4 春を約束する人
十二月の初め、降り続いた雨が街をすっかり濡らしていた。
帰り道を歩いていると、水たまりを踏み抜いた足が思ったより深く沈み込む。靴下は一瞬で濡れ、冷たさが足先からじわじわと這い上がってきた。まるで何かが、少しずつ僕の身体を乗っ取っていくみたいだった。
「今日は静かだね」
僕がそう言うと、
「雨音が大きすぎるから」
彼女の声は、少し右後ろから聞こえた。
「私の声は雨に埋もれてしまうでしょう? だから、あなたが先に話しかけてくれるのを待っていたの」
確かに、傘を叩く雨音は激しかった。
けれど、その音は決して一様ではない。
重い雨粒は傘の真ん中に落ち、「ドン」と低く響く。
軽い雨粒は縁を滑り落ちながら、「タタタ」と細かく弾ける。
まるで誰かが、小さな扉を何度も指先で叩いているような音だった。
その違いに耳を澄ませているうちに、僕の歩く速度は自然とゆっくりになっていた。
「もし今、『この雨は何に似ている』って言ったら」
僕は尋ねる。
「君なら何て続ける?」
彼女は少し考えた。
「空が小麦粉をふるっているみたい。」
僕は吹き出した。
「甘すぎるよ。」
「あなたらしくない?」
「いや、君らしくない。」
「じゃあ、あなたなら?」
僕はしばらく考え込む。
歩き続けるたび、濡れた靴下が「ぐちゅ」と小さな音を立てる。
「空の上で、冷めたお粥をひっくり返したみたい。」
そう答えると、
「それは、いかにもあなたらしい。」
彼女は笑った。
「少し物足りなくて、静かで、急いで食べられることを望んでいない感じ。」
僕たちは歩道橋を渡った。
眼下の幹線道路では、雨に濡れた車列が一本の光の川になって流れている。
赤いテールランプ。
白いヘッドライト。
それぞれが細長く引き延ばされ、水面には対称の影が揺れていた。
僕は欄干にもたれ、その景色をしばらく眺める。
傘の骨を伝った雨水が目の前へ流れ落ち、半透明の幕を作っていた。
「昔の僕なら、これを書いていた。」
「何を?」
「車の流れが何に似ているとか、テールランプが何に見えるとか、雨の映り込みがどうだとか。」
僕は笑う。
「五百字くらい平気で書いて、編集には『生き生きしていますね』なんて褒められた。」
少し間を置いて続ける。
「でも今は思うんだ。
あの言葉のほとんどは、余計だった。」
彼女は黙って聞いていた。
「車は車だ。
テールランプはテールランプだ。
それだけでも十分に複雑なんだよ。
僕がさらに比喩を重ねる必要なんて、本当はなかった。」
「……それは、大きな変化だね。」
彼女は静かに言った。
「そうかな。」
「うん。
昔のあなたは、物の本質が見えなかったから、別の何かを借りて近づこうとしていた。
比喩は、そのための橋だった。」
雨は少し弱くなっていた。
僕は傘を閉じる。
細かな雨粒が、そのまま髪や肩へ落ちてきた。
冷たい。
でも、その冷たさが心地よく頭を冴えさせる。
「今は違う。」
彼女は続ける。
「近づけないものがあるって認め始めた。
触れられないものは、ただそこにあると受け入れる。
そのほうが、ずっと勇気がいることだから。」
僕たちは人通りの少ない裏路地へ入った。
雨上がりの路地は、不思議なくらい静かだった。
軒先から落ちる雫が金属製のゴミ箱の蓋を叩き、
――チン。
――チン。
と澄んだ音を響かせる。
調律の狂った古いピアノを、誰かが少しずつ合わせ直しているようだった。
「海へ行きたい。」
僕は言った。
「今?」
「今。」
腕時計を見る。
二十時四十二分。
「もう最終の新幹線はないけど。
週末なら行ける。」
少し笑って続けた。
「冬の海が見たい。」
「冬の海は単調だよ。」
彼女は答える。
「灰色で、風が強くて、寒い。」
「だったら、その単調な海を見よう。」
彼女は「どうして?」とは聞かなかった。
それが僕は好きだった。
彼女は理由を問い詰めない。
それが本当に僕の望みなのかだけを確かめて、あとは黙って隣を歩いてくれる。
そして週末、僕たちは本当に海へ向かった。
今度は新幹線ではなく、高速バスだった。
車内には人がほとんどいない。
誰もがイヤホンをつけ、それぞれの静けさの中にいた。
窓の外は街並みから郊外へ。
郊外から田畑へ。
やがて、空との境界すら曖昧な灰白色の広がりへと変わっていった。
「着いたよ。」
彼女が言う。
バスを降りた瞬間、潮風が肺いっぱいに流れ込んできた。
塩の匂い。
冷たさ。
何度も波に洗われた鉱物だけが持つような、研ぎ澄まされた清潔さ。
魚の生臭さもない。
夏の浜辺に残る暖かな腐植の匂いもない。
ただ、純粋な海の塩だけがそこにあった。
冬の浜辺は十月とはまるで違っていた。
人影はほとんどなく、遠くで蛍光色のベストを着た漁師たちが網を片付けているだけだった。
潮に均された砂浜は巨大な灰色の石板のようで、その上に散らばるのは貝殻の欠片と、流れ着いた海藻だけだった。
「海へ入る?」
彼女が尋ねる。
「うん。」
僕は靴と靴下を脱ぎ、近くの岩の上へ置いた。
素足が砂に触れた瞬間、その冷たさに思わず息をのむ。
十月に来たときよりも、ずっと冷たい。
