↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
7/7

6 ぼくの目で

 彼女がいなくなって、二日目。


 僕は年休を取った。


 彼女のためじゃない。


 もう、彼女はいない。


 ただ、通訳を失った世界に慣れる時間が必要だった。


 手足を失った人が幻肢痛と折り合いをつけていくように。


 僕もまた、この剥き出しの知覚と付き合い方を覚えなければならなかった。


 休みの初日。


 僕は海へ行くことにした。


 この街から海までは、新幹線で一時間ほど。


 始発に近い列車の切符を買い、家を出る。


 持っていったのは、財布と鍵とスマートフォンだけ。


 カメラも、ノートも持たなかった。


 何かを「記録しよう」という気持ちは、不思議なくらい湧かなかった。


 列車は景色を切り裂くように走る。


 窓の外では、郊外の工場、畑、集落、川が、次々と後ろへ流れていく。


 ページを勢いよくめくる絵本みたいだった。


 以前なら、彼女はこう話してくれただろう。


 畑は色とりどりの布を縫い合わせたキルトみたい。


 麦の緑。


 菜の花の黄。


 休耕地の茶色。


 赤い屋根の家々は地面へ散らばった積み木みたいで、川は銀色のファスナーになって、大地を静かにつなぎ合わせている、と。


 今の僕に見えるのは、


 色の面。


 幾何学的な輪郭。


 光を返す水面。


 それだけだった。


 海へ着いたのは午前十時。


 冬の浜辺には人影が少ない。


 潮風は強く、塩の匂いを含んだ冷たさが頬を打つ。


 防波堤を越え、砂浜へ降りた。


 砂は灰色だった。


 絵葉書に写るような黄金色ではない。


 粒は粗く、砕けた貝殻や、流れ着いたプラスチックごみが混じっている。


 潮の引いた跡には、茶色く腐りかけた海藻が積もり、生臭い匂いを漂わせていた。


 靴と靴下を脱ぎ、裸足のまま波打ち際へ向かう。


 砂は冷たく、


 砕けた貝殻が足裏へ容赦なく食い込んだ。


 海は青くなかった。


 岸辺の水は濁った灰褐色で、


 泡はくすんだ白。


 洗濯水みたいな色をしている。


 少し沖へ行けば灰緑色。


 さらに遠くでは深い灰色になり、


 曇った空との境界は曖昧だった。


 何千もの灰色が溶け合っているわけでもない。


 液体の宝石でもない。


 地球の涙でもない。


 そこにあったのは、


 塩辛く、


 冷たく、


 動き続ける海水だった。


 波打ち際まで歩き、


 波に足首を浸す。


 刺すような冷たさだった。


 皮膚が一瞬で縮み上がる。


 波が引くたび、


 足元の砂がさらさらと流れ、


 体温までさらっていくようだった。


 僕は長いあいだ立ち尽くし、


 波が寄せては返す様子を眺めていた。


 規則正しく。


 単調で。


 終わることなく。


 そこに海の呼吸はなかった。


 永遠のため息も、


 塩と時間の対話もなかった。


 あるのは重力に従って往復する水の運動だけ。


 けれど。


 しばらく見ているうちに、


 僕は自分で細かな変化へ気づき始めた。


 彼女が教えてくれた細部ではない。


 僕自身が見つけた細部だった。


 波は毎回まったく同じ場所まで届くわけじゃない。


 ある波は脛まで届き、


 ある波は足の甲を濡らすだけで終わる。


 泡も、一様な白ではない。


 生クリームみたいに密なところもあれば、


 蜘蛛の巣みたいに薄く広がるところもある。


 砂浜には無数の足跡が残っていた。


 深いもの。


 浅いもの。


 靴の跡。


 犬の足跡。


 もう潮に消されかけたもの。


 一匹のクラゲが打ち上げられていた。


 透き通った身体は溶けたビニールみたいで、


 縁はところどころ破れていた。


 沖の岩場には釣り人が一人。


 鮮やかな黄色の防水着だけが、


 冬の景色の中で小さく光って見えた。


 それらは、ずっと前からそこにあったものだ。


 ただ以前の僕は、


 彼女に教えてもらわなければ気づけなかった。


 今は違う。


 美しさを見つけたわけじゃない。


 ただ、


 そこに在るものを、


 自分の目で見つけただけだった。


 海岸線に沿って歩く。


 風はますます強くなり、


 服が身体へ張りつき、


 髪が乱れる。


