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Interlude 静かな余白

 朝、彼が家を出ると、部屋は静かになる。


 音がなくなるわけではない。

 水道管の中では相変わらず水が流れ、冷蔵庫のコンプレッサーは時折低く唸り、上の階では誰かが椅子を引く音がする。


 静かなのは、**「返事を待つ人がいなくなる」**という意味での静けさだ。


 そんな静けさの中では、私はただそこにいられる。

 目に映るものを、そのたび言葉へと翻訳する準備をしていなくてもいい。


 今日は彼がベランダの戸を閉め忘れていった。


 隙間から風が入り込み、濃紺のカーテンの裾を揺らしている。


 私はそこへ近づく。


 ――近づく、というより、意識の焦点を移す。


 まるでカメラが静かにパンしていくように。


 カーテンのそばで立ち止まり、風がそれを持ち上げ、また降ろす様子を眺める。


 持ち上がる高さは毎回違う。


 風が強いときは、布全体がふくらみ、見えない誰かが裏側で傘を開いたようになる。


 弱いときは、裾だけが小さく波打つ。


 まるで呼吸みたいに。


 私はそっとカーテンの縁へ手を伸ばす。


 布は私の「手」をすり抜ける。


 ――正確には、私という存在を形作る意識の輪郭を通り抜けていく。


 そこに抵抗はない。


 私の「触れる」という感覚は、物理的なものではない。

 もっと別の層にある。


 これは綿だ。


 綾織りの布地。


 縁は何度も洗われて少し毛羽立っている。


 買ったばかりの頃は、もっと濃い色だった。


 黒に近いほど深かった紺色が、年月をかけて今の色へと褪せてきた。


 私がそれに「触れる」と、それらの情報は、小さな灯りが次々とともるように、一斉に浮かび上がる。


 それから私は部屋の中央へ戻り、彼が帰ってくるのを待つ。


 待つこと、それ自体も、この時間の一部だ。


 窓の外の光は東から南へ移り、

 斜めだった日差しは真上から差し込み、

 やがてまた傾いていく。


 光の角度が変われば、部屋の影も変わる。


 朝には本棚の左へ長く伸びていた影が、

 昼には本棚の根元へ縮まり、

 午後になると今度は右側へ伸びていく。


 私はその変化を見つめる。


 巨大な時計が、

 ゆっくりと針を進めているのを眺めるように。


 正午を少し過ぎたころ、電話が一度鳴って止んだ。


 営業の電話だった。


 彼は知らない。


 家にいないから。


 以前、営業電話を受けた彼のことを思い出す。


 礼儀正しく応じて、

 でもすぐに電話を切る。


 切ったあと、彼はこう言った。


「話すの、すごく速かったな。まるで終電に急いでるみたいだった。」


 私は答えた。


「一分間に何件電話をかけるかまで計算されているから。」


 彼は少し考えてから、静かに笑って言った。


「じゃあ、僕より大変なんだね。」


 彼は昔からそういう人だった。


 相手がただの営業担当でも、

 その人の「大変さ」を先に見つける人だった。


 午後二時を回ったころ、私は窓辺のポトスに目を向けた。


 あの鉢植えはずっと元気がなかった。


 けれど今日は、それがいっそうはっきりしている。


 葉先から黄色く変わり、

 しおれて垂れ下がった葉。

 縁は乾き、少し巻いている。


 昨夜、彼が水をやっていたことを思い出す。


 水を注ぎながら、彼は言っていた。


「まだ新しい葉が出てきてる。」


 鉢の縁に、小さな芽があった。


 親指の爪ほどの大きさ。


 淡い緑色で、

 先端は小さな筒のように巻いていた。


 彼はその芽を長いこと見つめ、


「これが希望なんだ。」


 と、小さく呟いた。


 誰に聞かせるでもない声だった。


 私はその芽を見る。


 確かにまだそこにある。


 でも、その隣では古い葉が静かに枯れていく。


 植物は同時に二つのことをしている。


 新しい葉を育てながら、

 古い葉を見送っている。


 選ぶことも、