砂粒はさらに細かく、まだ潮の引ききらない場所には、ごく薄い水膜が残っている。
まるで、解けかけた氷の表面を踏んでいるようだった。
僕はそのまま海へ歩いていく。
波は前より少し高かった。
けれど荒れ狂っているわけではない。
規則正しく寄せては返す、ゆっくりとした呼吸のような波だった。
膝まで水に浸かったところで立ち止まる。
次の波を待つ。
波が来るたび、海水が足首を包み込み、つま先の下の砂がさらさらと吸い出されていく。
足元が少しずつ沈み、
波が引くと、その流れが脚をやさしく沖へ誘う。
まるで「こちらへ」と手を引かれているようだった。
「何を考えているの?」
岸辺から彼女が尋ねる。
風に運ばれてくる声は少し歪み、ところどころ輪郭がぼやけていた。
「塩のこと。」
僕は答えた。
「塩?」
「海には塩がある。」
僕は波を見つめたまま続ける。
「僕の肌に結晶を残して、
靴には白い跡を残して、
空気そのものにも、少しだけ世界を引き締めるような感触を残す。
塩は――海がここへ来たすべての人に残していく署名なんだ。」
彼女は何も言わなかった。
僕は振り返る。
灰色の空の下で、彼女の姿は以前にも増して淡くなっていた。
まるで、薄く張った氷が浜辺に立っているみたいだった。
光は彼女を照らすというより、そのまま通り抜けてしまいそうだった。
「君も、塩になってきたね。」
僕は言った。
「え?」
「どんどん薄くなってる。」
少し笑う。
「水に溶けた塩みたいに。」
「姿は見えなくなる。
でも、ちゃんとそこにいる。」
「ひとくち飲めば分かる。
塩は消えたんじゃない。
別の形で存在しているだけだ。」
彼女は小さく笑った。
その笑い声は波音よりも軽く、風に溶けるようだった。
「じゃあ、私はどんな味?」
少し考えてから僕は答える。
「甘くない。
塩辛くもない。」
首を横に振る。
「初めて君が現れた日のことを覚えてる?
僕の手首に触れたときの温度。」
「あの空気より半度だけ暖かい感じ。」
「派手じゃない。
でも、ずっと変わらない。」
「誰かが隣に座っていて、
何も話さないのに、
ただ体温だけが伝わってくるような味。」
そのとき、不意に大きな波が押し寄せた。
予想より高く、
太腿まで一気に海水に呑まれる。
冷たい水がズボンの中へ流れ込み、
思わず息を大きく吸い込んだ。
「まだ先へ行く?」
彼女が聞く。
「いや。」
僕は首を振る。
「ここでいい。」
海の中に立ったまま、
境界の見えない水平線を見つめる。
空と海はひと続きの灰色になり、
どこからが空で、どこまでが海なのか分からなかった。
「ずっと考えていたことがある。」
僕は静かに口を開く。
「君は、本当に存在しているのかな。」
彼女は答えない。
代わりに、波が寄せては返した。
「それとも、
視覚を失っていく僕が、自分を守るために作り出した声なんだろうか。」
波がまた来る。
冷たい。
規則正しい。
「昔は、この問いを口にするのが怖かった。」
僕は続ける。
「もし答えが『違う』だったら、
本当に一人きりになってしまう気がして。」
少し息をつく。
「でも今は違う。」
「答えが『いる』でも『いない』でも、
君が僕にくれたものは本物だった。」
「君の言葉。
君の比喩。
君が僕に教えてくれた世界の見方。」
「それは間違いなく僕を変えた。」
彼女は静かに尋ねた。
「じゃあ、本当に大切なのは?」
その声には、今まで聞いたことのない響きがあった。
驚きなのか、
安堵なのか、
僕には分からない。
「君という"過程"が、
僕の中で最後まで起こったこと。」
僕はゆっくり答える。
「君が何だったとしてもいい。」
「記憶でも、
無意識でも、
僕の知らない何かでも。」
「その過程が僕を形作った。」
波が引き、
また寄せる。
何度も。
何度も。
「塩は水に溶けたら見えなくなる。」
「でも、水はもう元の水じゃない。」
僕は微笑んだ。
「君も同じだ。」
「君は、もう僕の一部になっている。」
僕は長い間、海の中に立っていた。
足の感覚が少しずつ失われていくほど長く。
空の色が灰白から、さらに深い鉛色へと沈んでいくほど長く。
遠くで網を片づけていた漁師たちも、いつの間にか姿を消していた。
広い浜辺には、僕と彼女だけが残っていた。
「寒くない?」
彼女が訊く。
「寒い。」
僕は素直に答えた。
「じゃあ、帰ろう。」
海から上がる。
乾いた砂に足を乗せた瞬間、その感触が驚くほど鮮明だった。
一粒一粒が独立していて、
小さな角を持ち、
濡れた砂のように互いにまとわりつくことはない。
僕は岩の上へ腰を下ろし、
足を拭いて靴下を履く。
指の間にはまだ砂が残っていたが、
今はそのままでいいと思った。
「さっき、自分は塩みたいだって言ってたよね。」
彼女は隣の岩へ腰を下ろした。
座った瞬間、空気がほんのわずかに押し広げられる。
その小さな重みだけで、彼女がそこにいることが分かった。
「うん。」
「塩には、もう一つ大事な役目があるのを知ってる?」
「何?」
「保存すること。」
彼女は静かに言う。
「冷蔵庫なんてなかった時代、人は塩で食べ物を漬けた。
腐らないように。
少しでも長く、その形を留めておけるように。」