 耳の中は風の音と波の音、


 そして遠くで鳴くカモメの声で満たされていた。


 岬まで来ると、


 僕は岩へ腰を下ろした。


 岩肌は湿っていて、


 ところどころ塩が白く結晶になっている。


 スマートフォンを取り出し、


 写真を撮ろうとする。


 けれど途中で手を下ろした。


 写真は平面だ。


 温度も、


 匂いも、


 風が頬を叩く強さも、


 靴へ入り込む砂の煩わしさも、


 何ひとつ残せない。


 本当の体験は、


 記録するものじゃない。


 ただ、


 生きるものなんだ。


 そのまま海を眺め続けた。


 しばらくすると、


 海の色が少しずつ変わっていくことに気づく。


 雲が流れ、


 ときおり陽射しが差し込むたび、


 海面の一角だけが銀色に光る。


 すぐに曇り、


 また別の場所が光る。


 均一ではなく、


 継ぎ当てを重ねるような光だった。


 沖では貨物船がゆっくり進んでいる。


 おもちゃみたいに小さい。


 カモメは近くを旋回し、


 鋭く鳴き続ける。


 時間だけが静かに過ぎていった。


 寒さは足元から少しずつ身体へ広がっていく。


 それでも僕は立ち去らなかった。


 その冷たさを受け入れていた。


 冷たいということ。


 海がそこにあること。


 砂があること。


 風が吹いていること。


 その全部が、疑いようのない現実だった。


 昼になると浜を離れ、


 道沿いの小さな店で熱いコーヒーを買った。


 紙コップは持てないほど熱く、


 中身はインスタントで、


 甘さだけが妙に強かった。


 店先のプラスチックの椅子へ腰掛け、


 道路の向こうに広がる海を眺めながら飲む。


 観光客が何人か通り過ぎる。


 写真を撮り、


 笑い、


 思い思いのポーズを取っていた。


 あの人たちには、


 どんな海が見えているんだろう。


 僕と同じ海なのか。


 それとも。


 人にはそれぞれ、


 自分だけの海があるのだろうか。


 コーヒーを飲み終える頃には、


 身体も少しだけ温まっていた。


 僕は今度は遊歩道を歩く。


 コンクリートで舗装された道。


 錆びた鉄柵が海沿いに続いている。


 展望台まで来ると、


 一枚の青銅のプレートが目に入った。


 そこにはこう刻まれていた。


 ――この場所より望む海、最良。


 僕は立ち止まり、海を見渡す。


 確かに眺めはいい。


 でも、


 海はやっぱり海だった。


 すぐ近くには、一組の老夫婦がいた。


 妻は車椅子に座り、


 夫はその後ろへ静かに立っている。


 二人とも何も話さない。


 ただ海を見ていた。


 僕はしばらくその背中を眺める。


 夫の手は車椅子の取っ手へ添えられ、


 節の太い指には歳月が刻まれていた。


 妻の白髪は風に乱れても、


 本人は直そうともしない。


 二人はまるで、


 あらゆる季節を越えてきた二本の木みたいだった。


 根はどこかで結ばれ、


 枝はそれぞれ違う空へ伸びながら、


 同じ土を生きている。


 そこへ永遠の愛なんて言葉はいらなかった。


 歳月の証も、


 沈黙の絆もいらない。


 ただ。


 冬の海を眺める二人の老人が、


 そこにいた。


 その瞬間だった。


 胸の奥から、


 鋭い感情が突き上げてきた。


 彼女の言葉を借りた感動じゃない。


 もっと深く、


 もっと原始的なもの。


 地中深くで眠っていたマグマが、


 突然ひび割れを見つけて噴き出すみたいに。


 あまりにも強くて、


 僕は思わず海へ背を向けた。


 ゆっくり息を吸う。


 目の奥が熱い。


 涙ではない。


 もっと名前のない感情だった。


 それが静まるまで、


 僕は長いことその場を動けなかった。


 もう一度振り返ると、


 老夫婦の姿はもうなかった。


 展望台には風だけが残っていた。


 午後になると、僕は帰りの新幹線へ乗り込んだ。


 窓の外で、


 海は少しずつ遠ざかり、


 代わりに陸地が景色を埋めていく。


 僕は自分の手を眺めた。


 掌には砂で擦れた細かな傷が残り、


 海風と塩のせいで肌は乾き、少しつっぱっている。


 爪の隙間には小さな砂粒が入り込んでいて、


 僕はそれを一粒ずつ取り除いた。


