマスの雪」
「クリスマスに降る雪は、幸運を運んでくるって言うでしょう」
僕は窓辺まで歩く。
窓枠にはもう薄く雪が積もり始めていた。
世界は白く塗り替えられ、音は雪に吸い込まれていく。
街全体が、静かな毛布に包まれているみたいだった。
「きれいだ」
僕は呟く。
「うん」
彼女も隣に立つ。
「おとぎ話みたい」
「硬いものはみんな柔らかく包まれて」
「尖った音は、静けさに溶けていく」
今日は彼女の声が軽かった。
昨日までより、生き生きとしている。
景色を描く言葉も、少しずつ色を取り戻していた。
朝食を終えると、僕たちは外へ出ることにした。
雪はまだ降り続いている。
道にはもう厚く積もっていて、人通りは少ない。
ときおり子どもたちが歓声を上げながら駆け抜け、雪の上に無邪気な足跡だけを残していった。
僕たちはゆっくり歩く。
彼女は、いつものように景色を言葉へ変えていく。
「枝には雪が積もって、ふわふわの白い縁取りができてる」
「木が白いダウンを着たみたい」
「車の屋根はまっさらね」
「粉砂糖をかけたケーキみたいでしょう」
「雪の上にはいろんな足跡が伸びてる」
「深いものも、浅いものもある」
「それぞれ違う人生の軌跡みたい」
その声を聞いているだけで、不思議なくらい心が静かになっていく。
長く病んでいた人が、ほんの少しだけ痛みを忘れるように。
干上がった川へ、ようやく雨が降るように。
――もしかしたら。
彼女は本当に元気になっているのかもしれない。
春になれば、昔の彼女へ戻れるのかもしれない。
そんな希望が、胸の奥で静かに息を吹き返していた。
中央公園へ着く頃には、雪はいっそう深く積もっていた。
まだ誰にも踏まれていない場所は、白い絨毯を敷き詰めたみたいだった。
少し離れた場所では、子どもたちが雪だるまを作っている。
澄んだ笑い声が冬の空へ響いていた。
「私たちも作ろうか」
彼女が言う。
「うん」
僕はしゃがみ込み、雪玉を転がし始めた。
すぐに手は赤くなった。
でも、不思議と寒さは気にならなかった。
「頭は小さめに」
彼女が笑う。
「体はもっと大きく」
「枝を二本探して腕にして」
「小石で目とボタンを作ろう」
二人で作った雪だるまは、それほど大きくはなかったけれど、ちゃんと雪だるまの形をしていた。
僕は首に、自分の青いウールのマフラーを巻いてやる。
「これで寒くないね」
そう言うと、
彼女は後ろからそっと僕を抱きしめた。
触れるか触れないかほど淡いぬくもり。
それでも、その腕は確かに僕を包んでいた。
「君も寒くないでしょう」
彼女が囁く。
「私がいるから」
本当にそうだった。
身体ではなく、胸の奥から温かさが湧き上がり、冬の冷たさを静かに押し返していく。
僕たちはしばらく雪だるまを眺めていた。
降り続く雪がその肩に積もり、また少し白さを重ねていく。
「このままずっと降り続いたら」
僕は言う。
「雪だるまもどんどん大きくなって、最後には雪の巨人になるかも」
彼女は優しく笑った。
「それも素敵ね」
「雪の巨人が、この公園を冬じゅう守るの」
「春になったら、少しずつ溶けて」
「冬のあいだ集めた雪を大地へ返す」
「その水で、春の花が咲くんだよ」
その光景を想像する。
公園の真ん中に立つ白い巨人。
一冬のあいだ、黙って世界を見守り。
暖かな春の日、涙を流すみたいに静かに溶けていく。
その雫は土へ染み込み、花たちの命になる。
「その景色、きっと見られるよ」
彼女は僕の心を読んだみたいに微笑んだ。
「来年の春、一緒に見に来よう」
――来年の春。
また一つ、約束が増えた。
僕は彼女を見る。
雪が降る。
いや。
雪は彼女の身体を、そのまま通り抜けていた。
白い輪郭を何の抵抗もなくすり抜け、地面へ落ちていく。
「雪が……君を通り抜けてる」
思わず口にすると、
彼女はすぐ答えた。
「光の加減だよ」
「雪がたくさん降っているでしょう」
「私も少し動いているから、そう見えるだけ」
「ほら、木の枝の間だって雪は落ちていくでしょう?」
僕は隣の木を見る。
たしかに枝の隙間から雪が降っている。