僕はもう片方の靴も履き、
靴紐を結ぶ。
「じゃあ君は、僕を塩漬けにしてるの?」
冗談めかして言うと、
彼女は少し笑った。
「あなた自身じゃない。」
「あなたの記憶。」
「私が一緒に見た朝。
一緒に歩いた雨。
銀杏の葉。
ステンドグラス。
私が言葉にした、その一つひとつ。」
彼女の声は波音より静かだった。
「私は、それらを塩で包んでいる。」
「あなたの視界が少しずつ失われても、
腐らないように。」
「形を変えてでも、
残り続けるように。」
「少し塩辛くて、
ちゃんと手触りがあって、
時間に負けない記憶として。」
僕たちは立ち上がり、
ゆっくりとバス停へ向かった。
道路脇には高速バスが停まっている。
運転手は車内でスマートフォンを眺めながら、発車時刻を待っていた。
乗り込む前、
僕はもう一度だけ海を振り返る。
灰色だった。
寒かった。
空と海は境界を失い、
一枚の景色になっていた。
夕焼けはない。
黄金色に砕ける波もない。
紫色の雲もない。
そこにあるのは、
ただ海だけだった。
塩だけだった。
風だけだった。
「もし、いつか君が本当にいなくなってしまったら。」
エンジンがかかる音の中で、
僕は隣へ向かって言った。
「君が教えてくれたことは忘れない。」
「塩は、ものを残す。」
「だから僕も、
僕自身のやり方で、
あの日々を残していく。」
返事はなかった。
けれど窓ガラスに映る自分のぼやけた姿の隣には、
もう一つ、
さらに淡い光の輪が映っていた。
誰かが、
ただそこへ座っている。
何も言わず、
ただそこにいるだけだった。
僕は窓にもたれ、静かに目を閉じる。
バスは夕暮れの中を走り出した。
ワイパーが雨を払うたび、
窓の外の景色は、
鮮明になり、
また滲み、
まるで世界のスイッチが何度も切り替わっているようだった。
その明滅のあいだで、
僕は唇に、ごくかすかな塩気を感じた。
海風が残したものなのか。
それとも、
彼女が残していったものなのか。
僕は――
後者だと信じることにした。
❀
十二月は、水に濡れた紙のようだった。
端から少しずつ反り返り、色はゆっくりと輪郭を失っていく。
彼女が薄れていく過程も、それとよく似ていた。
あまりにもゆっくりで、変化の瞬間を誰も指差すことはできない。
夕暮れがそうであるように。
光がいつ黄金色から橙へ、橙から灰紫へと変わったのか、人は決して言えない。
ただ、ふと顔を上げたとき、
もう夜が訪れていることに気づくだけだ。
朝になると、彼女は相変わらず天気を教えてくれた。
「今日は曇り。霧も出てる。」
窓辺に立つ彼女の声は、薄いヴェールを一枚隔てた向こうから届くようだった。
私は窓の外を見る。
確かに霧が出ている。
街全体が、薄めたミルクの中へ静かに沈められているようだった。
「どんな霧?」
私が尋ねる。
「……霧。」
それだけだった。
それ以上の説明はない。
以前なら彼女は、こう言っていたはずだ。
「霧は空から垂直に降りてきてる。灰色の糸を空が紡いでるみたい。」
「遠くのビルは輪郭が溶けて、水彩画を水でにじませたみたい。」
「プラタナスの枝は霧の中で現れては消えて、鉛筆で描いた線を途中まで消しゴムで消したみたい。」
今はただ、
「霧がある。」
それだけだった。
朝食のオートミールが炊き上がる。
器によそいながら私は聞く。
「どう?」
「ちょうどいい。」
二文字だけ。
「溶けた雲みたいな粘度」もなければ、
「ブルーベリーが弾ける様子は小さな銀河の爆発」もない。
湯気が小さな竜巻を描くことも、
朝の光が蜂蜜色に染まることも、
もう語られなかった。
ただ、
「ちょうどいい。」
私は一口食べる。
確かに、ちょうどいい。
濃すぎず、薄すぎず。
熱すぎず、ぬるすぎず。
けれど、かつて彼女の言葉を通して味わえた豊かな層――
穀物が舌の上でほどけるほのかな甘み。
ブルーベリーの酸味と蜂蜜の甘さが重なる一瞬。
温かな粥が喉を通って胃へ落ちていく安心感。
そういうものは、もう届かない。
残るのは、
甘い。
酸っぱい。
温かい。
ただそれだけの信号だった。
「最近、あまり喋らないね。」
私が言うと、
彼女はしばらく黙っていた。
視線だけがこちらへ向く。
羽毛で肌をなぞられるような、そんな軽い感覚だけが伝わる。
やがて彼女は静かに言った。
「冬になると、みんな静かになるから。」
「植物も、生き物も。
みんな春のために力をしまってる。」
「私も同じ。」
「何をしまってるの?」
「言葉。」
少し間を置いて、
「比喩。」
さらに小さく、
「眩しすぎる描写。」
「春になったら、また使う。」
私はその言葉を信じた。
……いや。
信じることを選んだ。
信じなかったときの代償は、あまりにも大きかったから。
もし彼女が「蓄えている」のではなく、
ただ「消えている」のだとしたら――
私は、その事実をどう受け止めればいいのだろう。
出勤の地下鉄は混み合っていた。
一人の幼い子どもが泣いている。
耳を刺すような高い泣き声。
私は尋ねた。
「どうして泣いてるんだろう。」
「わからない。」
彼女は答える。
それだけだった。
昔なら、