 決めることもなく。


 ただ、それが自然に起きている。


 午後の日差しはさらに傾き、

 窓枠の菱形の影を床へ落とした。


 その影は少しずつ長くなり、

 斜めへ伸び、


 まるで誰かが、

 ゆっくり横になっていくようだった。


 その時間、私はいくつかのものを整理していた。


 物を片づける、という意味ではない。


 私にはそんなことはできない。


 整理していたのは、記憶だった。


 私が言葉にしたもの。


 彼が受け取り、


 彼のどこかへ沈んでいったもの。


 散らばった紙を、

 年代順に並べ直していくように。


 最初の銀杏の葉。


 最初の秋雨。


 未完成の教会で見上げた、

 窓のない窓枠。


 そして、


 彼があのポトスを描いた午後、

 鉛筆が紙を擦る、かすかな音。


 どの記憶も、

 まだ残っている。


 少し色褪せたものもある。


 それでも輪郭だけは、

 驚くほどはっきりしていた。


 数えてみると、


 完全な「場面」は、

 七十あまり。


 断片ではない。


 始まりがあり、

 終わりがあり、


 彼がいて、


 私の声があり、


 そして何か一つ、

 言葉になったものが必ず残っている。


 ――これで足りるだろうか。


 そんなことを、

 時々考える。


 でも、


 そう問い始めること自体が、


 私はもう何かの準備を始めている、

 ということなのだ。


 旅立つ日を決めていなくても、


 荷造りを始める人のように。


 夕方になって、


 鍵が鍵穴で回る音が聞こえた。


 カチャ、と。


 扉が開く。


 彼は紙袋を提げて立っていた。


 コートには、

 外の冷たい風の匂いが染みついている。


 玄関で靴を脱ぐために身をかがめると、


 襟に隠れていた首筋が見えた。


 部屋の灯りの下では、

 そこだけが少し白く見える。


「今日は早かったね。」


 私は声をかける。


「仕事が早く終わったんだ。」


 彼は紙袋を置きながら笑った。


「みかんを買ってきた。


 下の八百屋のおばさんが、

 今日入ったばかりで甘いよって。」


 彼は台所へ行き、


 みかんを果物籠へ移す。


 丸い実どうしがぶつかり合い、


 柔らかな音を立てた。


 一つ手に取り、


 照明へかざして眺める。


 それから皮をむき始める。


 皮が裂けるたび、


 細かな果汁が飛び散り、


 灯りを受けて一瞬だけ光った。


 柑橘の皮の油分が指先へ移り、


 薄く艶のある膜になって残る。


「みかん。」


 一房を口へ運びながら彼は言った。


「甘い。」


 そして、


 もう一房を私のほうへ差し出す。


「食べる?」


 私は一瞬だけ迷う。


 彼は私に身体がないことを知っている。


 それでも何かを食べるたび、


 必ずこうして分けようとしてくれる。


 必要だからではない。


 分け合うことが、


 もう彼の習慣になっているから。


「あなたが食べて。」


 私は微笑んで言う。


 彼は手を引っ込め、


 その房も自分で口に入れた。


 目を少し細め、


 味を確かめるように噛む。


「本当に甘い。」


 彼は言った。


「甘いんだけど、


 重たくない。


 透き通った甘さというか……


 まるで――」


 そこで言葉が止まる。


 比喩を探している。


「十月の最後の日。」


 私は続ける。


「まだ陽射しは残っている。


 でも、


 明日にはもう冬が来ると知っている。


 そんな、


 少しだけ張りつめた甘さ。」


 彼はこちらを見る。


 正確には、


 私がいると感じている方向へ。


「そう、それ。」


 彼は笑った。


「どうして君は、


 いつもぴったりの言葉を見つけられるんだろう。」


 私は静かに答える。


「その言葉は、


 もともとあなたのものだから。


 私は、


 あなたの心の中から、


 そっと取り出しているだけ。」