筋は通っていた。
でも。
木は枝と枝のあいだを雪が抜ける。
彼女は違う。
雪は、彼女自身を通り抜けていた。
それでも僕は何も言わなかった。
口にしてしまえば、この美しい時間は壊れてしまう気がしたから。
今日はクリスマス・イブだ。
今日くらいは、奇跡を信じていたかった。
昼近くまで公園で過ごすと、雪は少しずつ弱まり始めた。
空もわずかに明るくなり、薄くなった雲の向こうから、乳白色のやさしい光が滲んでくる。
「そろそろ帰ろうか」
彼女が言った。
「午後はクリスマス・イブの夕食を作ろう」
「豪華じゃなくていいの」
「でも、ちゃんと特別な食卓にしようね」
「手伝ってくれる?」
僕が笑うと、
彼女も笑って頷いた。
「もちろん」
家へ戻る頃には、雪はすっかりやんでいた。
通りには少しずつ人が増え始める。
最後の買い物をする人たち。
雪合戦ではしゃぐ子どもたち。
店先から流れてくるクリスマスソングは、どこか浮き立つようでいて、少しだけ切なかった。
家に着くと、僕は夕食の支度を始める。
彼女はいつものように隣へ立ち、一つひとつの景色を言葉にしてくれた。
「じゃがいもの皮をむくと、淡いクリーム色が顔を出す」
「厚いコートを脱いだみたい」
「にんじんは輪切りにすると、小さな太陽がいくつも並ぶでしょう」
「お鍋の中では牛肉がゆっくり煮えてる」
「香りがね、あたたかな抱擁みたいにキッチンいっぱいへ広がっていく」
僕はその声に導かれるように手を動かした。
部屋の中は湯気でほのかに曇り、
窓の向こうには、雪上がりの冷たい世界が広がっている。
一枚の窓ガラスを挟んで、
そこにはまるで別々の季節があった。
夕食はごく簡単だった。
ビーフシチュー。
ローストポテト。
それに野菜のサラダ。
豪華ではない。
けれど僕は、一皿ごとに丁寧に盛りつけた。
何かの儀式をしているみたいに。
テーブルを整え、
キャンドルに火を灯す。
柔らかな炎が、夕暮れの部屋で静かに揺れていた。
「クリスマス・イブの夕食だね」
彼女が微笑む。
「二人だけだけど、とてもあたたかい」
「二人だけ」
僕はその言葉を繰り返す。
「……それで十分だ」
僕たちはゆっくり食事を始めた。
彼女は料理の味を語り、
グラスに映るキャンドルの光を語り、
窓の外で少しずつ夜へ沈んでいく空を語る。
食事は長く続いた。
急いで食べ終えることはしなかった。
一口ずつ味わいながら、
料理を。
時間を。
そして、お互いの存在を。
雪とキャンドルの光に包まれた、この夜そのものを。
食後、僕は食器を洗った。
彼女はいつものように隣に立っている。
流れる水の音。
食器が触れ合う小さな響き。
そして彼女の穏やかな声。
それらが重なり合って、一つの静かな旋律になっていた。
「今日は、本当にいい日だった」
僕が言う。
「うん」
彼女は頷いた。
「夢みたいに、きれいな一日だった」
その言葉に、胸が少しだけ痛んだ。
夢は、いつか覚める。
「夢じゃないよ」
僕は静かに言う。
「ちゃんと現実だ」
彼女はすぐに微笑んだ。
「そうだね」
「君がいて」
「私がいて」
「外には雪があって」
「部屋にはキャンドルの灯りがある」
「全部、本物」
洗い物を終えると、僕たちはソファへ移った。
部屋の明かりはつけない。
クリスマスツリーの小さなイルミネーションだけが、赤や緑や金色の光を静かに瞬かせている。
「お願いごとをしようか」
彼女が言った。
「クリスマス・イブの願いは叶うって聞いたことがあるよ」
「信じてるの?」
僕が尋ねる。
彼女は少し考えてから答えた。
「願いそのものを信じてるの」
「叶うかどうかじゃなくて」
「願うことは、希望を持つことだから」
「希望がある限り、人は前へ歩いていけるでしょう?」
僕は目を閉じた。
願いは一つだけだった。
――彼女が、ずっと僕のそばにいてくれますように。
でも、その願いを口にはできなかった。
口にした瞬間、
彼女がいなくなる可能性を認めてしまう気がしたから。
だから、胸の奥だけでそっと祈る。
「お願いできた?」
彼女が聞く。