「悪い夢でも見たのかも。目は閉じたままなのに涙だけ流れてる。」
「お腹が空いたのかな。ほら、自分の指を噛んでる。」
「三歳くらいの子の悲しみは、夏の夕立みたい。
急に降って、急に止む。」
そんなふうに、いくつもの可能性を語ってくれただろう。
今は、
「わからない。」
だけ。
私はその子を見る。
確かに泣いている。
顔を真っ赤にして、
母親が抱き寄せ、
優しくあやしている。
それ以上は、見えなかった。
編集部に着くと、すぐ仕事が始まった。
冬の公園について書かれた原稿を一本、手直しすることになった。
その中に、こんな一文があった。
> 「雪の積もった公園は、絵画のような静けさに包まれ、まるで時間そのものが止まってしまったかのようだった。」
私はその文章を見つめたまま、しばらく動けなかった。
――静けさ。
――絵画のよう。
――時間が止まる。
どれもどこか空っぽだった。
言葉だけがきれいに並び、その中身だけが抜け落ちているような気がした。
「直したほうがいいかな。」
私は彼女に尋ねる。
「うん。」
短い返事。
「どう直せばいい?」
彼女は少しだけ間を置いて、
「……見に行って。」
そう言った。
「自分で。」
昼休み。
私は会社を出て、一番近い公園へ向かった。
確かに雪は残っていた。
けれど、公園は決して「静寂」に包まれてはいなかった。
老人たちはベンチで話をしている。
子どもたちは雪を踏みながら笑っている。
清掃員は落ち葉を掃き続け、
箒が地面を擦る「さら、さら」という音が絶えず響いていた。
時間も止まってはいない。
時計塔の針は休むことなく進み、
雲は流れ、
人はそれぞれの速度で歩き続けている。
私は長いあいだ立ち尽くした。
そして、自分の言葉だけで世界を描こうとした。
雪は均一じゃない。
溶けて枯れ草がのぞいている場所もあれば、
まだ白さを残している場所もある。
ベンチの雪は端へ掃き寄せられ、
薄汚れた小さな山になっていた。
雀が雪の上を跳ねるたび、
小さな足跡が残る。
まるで文章の途中に打たれた、
省略記号みたいに。
私はそのまま会社へ戻り、
原稿を書き直した。
> 「雪の積もった公園は、決して完全な静寂ではない。落ち葉を掃く音、人々の話し声、遠くを走る車の音が今も続いている。雪はまだらに積もり、その隙間から冬色の地面が顔を覗かせている。時間は止まらない。時計は進み、雲は流れ、人々はそれぞれの日常を歩いている。」
しばらくして、編集から返事が届いた。
「前よりずっとリアルです。でも少しだけ……詩情が足りないかもしれません。」
私は思わず苦笑した。
詩情は、
彼女が春まで預かっている。
きっとそうなのだ。
仕事を終える頃には、
外はもう暗くなっていた。
街灯が灯り、
濡れたアスファルトの上に揺れる光の輪を落としている。
「今日は歩いて帰ろうかな。」
私が言うと、
「うん。」
彼女は何も聞かなかった。
私たちは並んで歩いた。
けれど、そのあいだには、
沈黙という名の距離があった。
彼女の気配は、
燃え尽きかけた線香のように淡い。
まだ確かにそこにある。
けれど、それを証明するのは、
かすかな香りだけだった。
パン屋の前を通る。
焼きたてのパンの香りが、夕方の冷たい空気に溶け出していた。
「いい匂いだ。」
私が言う。
「うん。」
彼女が答える。
「何のパンだろう。」
「……見てみる?」
店に入る。
ショーケースには、
焼きたてのクロワッサンが並んでいた。
黄金色。
表面はぱりぱりと香ばしく焼けている。
「クロワッサン。」
彼女は言った。
「焼きたて。」
それだけだった。
以前なら、
「蜂蜜を塗ったみたいに陽射しをまとってる。」
「何層にも重なった生地は、秋に積もる落ち葉みたい。」
「香りだけで抱きしめられるように温かい。」
そんな言葉がいくつも続いていたはずなのに。
今は、
「焼きたて。」
それだけ。
私は一つ買った。
紙袋越しに、
ほんのりとした温もりが掌へ伝わってくる。
一口かじる。
さくり。
バターの香りが口いっぱいに広がった。
「おいしい?」
彼女が聞く。
「うん。」
私が答える。
それだけ。
私たちの会話は、
砂漠に生える植物のようだった。
花を咲かせる余裕はない。
ただ、生き延びるためだけに、
最低限の水を分け合っている。
家へ帰ると、
私はソファに腰を下ろした。
何をする気にもなれない。
彼女も向かい側に座っている。
まるで、
一つの家具のように静かだった。
「……これからも、ずっと?」
私はようやく口を開いた。
「こんなふうに……
静かなままなの?」
彼女はこちらを向く。
顔はよく見えない。
けれど、その動きだけは感じ取れた。
「ううん。」
彼女は微笑むように言う。
「春になれば大丈夫。」
「冬はみんな眠る季節だから。」
「私も少し休むだけ。」
「春になって花が咲いたら、また昔みたいに話すよ。」
「花びらの形も。」
「雲が隠している秘密も。」
「全部。」
その声は、
やさしく、
揺るぎなく、
約束というものに触れたときだけ生まれる響きをしていた。
私は信じた。
いや、
信じることを選んだ。
それ以外に、