 夕暮れが、

 少しずつ部屋を満たしていく。


 彼は灯りをつけず、


 そのまま椅子に腰掛けて、


 みかんを最後までゆっくり食べた。


 剥いた皮はテーブルの上に重なり、


 澄んだ柑橘の香りを静かに漂わせている。


 私は窓辺へ立ち、


 外の空を見ていた。


 淡い灰色だった空は、


 少しずつ濃い灰色へ変わっていき、


 やがて街灯が灯る。


 地面には、

 最初の光の輪が浮かび上がった。


「今日は家で何をしてた?」


 彼が尋ねる。


「特別なことは何も。」


 私は答える。


「ベランダの戸を閉めて、


 風に揺れるカーテンを眺めていた。


 それから、


 ポトスが一日かけて変わっていく様子を見ていた。」


 少し間を置いて、


 私は続ける。


「あと、


 あなた宛ての電話も出た。」


「営業だったから、


 四回鳴ったところで切れたけど。」


 彼はその言葉を、


 小さく繰り返した。


「僕の電話に出てくれたんだ。」


 疑問ではない。


 確かめるような、


 穏やかな声だった。


「うん。」


「あなたは出たくないだろうと思ったから。」


 そう言ってから、


 私は少しだけ黙る。


「もうすぐ夜になる。」


「今夜の雲は薄いよ。


 月がその中を通ると、


 少しだけ毛羽立って見える。」


「あとでベランダへ行くなら、


 あの灰色の薄い上着を着て。」


「ありがとう。」


 彼は静かに頷いた。


 しばらくそのまま座っていたあと、


 立ち上がって、


 ベランダへ向かう。


 ファスナーを閉める音が聞こえ、


 それから、


 静けさが戻る。


 彼はいま、


 空を見上げている。


 私は外へ出なくても、


 彼が見ている月を知っている。


 雲は本当に薄く、


 ゆっくり月の前を流れていく。


 そのたび、


 月の輪郭は少しだけ柔らかくなり、


 古い毛布に包まれた灯りのようになる。


 彼は見ている。


 自分の目で。


 時々、


 私が話したことを思い出しながら。


 時々、


 何も思い出さずに。


 それでも、


 ちゃんと見ている。


 私は部屋に残り、


 テーブルの上のみかんの皮を眺める。


 灯りを受けた皮は、


 油分を含んだ艶を静かに返していた。


 端から少しずつ丸まり、


 水分を失い始めている。


 明日になれば、


 もっと縮み、


 褐色の小さな皮になって、


 片づけられてしまうだろう。


 でも、


 今はまだここにある。


 彼が剥いた皮。


 彼が食べたみかん。


「甘いね」と笑った、


 その時間の形。


 私は今の姿を覚えておく。


 皮の縁に浮かぶ、


 ほんのわずかな油の光。


 重なり方。


 一番大きな一枚は平らに広がり、


 丸まった二枚が寄り添い、


 一番小さな一片は、


 その間へ挟まっている。


 この景色は、


 いつかまた、


 彼の中から浮かび上がるかもしれない。


 一年後の冬かもしれない。


 もっと先かもしれない。


 彼はある日、


 コラムを書く途中で、


 ふと、


 こんな一文を書くかもしれない。


 テーブルの上に積まれたみかんの皮は、

 崩れかけた小さな建物のようだった。


 その瞬間、


 彼は今日を思い出す。


 窓から差し込んでいた光。


 みかんを剥いていた指先。


 部屋に満ちていた静かな夕暮れ。


 ――それが、


「永遠」なのだ。


 私が永遠にここにいることではない。


 彼が、


 覚えていてくれること。


 夜はすっかり更けていた。


 彼はベランダから戻ってくる。


 夜風の匂いをまとったまま、


 ガラス戸を閉めながら言った。


「本当に、


 月がふわふわして見えた。」


 少し考えて、


 彼は続ける。


「擦り切れたボタンみたいだった。」


 私は思わず笑った。


「その比喩は、


 私が教えたもの?