「うん」
「じゃあ、私の願いはね」
彼女はとても穏やかな声で言った。
「君が、これからも世界の美しさを見つけられますように」
「私の目を通してでも」
「いつか、自分自身の目ででも」
その願いを聞いた瞬間、
鼻の奥が少しだけ熱くなった。
「どうして、その願いなの?」
僕は尋ねる。
彼女は静かにツリーの灯りを見つめたまま答える。
「美しいものってね」
「朝、目を覚ましたくなる理由になるでしょう」
「息をしたくなる理由にもなる」
「苦しい世界でも、もう少し歩いてみようって思わせてくれる」
「もし美しいものが見えなくなったら」
「世界には、機能や効率や便利さしか残らない」
「そんな世界は、きっと寂しすぎる」
「でも」
僕は言った。
「君がいてくれれば、僕はずっと見つけられる」
彼女は少しだけ黙った。
「もし……」
その一言だけが、静かな部屋へ落ちる。
「もし、いつか」
「君自身が見つけなくちゃいけない日が来たら?」
「そんな日は来ないよ」
僕は彼女の言葉を遮った。
「君は永遠に一緒だって言った」
彼女はすぐ頷く。
「そう」
「私はそう言った」
「だから今のは、ただの仮定」
「それだけ」
けれど。
「仮定」というその一言は、
小さな棘になって、胸の奥へ静かに刺さった。
それから僕たちは何も話さなかった。
ただ並んで座り、
クリスマスツリーの灯りを眺めていた。
赤。
緑。
黄色。
青。
その色は何度も何度も繰り返され、
部屋の静けさだけが、ゆっくりと深まっていった。
夜更けになると、雪はまた降り始めた。
街灯の光の中を舞う雪は、
小さく光る精霊たちが夜空を漂っているみたいだった。
「もう寝よう」
彼女が言う。
「明日はクリスマス」
「雪上がりの朝日を、一緒に見ようね」
「うん」
僕は頷いた。
身支度を済ませ、ベッドへ入る。
彼女はいつもの場所へ腰を下ろした。
「今夜の雪、本当にきれいだ」
僕が呟く。
「うん」
彼女は窓の外を見つめながら微笑む。
「クリスマス・イブの雪にはね」
「祝福を運ぶ力があるんだって」
「雪に包まれたものは、春になると新しい命をもらえるの」
「……君も?」
僕は静かに尋ねた。
「春になったら、新しく生まれ変われる?」
彼女は優しく笑った。
「私はもう、生まれ変わってるよ」
「君と過ごす毎日が、そのたび新しい始まりだから」
その言葉を胸に抱いたまま、僕は目を閉じる。
彼女の手が、そっと瞼へ重なった。
「眠って」
「明日は、新しい朝だから」
そのぬくもりに包まれながら、
僕は静かに眠りへ落ちていった。
夢の中でも、雪は降り続いていた。
屋根の上にも。
木々の枝にも。
道にも。
街にも。
世界のすべてを静かに覆い尽くしていく。
一面の白。
汚れもなく、
境界さえ曖昧になった世界。
僕はその雪の中を歩いていた。
寒くはない。
疲れもしない。
ただ、どこまでも歩き続ける。
前方に、人影が見えた。
雪の向こうで霞み、輪郭ははっきりしない。
彼女だ。
そう思った。
僕は足を速める。
けれど、どれだけ走っても距離は縮まらない。
追いつけそうで、追いつけない。
そのとき。
彼女の声だけが聞こえた。
雪原のあらゆる場所から。
風の中から。
光の中から。
「私はここにいるよ」
「ずっと」
「ずっとここにいる」
そこで目が覚めた。
まだ夜明け前だった。
部屋は暗く、静まり返っている。
僕はゆっくりとベッドの脇を見る。
誰もいない。
けれど今回は、不思議と慌てなかった。
昨夜のことを思い出したからだ。
きっとまた、彼女は少しだけ「散って」いるだけ。
風にほどけた雲みたいに。
夜が明ける頃には、また戻ってくる。
僕はそのまま横になり、静かに待った。
朝の光を。
彼女の声を。
「おはよう」
その一言を。
やがて部屋は少しずつ明るくなっていく。
カーテンの隙間から、灰色がかった朝の光が細く差し込んだ。
それでも。
彼女は現れなかった。
僕は身体を起こす。
「……いる?」
呼んでみる。
返事はない。
ベッドを降り、窓辺へ向かった。
カーテンを開ける。