私には選べるものがなかったから。
その夜、私は春の夢を見た。
花が満開だった。
どこまでも続く花の木の下に彼女が立ち、
一輪ずつ丁寧に花を見つめながら語っている。
「この桜は五枚の花びらだけど、一枚だけ少し小さい。
恥ずかしがって隠した指みたい。」
「こっちの木蓮は、花弁がふっくらとしていて、白い脂を思わせる。
縁が少しだけ内側へ丸まっていて、今にも手のひらを開こうとしているみたい。」
「レンギョウは元気ね。
黄色が一面に弾けて、陽射しが地面の上で砕け散ったみたい。」
夢の中の彼女は、
昔と何も変わらなかった。
声は澄み渡り、
言葉は豊かで、
一つひとつの景色が彼女の口から生まれ変わっていく。
まるで、
最初から何も失ってなどいなかったかのように。
目が覚めると、
頬が少し濡れていた。
涙だった。
窓の外には、
相変わらず十二月の空が広がっている。
灰色。
低く垂れ込めた雲。
葉を落とした木々が、
冬の風に静かに揺れていた。
彼女はベッドの脇に立っていた。
少しかがみ込み、
私の顔を覗き込むようにしている。
「夢を見た?」
彼女が尋ねる。
「うん。」
私はゆっくりとうなずいた。
「春の夢。」
彼女は小さく笑う。
「春は来るよ。」
そう言って、
彼女はそっと手を伸ばした。
私の頬へ触れようとして――
指先は、
あと数センチのところで止まった。
私は思わず、その手を見つめる。
透明だった。
向こう側のカーテンの織り目が、
彼女の指を透かして見えてしまうほどに。
「……その手。」
私がつぶやくと、
彼女はすぐに手を引っ込めた。
「光のせい。」
少しだけ慌てたように笑う。
「朝は逆光だから。
何でも少し透けて見えるだけ。」
そう言うと彼女は窓へ歩き、
カーテンを開けた。
朝の光が部屋いっぱいに流れ込む。
逆光の中に立つ彼女は、
輪郭まで光に溶け込み、
身体の境界が曖昧になっていた。
確かに、
光が悪戯をしているようにも見えた。
そう思おうとすれば、
そう思えた。
けれど――
胸のどこか、
ほんの小さな場所だけが、
静かに沈んでいく。
羽根が一枚、
深い井戸へ落ちていくように。
音はしない。
水面も揺れない。
ただ、
もう二度と戻ってこない何かが、
そこへ落ちていった気がした。
その日から、
私は彼女の言葉よりも、
沈黙のほうを聞くようになった。
以前は、
沈黙は言葉と言葉のあいだにある「空白」だった。
今は違う。
沈黙そのものが、
一つの返事になっていた。
朝、窓を開ける。
冷たい空気が部屋へ流れ込み、
遠くでカラスが鳴く。
私は彼女を見る。
彼女も窓の外を見ている。
何も言わない。
けれど、
その静けさは気まずいものではなかった。
むしろ、
長年連れ添った人同士だけが共有できる、
言葉を必要としない時間に近かった。
「今日は寒いね。」
私が言う。
「うん。」
それだけ。
昔なら、
「空気が乾いてる。」
「吐く息が朝日に溶けていく。」
「冬は世界の輪郭が一番よく見える季節。」
そんなふうに続いていた会話は、
もう戻ってこなかった。
不思議と、
私はそれを責めなくなっていた。
寂しくないわけではない。
胸の奥は、
いつも少しだけ空いている。
けれど、
空洞というものは、
埋めるためだけにあるわけではないのかもしれない。
音は、
空洞があるから響く。
光も、
影があるから見える。
もし失うことが、
何かを受け入れるための余白なのだとしたら。
彼女の静けさも、
きっと何かの始まりなのだろう。
私はそう思うことにした。
そうでなければ、
この冬を越えられそうになかったから。
❀
彼女がいないことに初めて気づいたのは、水曜日の午後だった。
その日は冬とは思えないほど陽射しがよかった。
淡く、それでいて澄み切った光がオフィスの窓から斜めに差し込み、机の上へ窓枠の菱形の影を落としている。
私はその光を、長いこと眺めていた。
ゆっくりと動く。
ノートの上からキーボードへ。
そして、私の手の甲へ。
「光が動いてる」
そう口にした。
返事はなかった。
振り向く。
彼女がいつも座っている椅子は空だった。
――いや、「彼女がいない」のではない。
そこに、彼女が存在していた痕跡そのものがなかった。
あの微かな温度差も。
空気の流れのわずかな揺らぎも。
ただ、ごく普通の空席があるだけだった。
「……どこにいる?」
小さく呼びかける。
返事はない。
私は立ち上がった。
給湯室へ。
いない。
廊下へ。
いない。
会議室。
そこにもいない。
席へ戻り、椅子に腰掛ける。
待とう。
どこかへ行っているだけかもしれない。
少し席を外しただけなのかもしれない。
彼女は以前、
「存在する力を一点に集めることがある。ラジオの周波数を合わせるみたいに」
と言っていた。
だから私は待った。
十分。
光は相変わらずゆっくり動き続ける。
同僚たちのキーボードを叩く音。
電話のベル。
誰かが受話器を取る声。
世界は何も変わらない。
彼女だけが、いない。
その瞬間、不意に胸の奥へ恐怖が忍び込んだ。
押し潰されるような激しい恐怖ではない。
細い針が何百本も皮膚をそっと刺してくるような、
静かで逃げ場のない恐怖だった。