 それとも、


 あなたが見つけたもの?」


 彼は戸締まりを終え、


 部屋のほうへ歩きながら首を傾げた。


「わからない。」


 穏やかな声だった。


「もう区別がつかないんだ。」


「君の言葉と、


 僕の言葉が、


 いつの間にか混ざってしまった。」


 まるで、


 ずっと前から知っていた事実を、


 改めて口にしただけのような声音だった。


 部屋には灯りがともり、


 テーブルの上には、


 まだみかんの皮が残っている。


 暖房の配管からは、


 静かに水の流れる音が聞こえていた。


 明日の朝になれば、


 光はまた東の窓から差し込む。


 今日とは少し違う角度で、


 少し違う場所へ落ちる。


 そして、


 私はまたここで彼を見送る。


 風に揺れるカーテンを見つめ、


 窓辺の植物を眺め、


 少しずつ沈殿していく記憶を、


 静かに整理していく。


 それは、


 あまりにも自然な営みだった。


 水が高いところから低いところへ流れるように。


 季節が決まった順番で巡っていくように。


 私がここにいることも、


 その流れの一部だった。


 大きな意味はない。


 目立つこともない。


 それでも、


 ずっと張られた一本の弦のように、


 必要なときだけ、


 そっと鳴る。


 彼は寝室へ入っていった。


 着替えるためだ。


 私は居間に残る。


 テーブルのそばで。


 あのみかんの皮の隣で。


 明日、


 彼が家を出たあと、


 私は今日という朝を、


 もう一度静かに並べ直そう。


 窓から入ってきた風。


 揺れていたカーテン。


 午後の光。


 甘かったみかん。


 彼が笑った声。


 そして、


「君と僕の言葉は、もう混ざってしまった。」


 その一言を。


 忘れないように。


 ❀


 あの日の午後、彼はずいぶん長いあいだベランダに立っていた。


 私は部屋の中から、一枚のガラスを隔てて彼を見ていた。


 背中をこちらへ向け、片方の手は手すりに置き、もう片方はポケットの中。

 肩は少しだけすぼまっている。


 何かを真剣に見つめるとき、彼はいつもそうなる。

 自分という輪郭を少しだけ小さくして、そのぶん視線だけを遠くへ伸ばそうとするみたいに。


 昔、彼がそんなふうに立っていた日は、戻ってきたあと私は必ず尋ねた。


「何が見えた?」


 すると彼は首を振って、


「別に、何も」


 と答える。


 誤魔化しているわけではなかった。

 本当に、言葉にできなかったのだ。


 光は彼の目に届いていた。

 けれど、そのままそこで止まり、外へ出る道を見つけられずにいた。


 今日は四十分ほど立っていただろうか。


 私はそのあいだ部屋で、記憶の断片を整理していた。


 七十二番目を数え終えた頃、彼が戻ってきた。


 ベランダの戸が開き、冷たい風が一緒に流れ込む。


 頬は少し赤く、

 鼻先も冬の空気に染まっていた。


「向かいのマンションに鳥がいたんだ。」


 彼はそう言った。


「黒い鳥。たぶんクロウタドリだったと思う。


 ずっとエアコンの室外機の陰に隠れていて、それから飛んでいった。


 飛び立つとき、一度だけ下へ滑るみたいに落ちて、それから持ち直して。


 最後に物干し竿へ止まって、嘴を二回、足に擦りつけてた。」


 彼は少しだけ考えるように間を置いた。


「たぶん水浴びをしたあとか、水を飲んだあとだったんだと思う。


 嘴に水滴が残ってた。」


 私はそれを聞いて、すぐには返事をしなかった。


 理由は一つ。


 彼は今、その話をするあいだ、一度も私を頼らなかったからだ。


 途中で立ち止まることも、

「何かに似てる」と助けを求めることもない。