 灰色の、


 とても小さな砂だった。


 街へ戻るころには、


 もう夕暮れになっていた。


 駅から地下鉄へ乗り換え、


 いつもの帰り道をたどる。


 見慣れた景色なのに、


 どこか違って見えた。


 きっと海を見てきたばかりだからだろう。


 人も建物も密集したこの街は、


 いつも以上に息苦しく、


 騒がしく感じられた。


 家へ帰ると、


 すぐにシャワーを浴びた。


 熱い湯が、


 肌に残っていた塩と砂をゆっくり洗い流していく。


 乾いていた皮膚は少しだけ柔らかさを取り戻した。


 鏡を見ると、


 頬は海風に焼かれ、


 軽い日焼けみたいに赤くなっていた。


 夕食は、きちんと作ることにした。


 ステーキを焼き、


 野菜をオーブンへ入れ、


 米を炊く。


 惣菜も、出前も使わない。


 少しだけ時間をかけて、


 一人分の食卓を整えた。


 肉はミディアムレア。


 切り分けると中心が淡い桃色をしている。


 野菜は縁が少し焦げ、


 甘い香りが立っていた。


 炊きたてのご飯は粒が立ち、


 白く湯気を上げている。


 僕はゆっくり噛みしめながら食べた。


 肉の繊維。


 野菜の甘さと歯触り。


 米の柔らかさ。


 味は口の中で静かに広がっていく。


 懐かしい味でもない。


 故郷の味でもない。


 ただ、


 食べ物そのものの味だった。


 食事を終え、


 机へ向かう。


 パソコンを開き、


 新しい文書を作る。


 カーソルだけが静かに点滅していた。


 僕は打ち始める。


 ――海は灰色だった。


 単調な灰色ではない。


 岸辺には濁った灰。


 沖には鉄みたいな灰。


 泡は汚れた白に近い灰。


 砂浜は粗く、


 裸足では痛かった。


 風は塩を含み、


 見えない刃みたいに肌を切っていく。


 そこに詩はなかった。


 あるのは物理的な事実だけだった。


 けれど、


 そんな海の前へ立つと、


 人は不意に理解する。


 現実は飾らなくても現実なのだと。


 痛みは比喩を必要としない。


 孤独も象徴を必要としない。


 ただ、


 そこに在る。


 大きく、


 静かで、


 疑いようもなく。


 書き終えて読み返す。


 飾り気のない文章だった。


 少し硬いかもしれない。


 それでも、


 一文字ずつが僕自身の言葉だった。


 彼女から借りたものではない。


 僕はもう一度キーを叩く。


 ――今日、海辺で老夫婦を見た。


 夫が車椅子を押し、


 妻は静かに海を見ていた。


 二人は一言も話さなかった。


 僕は勝手に物語を作らなかった。


 一生愛し合ってきたのかもしれない。


 ただ長いあいだ隣で暮らしてきただけかもしれない。


 昨日、大喧嘩をしたばかりかもしれない。


 僕には分からない。


 でも、


 あの瞬間、


 二人がそこにいたという事実だけは確かだった。


 海岸線がそこにあることと同じくらい、


 揺るがなかった。


 意味を与える必要なんてない。


 在るということ自体が、


 もう十分な意味だった。


 そこで手が止まる。


 彼女の声が、


 ふと胸の奥によみがえった。


 ――僕はずっと君のそばにいる。


 あれは、


 嘘だった。


 けれど。


 もしかすると、


 あえて嘘をついたのかもしれない。


 彼女は知っていたのだ。


 一人で歩かなければならない道があることを。


 自分自身の目で、


 見つけなければならない景色があることを。


 文書を保存せず閉じ、


 僕は窓際へ歩いた。


 夜の街は、


 無数の灯りで満ちている。


 もう無理に言葉へ置き換えようとは思わなかった。


 ただ、


 静かに見つめる。


 そのときだった。


 街の南東の空だけ、


 雲が少し薄くなっていることに気づく。


 かすかな月明かりが、


 そこから滲んでいた。


 満月ではない。


 細い細い三日月だった。


 僕はもう、


 何かに喩えようとはしなかった。


 それは、


 三日月だった。


 それだけで十分だった。


 それでも僕は、


 長いあいだその光を見つめ続けた。


 やがて雲が流れ、


 三日月は静かに隠れていった。


 ❀


 一月、最初の仕事始めの日。