雪上がりの街が広がっていた。
一面の白。
静けさだけが、どこまでも続いている。
雲の切れ間から朝日が差し込み、
雪原は淡い金色をまとっていた。
きれいだった。
本当に。
息を呑むほど。
でも。
彼女がいない景色は、
音を失った映画みたいだった。
美しいのに、
どこまでも静かで、
何か大切なものだけが欠けている。
僕は長いあいだ、その雪景色を見つめていた。
そのときだった。
――聞こえた。
いや。
聞こえたと思っただけかもしれない。
あまりにも遠く。
あまりにもかすかな声。
雪の奥深くから漂ってくるように。
「メリークリスマス」
「私はずっと君と一緒」
「雪になって」
「光になって」
「記憶になって」
「いつまでも」
僕は振り返る。
部屋には誰もいなかった。
ただ。
空気の中に、ごく淡く。
かすかに梔子の香りだけが残っていた。
十二月の朝に、
梔子が咲くはずなんてないのに。
❀
十二月二十五日。
クリスマスの朝。
目を覚ますと、かすかに梔子の香りがした。
あまりにも淡くて。
目を開けた瞬間には、それが本当にあった匂いなのか、それとも記憶が見せた幻なのか、自分でも分からなくなるほどだった。
切れてしまった弦が、もう音は鳴らないはずなのに、まだ空気のどこかで震えているように。
朝の光は部屋へ差し込んでいた。
けれど。
彼女の「おはよう」は、聞こえなかった。
「おはよう」
僕は空気へ向かって言う。
返事はない。
身体を起こし、部屋を見回す。
ベッド。
机。
椅子。
本棚。
昨日と何ひとつ変わらない。
それなのに、何もかもが違って見えた。
彼女がいないからだ。
部屋の隅々まで満たしていた、BGMみたいな気配が、きれいに消えていた。
僕は窓辺へ立つ。
雪上がりの朝は、本当にきれいだった。
陽射しが雪へ降り注ぎ、砕いた金箔みたいな光を返している。
枝に積もった雪は少しずつほどけ、小さな塊になって落ちるたび、淡い雪煙がふわりと舞った。
遠くでは教会の鐘が鳴っている。
低く。
長く。
静かな祝福のように。
彼女は言っていた。
クリスマスの朝には陽が差すこと。
雪は金色に輝くこと。
鐘の音は祝福みたいに響くこと。
でも。
彼女は教えてくれなかった。
もし彼女がいなくなったら、この景色は何を意味するのか。
身支度を整え、朝食を作る。
鍋の中でオートミールが静かに煮えていく。
僕は無意識に待っていた。
――溶ける雲みたい。
――あたたかな抱擁みたい。
――朝靄の手触りみたい。
そんな彼女の言葉を。
聞こえてくるのは、ことことと煮える音だけだった。
器によそい、
席に着き、
静かに食べる。
温かい。
少し甘い。
腹は満たされる。
それだけだった。
朝食を終えると、僕は外へ出た。
厚手のコートを羽織り、
青いマフラーを巻く。
昨日、雪だるまへ貸していたマフラーだ。
もう乾いていた。
雪の匂いが少しだけ残っていた。
街は静かだった。
クリスマスの朝だから、まだ眠っている人も多いのだろう。
道の脇には除けられた雪が灰色の小さな山になって積まれている。
陽射しは明るい。
でも空気は冷たく、息を吐くたび白く曇った。
中央公園まで歩く。
昨日作った雪だるまは、まだそこにいた。
少しだけ形を崩しながら。
頭は少し傾き、
枝の腕は一本落ち、
青いマフラーには新しい雪が積もっていた。
僕はその前へ立ち、しばらく何も言わず見つめる。
雪だるまは黙っていた。
何かを待ち続けているようにも、
もう待つことを諦めたようにも見えた。
「メリークリスマス」
僕は雪だるまへ話しかける。
返事はない。
そのまま、公園の中を歩く。
いつも二人で歩いた道をなぞるように。
ベンチの雪は払われ、濡れた木肌だけが残っていた。
遊具広場には誰もいない。
ブランコは止まり、
滑り台には薄い氷が張っている。
何一つ失われてはいない。
それでも。
世界から何か大切なものだけが抜け落ちていた。
彼女は景色へ意味を与える人だった。
彼女がいなくなった世界は、高精細な写真みたいだった。
細部は見える。
でも、何を見つめればいいのか分からない。