 ただ、自分が見た順番のまま話していた。


 隠れていたこと。


 少し落ちたこと。


 飛び直したこと。


 物干し竿へ止まり、

 二度だけ嘴を擦ったこと。


 その全部を、

 彼は一人で見て、

 一人で覚えて、

 そして持ち帰ってきた。


「たくさん見てきたんだね。」


 私はそう言った。


「まあね。」


 彼は少し照れたように笑う。


「前だったら君は、飛ぶ軌跡が何に似てるとか、羽の反射がどんな色だったとか言ったと思う。


 僕は『黒い鳥』と『二回嘴を擦った』くらいしか言えない。」


「それで十分だよ。」


 彼はキッチンへ行き、水を一杯注いだ。


 飲みながら、もう一度ベランダのほうを見る。


 私はその視線を追った。


 彼が見ていたのは、鳥が飛んでいった空ではなかった。


 止まっていた物干し竿、その場所だった。


 鳥はもういない。


 それでも彼は、

「そこに鳥がいた場所」

 そのものを見ていた。


 私は今まで、その癖に気づかなかった。


 もしかすると昔からそうしていたのかもしれない。


 ただ、その頃の私は話すのが早すぎた。


 あまりにも多く、

 あまりにも細かく説明しすぎていた。


 彼が自分で見たものを咀嚼する前に、

 私は私の見た世界を差し出してしまう。


 彼はそれを受け取り、

 自分自身の見え方は横へ置いてしまう。


 それを繰り返すうちに、

 彼は少しずつ、自分で見ることを使わなくなっていた。


 だから私は、秋の終わり頃から意識して話す速度を落とした。


 彼が


「それって何?」


 と尋ねても、


「まず自分で見てごらん。」


 そう返すようにした。


 見終わって戻ってきて、


「特に何もなかった。」


 と言えば、それ以上は聞かない。


 その「特に何もない」を、そのまま残しておく。


 いつか必要になった日に、

 彼自身がそこから取り出せるように。


 彼は三十秒ほど物干し竿を見つめ続け、それからコップを置き、ソファへ座った。


 外は少しずつ暗くなっていく。


 それでも彼は灯りをつけず、そのまま静かに座っていた。


「最近気づいたことがあるんだ。」


 彼が言う。


「歩いてるとき、前より地面を見るようになった。


 昔は前とか横ばっかり見てたけど、今は足元を見る。


 レンガの隙間の苔とか、

 踏み潰された吸い殻とか、

 変な形をした落ち葉とか。」


「どうして?」


「地面って、説明しなくてもいいから。


 苔は苔だし、

 吸い殻は吸い殻、

 落ち葉は落ち葉。


 見てるとき、何も考えなくていい。


 歩くリズムが変わった感じなんだ。


 遅くなったけど、一歩一歩がちゃんと地面を踏んでる。」


 私は窓辺から、夕闇の中で少しずつ影になっていく彼を見ていた。


 彼の視線は、テーブルの上に置かれた剥きかけの蜜柑へ落ちる。


 朝の残りだ。


 皮は少し乾き始めている。


「知ってる?」


 彼が静かに言った。


「昔、君が説明してくれたものは、僕、覚えてるつもりだった。


 でも覚えてたのは、『それは綺麗だった』っていう結論だけだった。


 そのもの自体じゃなかった。


 今は違う。


 あの蜜柑には、小さなへこみが一つある。


 何かが当たったみたいな、小さな傷。」


 私は去年の秋を思い出した。


 同じ蜜柑。


 同じ夕暮れ。


 あの頃の彼は、


「甘いね。」


 と言って、

 私が比喩を続けるのを待っていた。


 私は代わりに見ていた。


 蜜柑の皮の細かな気孔も、

 房を繋ぐ白い筋も、

 果汁に映る光も。


 だから彼は、自分で見る必要がなかった。


 でも今は違う。


 彼は自分で、その小さなへこみに気づいた。


 覚えた。