 僕は編集部へ戻った。


 オフィスには休み明け特有の空気が漂っていた。


 お土産を配る人。


 休暇の思い出を話す人。


 太った、と笑いながら嘆く人。


 いつも通りの賑やかさ。


 生活の匂いがする、他愛ない時間だった。


 僕は席に着き、パソコンを立ち上げる。


 未読メールは四十七件。


 会議の案内。


 原稿の修正依頼。


 定期購読の更新。


 新年の挨拶。


 広告の営業。


 一通ずつ目を通し、


 一通ずつ処理していく。


 どれも今すぐ返事が必要というわけではない。


 それでも、放っておけるものは一つもなかった。


 生活もきっと同じだ。


 切迫した危機はなくても、


 毎日、小さな責任が積み重なっている。


 昼休み。


 編集長が声をかけてきた。


「新年最初の連載、何を書くか決めたか?」


 僕は少し考えてから答えた。


「雪を書こうと思います。


 クリスマスの日に降った雪を」


「悪くないな」


 編集長は頷く。


「でも雪なんて、誰もが書いてる。


 何か新しいものがほしい」


「やってみます」


 編集長はその場を離れなかった。


 僕の顔をしばらく眺めてから、


 ぽつりと言う。


「お前、少し変わったな」


「そうですか」


「うまく言えないけど……落ち着いたというか。


 前は何かを探してる目をしてた。


 今は、見つけたようにも見える。


 ただ、その見つけたものは、たぶん欲しかったものじゃなかったんだろうな」


 思わず笑ってしまう。


 驚くほど、的確だった。


「歳を取ったのかもしれません」


「二十七で何言ってる」


 編集長は肩を軽く叩いた。


「まあ、大人になったなら悪くない。


 三時から会議だから忘れるなよ」


「はい」


 午後の会議では、


 新年特集の企画について話し合われた。


 僕は一つ提案をする。


「『裸眼観察』という連載はどうでしょう」


「裸眼観察?」


「比喩をできるだけ使わない。


 形容詞も減らして、


 目の前にあるものを、そのまま記録するんです」


 僕は例として雪を挙げた。


「『羽毛みたいだ』とか、


 『粉砂糖みたいだ』とか、


 『おとぎ話みたいだ』とは書かない。


 雪は水が零度以下で固体になり、


 空から落ちて、


 地面を覆う。


 反射率が変わり、


 音を吸収する。


 歩けば足跡が残り、


 その足跡によって雪の密度や光の反射も変化する。


 やがて気温が上がれば溶け、


 水になって土へ染み込み、


 あるいは蒸発する」


 数秒、


 会議室が静まり返った。


「……理科の教科書みたいだな」


 誰かが苦笑する。


「ちょっと冷たい印象ですね」


 別の誰かが言った。


 編集長は腕を組んで考え込む。


「でも、一度やってみてもいい。


 読者の好みも多様だからな。


 ただ、やりすぎると気象観測になる。


 その境界だけは気をつけろ」


「分かりました」


 会議が終わると、


 僕は席へ戻り、


 雪についての原稿を書き始めた。


 彼女の言葉ではなく、


 僕自身の観察だけで。


 ――十二月二十四日から二十五日にかけて、市内で降雪。


 積雪量は均一ではない。


 屋根は厚く、


 道路は除雪と車の往来で薄い。


 枝に積もる雪は、上を向いた面だけに残る。


 雪は純白ではない。


 影では青灰色になり、


 陽の当たる場所では眩しいほど白く、


 踏み固められた場所は汚れた灰色になる。


 雪は音を吸収する。


 普段より街は静かになる。


 光も変わる。


 反射が増え、


 夜でも景色はわずかに明るい。


 そして雪は必ず溶ける。


 気温が零度を越えると、


 端から少しずつ水へ戻り、


 濡れた地面だけを残して消えていく。


 そこまで書いて、


 僕は手を止めた。


 読み返す。


 正確だった。


 でも、


 生きてはいなかった。


 解剖記録みたいな文章だった。


 全部消して、


 もう一度書き始める。


 ――雪は、クリスマス・イブの夜に降り始めた。


 急ぐこともなく、


 一枚一枚が丁寧に空を降りてきた。


 雨とは違う。


 雪には急ぐ理由がない。


 世界はゆっくり白くなっていく。