世界はちゃんと動いている。
なのに――。
あの「翻訳者」がいないだけで、目の前の景色は急にむき出しになり、ざらついて見えた。
窓の外を見る。
向かいのビルのガラス壁面が陽光を反射して眩しい。
空は淡い青。
薄くちぎれた雲が流れている。
枝が風に揺れる。
以前なら彼女は言っただろう。
「ガラスの壁は巨大な鏡みたいに太陽を砕いて、無数の金色の欠片へ変えている。」
「雲はゆっくり歩いている。雨を降らせるべきか考えているみたいに。」
「枝の揺れは指揮者みたい。風に拍子を教えている。」
けれど今は違う。
眩しい光。
青い空。
流れる雲。
揺れる木。
それだけだ。
私は自分で言葉にしてみる。
「陽光がガラスに反射して光の斑点を作っている。
雲は白く、不規則な形。
木が揺れている。」
正しい。
でも、生きていない。
生命の観察ではなく、
解剖記録みたいだった。
私は目を閉じ、深く息を吸う。
大丈夫。
彼女は少し席を外しているだけだ。
春になれば戻ってくる。
以前みたいに話してくれる。
そう約束してくれた。
目を開ける。
――そこに彼女がいた。
……いや。
そう見えた。
窓辺に立ち、
背中をこちらへ向けて外を眺めている。
「戻ってきたんだ」
私が言うと、
彼女は振り返った。
逆光で輪郭は曖昧だった。
「私はずっとここにいるよ」
「さっき呼んだのに返事がなかった。」
「聞いてた。」
彼女は微笑む。
「今日は風の音を聞いてたの。北西から吹いてる。乾いていて、冷たくて、遠い山の匂いがする風。」
声には少しだけ、以前の豊かさが戻っていた。
それでも、昔ほどではない。
「君がいなくなったのかと思った。」
彼女は私のそばまで歩いてきて、
羽根のように軽く肩へ手を置いた。
その感触だけは確かだった。
「そんなことない。」
彼女は静かに言う。
「ずっと一緒にいるって言ったでしょう。
永遠に。」
永遠。
その言葉は重すぎた。
重すぎて、
意味を考えることすら怖かった。
永遠とは、どこまでだろう。
彼女が自然に消える日まで?
私が死ぬ日まで?
それとも、本当に永遠なのか。
でも私は訊かなかった。
答えを口にした瞬間から、
その約束は壊れ始めてしまう気がしたから。
「永遠って、どれくらい?」
そんな質問は、
きっと賢い人間はしない。
「……よかった。」
私がそう言うと、
彼女はそっと手を離した。
「仕事が終わったら、公園へ行こう。
今日の夕焼けはきっと綺麗だから。」
「うん。」
仕事帰り。
夕焼けは、本当に綺麗だった。
燃えるような派手さではない。
穏やかな橙色の光が、
すべてのものの輪郭へ細い金色の縁取りを与えていた。
私たちは公園の小道を歩く。
まだ掃き切られていない落ち葉を踏むたび、
さらさら、と音が鳴る。
「夕焼けを説明して。」
彼女は西の空を見る。
太陽はもう遠くのビルの屋上へ触れていた。
「夕焼け。」
彼女は静かに言う。
「橙色。
沈んでいく太陽。
雲は薄い桃紫。
斜めの光。
影が長い。」
短い。
でも、「夕焼けだよ」だけよりは少しだけ多い。
「……何かに似てる?」
私は、まるで施しを乞うように尋ねた。
彼女はしばらく黙る。
記憶の奥から比喩を探しているようだった。
やがて、
「……溶けかけた飴みたい。」
そう言った。
「少しだけ、切ない甘さのする飴。」
綺麗な比喩だった。
でもどこか無理をしている。
長い間しまわれていた古い道具を引っ張り出してきたような、
そんな響きだった。
「昔はもっと話してくれた。」
私が言うと、
彼女は素直に頷いた。
「疲れてるの。
冬は私を眠くするから。
でも春になれば大丈夫。
約束する。」
また春。
春は、あらゆる約束を預かる季節になっていた。
希望の置き場所になっていた。
私たちはベンチへ腰掛けた。
夕陽は沈み、
空は橙から紫へ。
やがて濃い群青へ変わる。
東の空に、一番星が灯る。
かすかに瞬く。
「……あの星は?」
「金星。」
彼女は答えた。
「夕方には一番早く現れて、
明け方には最後まで残る星。
昔は『宵の明星』とも『明けの明星』とも呼ばれていた。」
「よく知ってるね。」
彼女は少し笑った。
「全部、あなたが教えてくれたことだよ。」
「子どもの頃、
星空が大好きだったでしょう。
星座の本を買って、
夏になると屋根に寝転んで、
一つずつ名前を覚えていた。」
「夜空の星全部の名前を覚えたい。
そうすれば夜は知らない場所じゃなくなるって。」
……思い出した。
本当にそうだった。
あの本はもう失くした。
星座の名前もほとんど忘れた。
「今は北斗七星くらいしか分からない。」
私が苦笑すると、
彼女は穏やかに言った。
「それで十分。」
「北斗七星が見つかれば、
北極星を見つけられる。
北極星があれば、
道には迷わないから。」
その声には、
何かを託すような静かな重みがあった。
夕陽は完全に沈んだ。
公園の街灯が一つずつ灯る。
「帰ろう。」
私たちは立ち上がる。
彼女は隣を歩く。
けれど以前より少しだけ遠い。
私は手を伸ばしかけた。
……途中で止める。
怖かったのではない。
彼女の手が、どこにあるのか分からなかった。