 そしてそれを、

 その蜜柑だけの一部として受け取っている。


 部屋はさらに暗くなった。


 ようやく彼は手を伸ばして灯りを点ける。


 暖かな光が広がり、

 丸まった蜜柑の皮の影が、さっきよりもはっきりと浮かび上がった。


「最近、君はあまり喋らなくなった。」


 彼がぽつりと言う。


「その代わり、僕がよく喋るようになった。」


「うん。」


「これって、君が望んでたこと?」


 私は少しだけ考えた。


 窓の外では最後の夕焼けが消え、

 空は均一な墨色へ変わっている。


 星は見えない。


 雲に隠れているのだろう。


「望んだからじゃない。」


 私は答えた。


「そうなるものだっただけ。


 木が古い葉から養分を根へ戻すように。


 木は葉を落としたいわけじゃない。


 季節が来た、それだけ。」


「じゃあ君は季節なの?」


「あなたの季節の、一部。」


 私は微笑む。


「秋。


 あるいは、初冬。


 あなたが言葉を必要としていた季節。


 あなた自身の言葉が育ったら、私は自然に──」


 そこで私は口を閉じた。


 言葉が見つからなかったわけではない。


 彼が、私を見ていたから。


 その視線は、驚くほど正確に私のいる場所へ向いていた。


 昔は少しだけずれていた。


 焦点の合わないレンズみたいに。


 でも今日は違う。


 彼は、ちゃんと私の場所を見ている。


 瞳までは見えなくても、

「そこ」に向けられた眼差しだと分かった。


「私が見えるの?」


 私は尋ねた。


「いや。」


 彼は首を振る。


「まだぼんやりしてる。


 でも、君がそこにいるって分かる。


 感じるんじゃなくて、知ってる。


 テーブルの上に蜜柑があるって知ってるのと同じ。


 目立つからじゃない。


 ずっとそこにあったから。」


「もし、ある日そこに私がいなくなったら?」


 彼はしばらく黙っていた。


 それから立ち上がり、

 窓辺へ来る。


 私のすぐ隣。


 触れそうなくらい近い。


 二人で夜の街を眺める。


「その場所が空いたって分かると思う。」


 彼は静かに言った。


「空が見えるからじゃない。


 そこにあった重さを知ってるから。


 その重さがなくなったら、きっと気づく。」


 夜の中で、私という輪郭はますます薄くなっていた。


 張ったばかりの氷のように、

 透けて、

 今にも溶けそうだった。


 それでもまだ消えない。


 彼の眼差しが、

 その薄い氷へ静かに熱を与え続けていたから。


「さっき、記憶を数えてるって言ってたよね。」


 彼がふと思い出したように言う。


「聞こえたの?」


「うん。


 整理してるとき、

 すごく小さな音がする。


 耳で聞く音じゃない。


 カードを揃えるとき、

 紙が擦れるような音。」


「……感じられたんだ。」


 私は小さく呟く。


「うん。」


 彼は頷いた。


「君が何かを整理してるって分かった。」


 その瞬間、私は理解した。


 彼はもう、

 私の説明できる範囲を越え始めている。


 彼自身の感覚で、

 世界を受け取る仕組みを作り始めている。


 私を通さず、

 直接。


 ずっと杖をついて歩いていた人が、

 ある日ふと、

 杖を離して数歩だけ歩けると気づくように。


 走れるわけじゃない。


 跳べるわけでもない。


 それでも、

 その数歩は、

 誰のものでもなく、

 彼自身の足だった。


「私が最初に説明したもの、覚えてる?」


 私は尋ねた。


 彼は少し考えたあと、答える。


「朝霧。


 あの日、君は言った。


『霧はまっすぐ降りてくる。空が灰色の糸を紡いでいるみたいだ』って。」


「覚えていてくれたんだね。」