 けれど、その白さは均一じゃない。


 厚く積もる場所もあれば、


 薄く地面を覆うだけの場所もある。


 長く使われた消しゴムで消した紙みたいに、


 白はところどころまだらだった。


 雪を踏むと、


 足元で小さく鳴る。


 その音は不思議なくらい確かで、


「ここに僕がいて、ここに雪がある」


 そう静かに教えてくれる。


 子どもたちは雪だるまを作る。


 公園には、


 僕の青いマフラーを巻いた雪だるまが、


 黙って立っていた。


 クリスマスの朝、


 雪は止み、


 陽射しが金色の光を返す。


 でも、その光も長くは続かない。


 午後になる頃には、


 雪は枝先から少しずつ溶け始める。


 一滴。


 また一滴。


 まるで、


 ゆっくりと別れを告げるみたいに。


 今では雪はもうない。


 残ったのは濡れた地面だけだ。


 それでも、


 記憶の中の白さは、


 本当の雪よりも長く残っている。


 書き終え、


 編集長へ送る。


 十分ほどして返信が届いた。


 ――いい。


 静かな懐かしさがある。


 飾らないのに、ちゃんと詩になっている。


 この調子で書いてくれ。


 僕は小さく息を吐いた。


 彼女がいなくても、


 僕は書ける。


 あの人ほど美しくはなくても。


 少なくとも、


 これは僕自身の文章だった。


 それからも生活は続いていく。


 空を見て天気を読むことを覚えた。


 雲の厚さ。


 風向き。


 道を歩く人の服装。


 外れることもある。


 雨だと思えば晴れたり、


 寒いと思えば暖かかったり。


 でも、


 間違えることも覚えるということだった。


 食べ物の味も、


 自分の言葉で表すようになった。


「懐かしい味」ではなく、


 塩味は七、


 辛さは三、


 口当たりはなめらかで、


 後味は少し苦い。


 そんなふうに。


 同僚には、


「最近、グルメ評論家みたいだな」


 と笑われた。


 僕は笑って答える。


「事実を言ってるだけですよ」


 隣に住む陳さんのおばあさんは、


 相変わらず食べ物を分けてくれた。


 臘八粥。


 飴菓子。


 時々、おかずまで持ってきてくれる。


 もう彼女がいるのかとは聞かれない。


 代わりに、


「最近、顔色が良くなったね」


 と穏やかに笑った。


「よく眠れるようになったからかもしれません」


「それが一番だよ。


 人はね、ちゃんと食べて、ちゃんと眠れれば、それでいいんだから」


 僕は頷いた。


 食べること。


 眠ること。


 それだけのことが、


 暮らしの土台なのだと思った。


 ――続きもこの文体・用語を維持したまま翻訳できます。


 一月最終週、街にはもう一度雪が降った。


 今度はコラムを書くこともなく、ただ窓辺に立って、その降り方を見つめていた。


 街灯の光の中で雪は静かに舞い、一枚一枚の輪郭がはっきりと見える。回転しながら落ち、地面は少しずつ白さを増していく。世界は少しずつ静かになっていった。


 僕は長いあいだ眺めていたあと、ノートを開き、ペンを走らせた。


 ――雪が降っている。


「何かのようだ」とは書かない。ただ雪が降っている。


 街灯の光の中を白い粒がゆっくり落ちていく。照らされた塵にも似ているけれど、塵よりも遅く、塵よりも落ち着いている。


 地面は一瞬で白くなるわけじゃない。少しずつ、少しずつ、誰かが大きな白い紙を丁寧に広げていくみたいに染まっていく。


 音は消えたわけじゃない。ただ厚みを持った。布団を一枚隔てて世界を聞いているような、不思議な静けさ。


 僕は窓辺に立ち、ガラスへ手を添える。


 ガラスは冷たい。


 でも掌は温かい。


 今、この瞬間。


 雪が降っていて、僕はそれを見ている。


 それだけだ。


 比喩も、象徴もない。


 ただ、その事実だけがここにある。


 けれど、その事実には、静かな美しさが宿っていた。


 書き終えたあと、僕はゆっくり読み返した。


 ――これでいい。


 そう思えた。


 彼女の言葉のような華やかさはない。


 でも、これは僕自身の文章だった。


 塗装を施した家具ではなく、木肌をそのまま残した家具のように。


 飾り気はなくても、木目は嘘をつかない。


 二月。


 冬が終わろうとしていたころ、母から電話がかかってきた。