輪郭があまりにも薄い。
夕闇と空気が溶け合っていた。
「君の手……」
「ここ。」
彼女のほうから手を差し出し、
私の手を握った。
軽い。
冷たい。
「冷えてる。」
「冬だから。」
彼女は笑う。
「あなたも冷えてるよ。
気づいてないだけ。」
私たちは手をつないで家へ帰った。
掌の中の彼女の手は小さく、
冷たく、
ゆっくり温度を失っていく玉石のようだった。
その夜も彼女は私が眠るまで傍にいた。
私は目を閉じる。
ベッドの脇から、
彼女の声が聞こえる。
何かを描写するのではなく、
ただ、
とりとめのない話をしていた。
「上の階の子、
また『エリーゼのために』を練習してる。
でも毎回同じところで止まっちゃう。」
「暖房の配管が鳴ってる。
誰かが小さくノックしてるみたい。」
「窓の外を猫が歩いてる。
雲みたいに静かな足音。」
その声は少しずつ小さくなり、
少しずつ遠ざかっていく。
引き潮のように。
私はその声に包まれたまま眠りへ落ちた。
夢と現の境目で、
彼女が髪を撫でてくれている気がした。
母親が子どもをあやすような、
優しく静かな手つきだった。
そして、
ほとんど聞こえないほど小さな声で、
彼女は囁いた。
「おやすみ。
私はずっとここにいる。
……永遠に。」
私はさらに深い眠りへ沈んでいく。
夢は見なかった。
あるいは、
夢そのものが穏やかな闇で、
その闇のどこか遠くで、
誰かが歌詞のない子守歌を口ずさんでいたのかもしれない。
彼女がいないことに初めて気づいたのは、水曜日の午後だった。
その日は、冬とは思えないほど穏やかな陽射しだった。
薄く、それでいて澄み切った光が、オフィスの窓から斜めに差し込み、机の上に窓枠の菱形の影を落としている。
私はその光を、ずっと見つめていた。
ノートパソコンの上からキーボードへ。
そしてゆっくりと、自分の手の甲へ。
少しずつ、確実に動いていく。
「……光が動いてる」
そう呟いた。
返事はなかった。
振り向く。
いつも彼女が座っている椅子は、空だった。
違う。
「彼女が座っていない」のではない。
最初から誰も存在していなかったような空白だった。
あの場所にいつもあった、ほんのわずかな温度。
空気の流れの違い。
誰かがそこにいるときだけ感じる、説明できない気配。
何もない。
ただの空席だった。
「……どこ?」
小さく呼びかける。
返事はない。
立ち上がり、給湯室へ向かう。
いない。
廊下。
いない。
会議室。
そこにもいない。
席へ戻り、静かに腰を下ろす。
きっと、どこかへ行っているだけだ。
一時的に姿を消しただけ。
彼女は言っていた。
時々、「存在する力」を一点に集める必要がある、と。
ラジオの周波数を合わせ直すように。
だから、少し待てば戻ってくる。
そう思った。
十分。
二十分。
陽射しはゆっくりと移り続ける。
同僚たちのキーボードを叩く音。
電話のベル。
誰かの笑い声。
世界は何一つ変わらず動いている。
変わったのは――
彼女だけだった。
その瞬間、胸の奥に細い恐怖が生まれた。
激流のように押し寄せる恐怖ではない。
無数の細い針で、皮膚を少しずつ刺されるような恐怖。
世界はそこにある。
なのに――
その世界を翻訳してくれる人だけが、いない。
窓の外を見る。
向かいのビルのガラス壁面が陽光を反射して眩しい。
空は淡い青。
雲が数本、ゆっくり流れている。
木々は風に揺れている。
以前なら彼女はきっと言っただろう。
「ガラスの壁は巨大な鏡みたい。陽射しを何千もの金色の欠片に砕いている。」
「雲はゆっくり歩いてる。雨を降らせるかどうか、まだ迷っているみたい。」
「枝は風の指揮者。風に合わせて拍子を刻んでいる。」
でも今は違う。
ただ、
眩しい光。
青い空。
流れる雲。
揺れる木。
それだけ。
私は自分で言葉を探す。
「ガラスに太陽が反射している。」
「白い雲。」
「木が揺れている。」
間違ってはいない。
でも、生きていない。
生命を見つめた文章ではなく、
標本に貼られた説明札のようだった。
私は目を閉じる。
深呼吸する。
大丈夫。
彼女は消えたわけじゃない。
少し離れただけ。
春になれば戻ってくる。
彼女は約束した。
そう言っていた。
だから――
大丈夫。
もう一度目を開く。
すると。
窓辺に彼女が立っていた。
逆光の中で、外を見つめている。
「……戻ってきたんだ」
そう声を掛ける。
彼女はこちらを振り返った。
逆光のせいで輪郭は曖昧だった。
「私はずっとここにいたよ。」
「呼んだのに返事がなかった。」
「風を聞いてたの。」
彼女は静かに笑う。
「今日は北西の風。乾いていて、冷たくて、遠い山の匂いがする。」
声は以前より短くなっていた。
それでも、さっきまでの沈黙よりずっと彼女らしかった。
「いなくなったのかと思った。」
「ならないよ。」
彼女は私のそばへ歩いてきて、
羽のように軽く肩へ手を置いた。
ちゃんと触れている。
そう感じた。
「約束したでしょう。」
彼女は微笑む。
「ずっと一緒にいるって。」
「永遠に。」
――永遠。
その言葉は重すぎた。
どこまでが永遠なんだろう。
彼女が消える日まで?