僕はベンチへ腰を下ろした。
空を見上げる。
雪を眺める。
白い息が空へ溶けていく。
僕は彼女の真似をしてみる。
「陽射しが雪を照らしている」
「雪は細かな金色を返している」
「枝の雪が溶けて雫になり、雪面へ小さな窪みを作る」
「遠くで鳥が鳴いた」
「澄んだ声だった」
「でもすぐ街の音へ溶けてしまう」
「空気は冷たい」
「鼻の奥が少し痛い」
「それでも陽射しだけは頬をやさしく温めてくれる」
「遠くから届く慰めみたいに」
間違ってはいない。
景色はちゃんと書けている。
けれど。
味がなかった。
塩を入れ忘れたスープみたいに。
喉は潤せても、心までは満たしてくれない。
僕は目を閉じる。
彼女の声を思い出そうとした。
あの響きを。
何気ない景色を、奇跡みたいに変えてしまう言葉を。
でも記憶は砂だった。
強く握るほど、指の隙間から零れ落ちていく。
そのときだった。
「ほら」
声がした。
「見て。松の枝の雪が落ちたよ」
僕は勢いよく目を開く。
振り返る。
誰もいない。
裸になった枝を、風が揺らしているだけだった。
「……君?」
問いかける。
返事はない。
でも確かに聞こえた。
あの声だった。
「見て」と言うときだけ少し上がる、あの柔らかな調子だった。
僕は立ち上がり、公園を見回す。
人影はない。
遠くで犬を散歩させている人が数人いるだけだった。
「どこにいるの?」
思わず声を張る。
犬を連れた人が一瞬こちらを見て、そのまま歩いていく。
胸が激しく脈打っていた。
希望と恐れが、二匹の蛇みたいに絡み合う。
もしかしたら。
彼女はまだいるのかもしれない。
僕には見えないだけで。
雪になって。
光になって。
風になって。
記憶になって。
「ずっと一緒」という約束は、嘘じゃなかったのかもしれない。
ただ、形が変わっただけで。
でも。
そうなら、どうして姿を見せてくれないのだろう。
どうして声をかけてくれないのだろう。
どうして、もう一度だけでも笑ってくれないのだろう。
僕は公園を歩き続けた。
彼女の痕跡を探して。
見覚えのある足跡を。
少しだけ違う雪を。
消え残ったぬくもりを。
あの梔子の香りを。
何か一つでも。
けれど、何も見つからなかった。
あるのは、ごくありふれた雪と、
ありふれた光と、
ありふれた風だけだった。
昼過ぎ、僕は家へ戻った。
部屋は相変わらず静かだった。
テレビをつける。
クリスマスの特番では、楽しそうな音楽と笑い声が流れている。
でも、それらはずっと遠くの世界の出来事みたいだった。
耳には届く。
けれど、心までは届かない。
簡単な昼食を作る。
食べる。
食器を洗う。
いつも通りの手順を、何も考えずになぞっていく。
まるで決められた動作だけを繰り返す機械みたいだった。
午後になると、机へ向かった。
仕事をしようと思った。
パソコンを開く。
白い画面の上でカーソルだけが静かに点滅していた。
僕は一行だけ書く。
――クリスマスの雪には、不思議な静けさがある。
そこで手が止まった。
静けさ。
どんな静けさだろう。
僕には、その続きを書けなかった。
結局、その一文を消して、パソコンを閉じる。
窓の外では陽が少しずつ傾き始めていた。
雪原を染めていた金色は、ゆっくりと橙色へ変わっていく。
きれいだった。
けれど、その美しさはもう僕とは関係のないもののように思えた。
ふと、去年のクリスマスを思い出す。
あのときも彼女は隣にいた。
焼きたてのターキーの匂いを語り、
クリスマスツリーの光を語り、
プレゼントを交換するときの笑顔を語り、
深夜の礼拝で響く賛美歌を語ってくれた。
彼女の言葉があるだけで、
世界は熟した果実みたいに豊かだった。
でも今年は違う。
世界は広いまま、
ただ空っぽだった。
夕暮れどき、母から電話がかかってきた。
「メリークリスマス」
受話器の向こうで母が笑う。
「今日は一人なの?」
「うん」
「友達とは会わなかったの?」
「今日は静かに過ごしたくて」
「そう」
少し間を置いてから、母が続けた。
「そういえば、この前、目の調子が悪いって言ってたでしょう?」