「昔の家の跡地の隣に残ってた空き地ね。あそこも、いよいよ開発されるみたい」


 母はそう言った。


「今ならまだ何もない景色が見られるけど、工事が始まったら全部変わっちゃうわ。……一度、帰ってこない?」


「うん。帰るよ」


 週末、僕は久しぶりに故郷へ向かった。


 実家はもうない。


 その場所は駐車場になっていて、隣の空き地だけが、取り残されたように枯草を揺らしていた。


 僕はその真ん中まで歩いていく。


 草は膝ほどまで伸び、冬色に乾ききっている。


 少し離れた場所には、青い仮囲いが立ち始めていた。開発会社の名前と完成予想図が印刷されている。


 風が強かった。


 コートが身体に張りつくほどの風だった。


 立ち止まり、辺りを見渡す。


 左には駐車場。


 右には、これから始まる工事現場。


 背後には古い商店街。


 前には新しいマンション群。


 どちらにも属さない場所だった。


 かつて何かだった場所。


 これから何かになる場所。


 そして今は、まだ何者でもない場所。


 僕はしゃがみ込み、枯草へ手を伸ばした。


 乾いている。


 脆く、少し力を入れるだけで折れてしまう。


 根元の土は半分凍り、細かな氷の粒が指先へ触れた。


 そこには「記憶の手触り」も、「郷愁の温度」もない。


 あるのは草であり、土であり、冬という季節だけだった。


 僕は立ち上がり、もうすぐ姿を消すこの空き地を静かに見つめた。


 風は変わらず吹き続けている。


 枯草は波のように揺れ、冬の野原をゆっくりと渡っていく。


 その光景を眺めながら、不意に彼女の言葉を思い出した。


 ――世界はそこにある。そして、君もそこにいる。


 そうだ。


 世界はここにある。


 駐車場があり、空き地があり、工事現場があり、古い街並みがあり、新しい建物がある。


 そして僕もここにいる。


 二十七歳。


 世界を言葉へと訳してくれる誰かを失い、それでも、自分自身の目で世界を見ることを覚えた。


 美しく見られない日もある。


 深く理解できない日もある。


 それでも、自分の目で見たものは、確かに僕のものだった。


 風がふっと弱まる。


 あたりは静かだった。


 そのとき。


 ――いや、そう聞こえた気がしただけかもしれない。


 風が草の先を撫でる、そのかすかな音に重なるように。


 彼女の声がした。


「ほら、晴れてきたよ」


 僕は空を見上げた。


 厚かった雲がゆっくりとほどけ、その隙間から淡い青空がのぞいている。


 差し込んだ陽の光は一本の光柱となって、斜めに空き地へ降り注いだ。


 枯草が、その光を受けて金色に染まる。


 綺麗だった。


 本当に、それだけだった。


 そして、その美しさを説明してくれる声を、僕はもう待たなかった。


 ただ見つめる。


 頬を撫でる風を感じる。


 目に届く光を受け止める。


 足元で枯草がささやく音を聞く。


 それで十分だった。


 僕は静かに踵を返す。


 もう振り返らない。


 覚えていたいものは、もう心の中に残っている。


 手放すべきものも、きっと、もう手放せたから。


 春は、もうすぐ来る。


 ❀


 晩秋の夕暮れ。


 僕はひとり、子どものころ住んでいた家の跡地を訪れた。


 わざわざ来たわけじゃない。


 散歩をしているうちに、気づけば足がここまで来ていた。


 前に訪れてから、もう半年になる。


 駐車場は変わらずそこにあった。


 けれど隣の空き地では工事が始まり、杭打ち機の鈍い音が一定の間隔で響いている。


 まるで、大地がゆっくり鼓動しているみたいだった。


 僕は駐車場の入口で立ち止まり、その中へは入らなかった。


 西へ傾いた陽が、僕と影を長く伸ばしている。


 あの銀色のセダンはもうなく、代わりに白いSUVが停まっていた。


 たぶん、昔、僕の部屋があったあたりだ。


 工事現場のほうから風が吹いてくる。


 土埃と、乾いたコンクリートの匂いを運びながら。


 遠くではクレーンの影が夕暮れの空をゆっくり横切っていた。


 巨大な生きものが、黙って何かを考えているようだった。


 昔のことを思い出そうとはしなかった。


 記憶は、呼び戻すものじゃない。


 そこにあるものだ。


 あの家の姿も。


 庭の木も。


 夏の蝉の声も。