私が死ぬ日まで?
それとも、本当の意味での永遠?
考えた瞬間、
答えが壊れてしまいそうで。
私は何も聞かなかった。
「永遠って、どこまで?」
そんな問いは、
賢い人ほど口にしない。
「……よかった。」
それだけ答える。
彼女は肩から手を離し、
小さく言った。
「仕事が終わったら、公園へ行こう。」
「今日は夕焼けがきっときれいだから。」
「うん。」
仕事を終える頃、
夕焼けは本当に美しかった。
派手な赤ではなく、
穏やかな橙色。
あらゆるものの輪郭を、
金色で縁取っていくような光だった。
落ち葉の残る遊歩道を歩く。
踏むたび、
乾いた葉がさらさらと鳴る。
「夕焼け、説明して。」
私が言う。
彼女は西の空を見た。
太陽はビルの屋根へ触れようとしている。
「夕焼け。」
「橙色。」
「沈んでいく。」
「雲は薄い桃紫。」
「影が長い。」
やはり短い。
それでも、
「夕焼けだよ」
だけだった頃よりは、少しだけ多い。
「……何かに似てる?」
私は、
まるで施しを乞うように尋ねた。
彼女は長く黙る。
記憶の奥から、
昔使っていた比喩を探しているようだった。
やがて、
ゆっくり口を開く。
「……溶けかけた飴みたい。」
「少しだけ、悲しい甘さのする飴。」
美しい。
けれど。
どこか無理をして思い出した比喩だった。
長い間しまわれていた古い宝物を、
埃を払って取り出したような。
「前はもっと話してくれた。」
私が言う。
彼女は少し笑った。
「疲れちゃった。」
「冬は苦手。」
「でも春になれば大丈夫。」
「約束する。」
また春。
春は、
彼女のすべての約束が預けられている季節だった。
ベンチへ座る。
夕陽は沈み、
空は橙から紫へ。
やがて深い藍色へ変わっていく。
一番星が東に灯る。
小さく、
静かに。
「あれは何の星?」
私が尋ねる。
「金星。」
「夕方、一番早く現れて。」
「朝、一番最後まで残る星。」
「昔は『宵の明星』とか『長庚』って呼ばれてた。」
「物知りだね。」
そう言うと、
彼女は首を横に振った。
「全部、あなたが教えてくれたこと。」
「子どもの頃、
星座の本を買って、
夏になると屋根に寝転がって、
一つずつ名前を覚えてた。」
「夜空を全部知れば、
知らない場所じゃなくなるって。」
思い出した。
そうだ。
そんなことをしていた。
あの本はもうなくなった。
星座の名前も、
ほとんど忘れてしまった。
「今わかるのは北斗七星くらいかな。」
私が言う。
彼女は優しく笑う。
「それで十分。」
「北斗七星が見つかれば、
北極星も見つかる。」
「北極星があれば、
迷わないから。」
その言葉は、
何か大切なものを私へ託すような響きを持っていた。
日が完全に沈む。
公園の街灯が一つずつ灯り始める。
「帰ろう。」
彼女が言う。
立ち上がる。
彼女は隣を歩く。
でも、
少しだけ遠い。
手を伸ばしかけて、
途中で止めた。
どこに彼女の手があるのか、
自信が持てなかった。
輪郭が、
夕闇へ溶け始めていた。
「手……」
そう呟くと、
彼女の方から手を差し出してきた。
「ここ。」
その手を握る。
軽い。
冷たい。
「冷えてる。」
「冬だから。」
彼女は笑う。
「あなたも冷たいよ。
気づいてないだけ。」
手を繋いで家へ帰る。
掌の中の彼女の手は、
小さく、
冷たく、
少しずつ温度を失っていく玉のようだった。
その夜も彼女は、
私が眠るまでそばにいてくれた。
私は目を閉じる。
ベッドの横から、
彼女の声が聞こえる。
何かを説明するわけでもなく、
ただ、
とりとめのない話をする。
「上の階の子、
また『エリーゼのために』を練習してる。」
「いつも同じところで止まっちゃう。」
「暖房の配管が鳴ってる。」
「誰かが小さくノックしてるみたい。」
「窓の外、
猫が歩いてる。」
「足音が雲みたいに軽い。」
声は少しずつ、
遠ざかっていく。
引き潮のように。
私はその声に包まれながら、
眠りへ落ちていった。
夢と現実の境目で、
彼女が髪を撫でてくれている気がした。
母親が眠る子どもをあやすような、
優しい手つきで。
そして、
ほとんど聞こえないくらい小さな声で囁く。
「おやすみ。」
「私はずっといるから。」
「……ずっと。」
私はさらに深い眠りへ沈んだ。
夢は見なかった。
いや、
夢そのものが、
誰かが歌詞のない子守歌を口ずさんでいる、
やわらかな闇だった。