「もうよくなった?」
一瞬、何のことか分からなかった。
そうだ。
あれは僕がついた言い訳だった。
目が疲れていて、細かいものが見えにくい、と。
「もう大丈夫」
僕は答える。
「それならよかった」
「ちゃんと休みなさいね」
「パソコンばかり見てないで」
「世界は広いんだから、自分の目で本当の景色を見なくちゃ」
本当の景色。
それは何だろう。
彼女が言葉で満たしてくれた世界なのか。
それとも。
今、僕の目の前にある、この何も語らない世界なのか。
「うん」
「そうするよ」
電話を切る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
照明をつける。
暖かな光が部屋いっぱいへ広がる。
でも。
光は部屋を満たせても、
空白までは埋められなかった。
僕は本棚から古いアルバムを取り出す。
一ページずつ、静かにめくっていく。
六歳の誕生日。
赤い風車。
小学校の卒業式。
壇上で言葉を忘れた日。
中学の林間学校で見た朝焼け。
高校の卒業式で振った手。
どの写真にも僕は写っている。
でも。
どこにも彼女はいない。
最初からそうだった。
彼女は写真の中には存在しない。
僕の感覚の中にだけ、生きていた。
アルバムを閉じる。
その瞬間、胸の奥へ静かに孤独が落ちてきた。
誰かがいなくなったからじゃない。
世界を翻訳してくれる人を失ったからだ。
僕の目はまだ見えている。
それなのに。
見えるものはもう風景にならない。
ただの情報になってしまった。
夜になると、僕は早めにベッドへ入った。
灯りを消す。
闇が部屋を満たしていく。
僕は目を閉じずに待った。
昨日みたいに、
突然彼女が現れて、
「ここにいるよ」
そう言ってくれるんじゃないかと。
あるいは。
声だけでも。
ぬくもりだけでも。
梔子の香りだけでも。
「永遠」は、本当に別の形へ変わっただけなのかもしれないと。
長いあいだ待ち続けた。
暗闇に目が慣れ、
家具の輪郭がぼんやり見えるようになっても。
上の階の住人が帰宅する足音が聞こえても。
遠くの教会で、深夜のミサを終える鐘が鳴っても。
彼女は来なかった。
もう。
二度と来ないのだ。
その事実は、一片の氷みたいに胸の奥へ沈んでいった。
ゆっくりと。
骨の芯まで冷やしながら。
それでも。
僕は泣かなかった。
怒りもなかった。
取り乱しもしなかった。
ただ。
深く静かな諦めだけが、心の底へ降り積もっていく。
読み終えた本を閉じるときみたいだった。
結末は望んだものじゃなかった。
それでも物語は終わった。
だから静かに本を閉じ、
本棚へ戻すしかない。
僕は目を閉じる。
そして最後にもう一度だけ、
彼女みたいに世界を言葉へ変えてみる。
「クリスマスの深夜」
「部屋は暗く、窓の外の街灯だけが床へ菱形の光を落としている」
「暖房の中を流れる水の音は、地面の下を流れる川みたいに静かだ」
「遠くを車が一台通り過ぎる」
「音は近づき、また遠ざかる」
「訪ねてきて、何も言わず帰っていく客みたいに」
「僕の呼吸は静かで深い」
「息を吸うたび少しだけ力を集め」
「息を吐くたび、一日の疲れを手放していく」
「布団は少し重たい」
「でも温かい」
「大地に抱かれて眠るみたいに」
そして。
その静けさの中で、僕はようやく理解した。
誰かがそばにいてくれる時間は、
いつか一人で歩いていくためにあるのかもしれない、と。
そう思った瞬間、
胸のどこかが、ふっと軽くなった。
長いあいだ背負っていた荷物を、
ようやく下ろしたような気がした。
その荷物の名前は――
「永遠」。
永遠は、
思っていたよりずっと短かった。
秋から冬へ移り変わる、
たった一つの季節ほど。
一冊の本を読み終えるまでの、
ほんのわずかな時間ほど。
まるで雪みたいだった。
降っているあいだは、
世界のすべてを覆ってしまうと思っていた。
けれど陽が差せば、
静かに溶けていく。
残るのは、
濡れた大地と。
記憶の中だけで、
いつまでも白く輝き続ける雪だった。