 冬のストーブのぬくもりも。


 みんな僕の中に残っている。


 年輪みたいに、身体の奥へ静かに刻まれている。


 だからもう、あの場所へ戻る必要はない。


「あそこ」は、もう存在しない。


 子どものころが戻らないように。


 彼女が戻らないように。


 今ここにあるのは、この瞬間だけだった。


 コンクリートのざらつき。


 土埃に混じるガソリンの匂い。


 杭打ち機が刻む規則正しい振動。


 頬を撫でる風。


 目に届く光。


 それが、今の僕に見えている世界だった。


 飾り気はない。


 詩もない。


 比喩もない。


 僕ではない誰かの目が、この世界を訳してくれることもない。


 そして、かつて彼女と見ていた、あの詩に満ちた世界は――


 誰にも知られることのなかった夢のように、


 静かに、僕の瞳の奥へ沈んでいった。


 それでも。


 あの夢は、本物だった。


 彼女の言葉を通して知った美しさも。


 世界の細やかな手触りも。


 何かと何かが静かにつながっている感覚も。


 たとえ、その語り手が本当には「存在」していなかったとしても。


 たとえ、「永遠」という約束が、優しい嘘だったとしても。


 あの時間は、確かに僕を形作った。


 もう僕の一部になっている。


 子どものころは終わった。


 それでも、その時間が今の僕をつくったように。


 彼女はいなくなった。


 それでも彼女は、この世界をどう見つめればいいのかを僕に残してくれた。


 たとえ、その視線が借りものだったとしても。


 たとえ、その目が僕の想像から生まれたものだったとしても。


 これからは、自分自身の見方を覚えていかなければならない。


 彼女のようには、きっとなれない。


 あんなふうに世界を詩へ変えることもできない。


 でも、それでいい。


 これは僕の見ている世界だから。


 風が少し強くなった。


 舞い上がった砂埃が夕陽の光を受け、小さく光っては消えていく。


 そこには「黄金の星屑」も、


「光の舞踏」もなかった。


 あるのは、空気の流れに乗った小さな粒子が、ほんの一瞬だけ光を反射しているという、それだけの現象だった。


 それでも僕は、しばらくその光景を見つめていた。


 どこまでも素朴な現実にも、


 現実だけが持つ美しさがある。


 誰かに語られなくてもいい。


 意味を与えられなくてもいい。


 そこに在るということ、そのこと自体が、もう十分に美しかった。


 踵を返したとき、不意に彼女の最後の言葉を思い出す。


 ――「私はずっと、君と一緒にいる。」


 嘘だった。


 彼女は永遠にはいてくれなかった。


 寄り添ってくれたのは、秋から冬へと続く、たったひとつの季節だけだった。


 でも――


 ある意味では、あの言葉は嘘じゃなかったのかもしれない。


 彼女が教えてくれた世界の見方。


 彼女が残してくれた記憶。


 彼女が僕の心に植えていった、美しいものへ目を向ける感覚。


 それらはきっと、この先も僕とともにある。


 記憶として。


 習慣として。


 そして、僕の瞳の奥に残り続ける、決して消えきることのない、小さな詩の影として。


 僕は前を向いて歩き出す。


 振り返ることはしない。


 杭打ち機の音は少しずつ遠ざかり、


 代わりに街のざわめきが、ゆっくりと僕を包み込んでいく。


 赤信号で立ち止まり、


 青信号になれば、人の流れに混じって横断歩道を渡る。


 すべては静かに繰り返されていく。


 街の呼吸のように。


 季節が巡るように。


 失われることも、


 続いていくことも、


 きっと同じくらい当たり前なのだ。


 その中を、僕は歩いていく。


 失ったものも。


 手に入れたものも。


 覚えているものも。


 忘れてしまったものも。


 現実だったものも。


 幻だったものも。


 そのすべてを抱えたまま。


 前へ。


 夜明け前が、一番暗い。


 だからもう、


 僕は誰かの目を借りなくてもいい。


 この暗闇の中で、


 自分の歩く道を、


 自分の目で見つけていける。


 たとえその道が、


 思っていたよりもずっと寂しく、


 そして、


 ずっと本物だったとしても。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。