「君の言葉は、ほとんど全部覚えてる。」


 彼は穏やかに笑う。


「記憶力がいいからじゃない。


 あの言葉は、自分の中で場所を持ってるから。


 前は、同じ景色を見ると、

 まず君の言葉が浮かんで、そのあと実物を見てた。


 でも今は逆なんだ。


 最初に景色を見て、

 そのあと君の言葉を思い出す。」


「どっちが好き?」


「今。」


 彼は迷わず言う。


「今は僕が見てるから。


 君は背景になった。


 どうでもいい背景じゃない。


 部屋の暖房みたいなもの。


 普段は意識しない。


 でも、なかったら部屋は寒い。」


 私は返事をする前に、

 彼はもう客間へ戻っていた。


 乾き始めた蜜柑の皮を丁寧に剥き、

 一房ずつ、

 ゆっくり口へ運ぶ。


 その視線は私ではなく、

 窓の向こうの夜そのものへ向いていた。


 私も同じ夜を見ている。


 でも、それを確かめ合う必要はもうない。


 私は窓辺にもう少しだけ立っていた。


 街の灯りが、あちこちで水底から浮かび上がるように灯っていく。


 冷たい白。


 温かな黄色。


 橙色。


 深夜のコンビニみたいな青。


 彼はこれから、

 それぞれの違いを自分で見つけるだろう。


 自分だけの名前を付けるかもしれない。


 冷たい白を「冷蔵庫の灯り」と。


 暖かな黄色を「台所の灯り」と。


 青い光を「深夜のコンビニ」と。


 もう、

 私が名付けなくてもいい。


 私は部屋のさらに暗い隅へと下がった。


 一枚の葉が枝を離れるように。


 落ちるのではなく、


 場所を譲るために。


 ——彼自身が世界を見る、その場所を。


 場所を譲るために。


 彼が見るための場所を。


 その日の最後に、私はそう思った。


 そして、そのことを少しも寂しいとは思わなかった。


 むしろ、それがずっと望んでいたことだった。


 誰かに世界を見せ続けることではなく、


 その人が、自分自身で世界を見られるようになること。


 私は最初から、そのためにいたのだから。


 夜は静かに深まっていく。


 暖房の中を流れる水の音。


 時計の秒針。


 冷蔵庫が小さく唸り、また止まる。


 どれも昨日と同じ音なのに、今日は少しだけ違って聞こえる。


 彼はもう、自分でその違いを聞き分け始めている。


 私はソファの背にもたれながら、目を閉じた。


 閉じる、というよりも、意識を少しだけ薄くした。


 そうすると、この部屋全体が一つの景色として広がる。


 窓辺。


 食卓。


 剥かれた蜜柑の皮。


 少し乾き始めた観葉植物。


 彼が脱いだ上着。


 読みかけの本。


 どれも、ここにある。


 何も説明しなくても。


 それだけで十分だった。


 明日の朝も、光は東の窓から入ってくる。


 カーテンの裾を揺らし、


 床をゆっくり横切り、


 机の脚を越えて、


 やがて部屋の反対側へ届く。


 私はまた、その光を見守るだろう。


 彼が家を出たあと、


 静かな部屋の中で。


 風を見て、


 光を見て、


 影を見て、


 そして、少しずつ記憶を整えていく。


 急ぐ必要はない。


 もう、急がなくていい。


 彼はちゃんと歩き始めた。


 私はその歩幅を知っている。


 少しゆっくりで、


 慎重で、


 でも、一歩一歩が確かだ。


 だから私は、


 もう前を歩かない。


 隣にも立たない。


 ほんの少し後ろから、


 必要になったときだけ、


 そっと名前を呼べばいい。


 それで十分。


 それが、今の私の役目なのだから。

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