6 ぼくの目で
彼女がいなくなって、二日目。
僕は年休を取った。
彼女のためじゃない。
もう、彼女はいない。
ただ、通訳を失った世界に慣れる時間が必要だった。
手足を失った人が幻肢痛と折り合いをつけていくように。
僕もまた、この剥き出しの知覚と付き合い方を覚えなければならなかった。
休みの初日。
僕は海へ行くことにした。
この街から海までは、新幹線で一時間ほど。
始発に近い列車の切符を買い、家を出る。
持っていったのは、財布と鍵とスマートフォンだけ。
カメラも、ノートも持たなかった。
何かを「記録しよう」という気持ちは、不思議なくらい湧かなかった。
列車は景色を切り裂くように走る。
窓の外では、郊外の工場、畑、集落、川が、次々と後ろへ流れていく。
ページを勢いよくめくる絵本みたいだった。
以前なら、彼女はこう話してくれただろう。
畑は色とりどりの布を縫い合わせたキルトみたい。
麦の緑。
菜の花の黄。
休耕地の茶色。
赤い屋根の家々は地面へ散らばった積み木みたいで、川は銀色のファスナーになって、大地を静かにつなぎ合わせている、と。
今の僕に見えるのは、
色の面。
幾何学的な輪郭。
光を返す水面。
それだけだった。
海へ着いたのは午前十時。
冬の浜辺には人影が少ない。
潮風は強く、塩の匂いを含んだ冷たさが頬を打つ。
防波堤を越え、砂浜へ降りた。
砂は灰色だった。
絵葉書に写るような黄金色ではない。
粒は粗く、砕けた貝殻や、流れ着いたプラスチックごみが混じっている。
潮の引いた跡には、茶色く腐りかけた海藻が積もり、生臭い匂いを漂わせていた。
靴と靴下を脱ぎ、裸足のまま波打ち際へ向かう。
砂は冷たく、
砕けた貝殻が足裏へ容赦なく食い込んだ。
海は青くなかった。
岸辺の水は濁った灰褐色で、
泡はくすんだ白。
洗濯水みたいな色をしている。
少し沖へ行けば灰緑色。
さらに遠くでは深い灰色になり、
曇った空との境界は曖昧だった。
何千もの灰色が溶け合っているわけでもない。
液体の宝石でもない。
地球の涙でもない。
そこにあったのは、
塩辛く、
冷たく、
動き続ける海水だった。
波打ち際まで歩き、
波に足首を浸す。
刺すような冷たさだった。
皮膚が一瞬で縮み上がる。
波が引くたび、
足元の砂がさらさらと流れ、
体温までさらっていくようだった。
僕は長いあいだ立ち尽くし、
波が寄せては返す様子を眺めていた。
規則正しく。
単調で。
終わることなく。
そこに海の呼吸はなかった。
永遠のため息も、
塩と時間の対話もなかった。
あるのは重力に従って往復する水の運動だけ。
けれど。
しばらく見ているうちに、
僕は自分で細かな変化へ気づき始めた。
彼女が教えてくれた細部ではない。
僕自身が見つけた細部だった。
波は毎回まったく同じ場所まで届くわけじゃない。
ある波は脛まで届き、
ある波は足の甲を濡らすだけで終わる。
泡も、一様な白ではない。
生クリームみたいに密なところもあれば、
蜘蛛の巣みたいに薄く広がるところもある。
砂浜には無数の足跡が残っていた。
深いもの。
浅いもの。
靴の跡。
犬の足跡。
もう潮に消されかけたもの。
一匹のクラゲが打ち上げられていた。
透き通った身体は溶けたビニールみたいで、
縁はところどころ破れていた。
沖の岩場には釣り人が一人。
鮮やかな黄色の防水着だけが、
冬の景色の中で小さく光って見えた。
それらは、ずっと前からそこにあったものだ。
ただ以前の僕は、
彼女に教えてもらわなければ気づけなかった。
今は違う。
美しさを見つけたわけじゃない。
ただ、
そこに在るものを、
自分の目で見つけただけだった。
海岸線に沿って歩く。
風はますます強くなり、
服が身体へ張りつき、
髪が乱れる。
耳の中は風の音と波の音、
そして遠くで鳴くカモメの声で満たされていた。
岬まで来ると、
僕は岩へ腰を下ろした。
岩肌は湿っていて、
ところどころ塩が白く結晶になっている。
スマートフォンを取り出し、
写真を撮ろうとする。
けれど途中で手を下ろした。
写真は平面だ。
温度も、
匂いも、
風が頬を叩く強さも、
靴へ入り込む砂の煩わしさも、
何ひとつ残せない。
本当の体験は、
記録するものじゃない。
ただ、
生きるものなんだ。
そのまま海を眺め続けた。
しばらくすると、
海の色が少しずつ変わっていくことに気づく。
雲が流れ、
ときおり陽射しが差し込むたび、
海面の一角だけが銀色に光る。
すぐに曇り、
また別の場所が光る。
均一ではなく、
継ぎ当てを重ねるような光だった。
沖では貨物船がゆっくり進んでいる。
おもちゃみたいに小さい。
カモメは近くを旋回し、
鋭く鳴き続ける。
時間だけが静かに過ぎていった。
寒さは足元から少しずつ身体へ広がっていく。
それでも僕は立ち去らなかった。
その冷たさを受け入れていた。
冷たいということ。
海がそこにあること。
砂があること。
風が吹いていること。
その全部が、疑いようのない現実だった。
昼になると浜を離れ、
道沿いの小さな店で熱いコーヒーを買った。
紙コップは持てないほど熱く、
中身はインスタントで、
甘さだけが妙に強かった。
店先のプラスチックの椅子へ腰掛け、
道路の向こうに広がる海を眺めながら飲む。
観光客が何人か通り過ぎる。
写真を撮り、
笑い、
思い思いのポーズを取っていた。
あの人たちには、
どんな海が見えているんだろう。
僕と同じ海なのか。
それとも。
人にはそれぞれ、
自分だけの海があるのだろうか。
コーヒーを飲み終える頃には、
身体も少しだけ温まっていた。
僕は今度は遊歩道を歩く。
コンクリートで舗装された道。
錆びた鉄柵が海沿いに続いている。
展望台まで来ると、
一枚の青銅のプレートが目に入った。
そこにはこう刻まれていた。
――この場所より望む海、最良。
僕は立ち止まり、海を見渡す。
確かに眺めはいい。
でも、
海はやっぱり海だった。
すぐ近くには、一組の老夫婦がいた。
妻は車椅子に座り、
夫はその後ろへ静かに立っている。
二人とも何も話さない。
ただ海を見ていた。
僕はしばらくその背中を眺める。
夫の手は車椅子の取っ手へ添えられ、
節の太い指には歳月が刻まれていた。
妻の白髪は風に乱れても、
本人は直そうともしない。
二人はまるで、
あらゆる季節を越えてきた二本の木みたいだった。
根はどこかで結ばれ、
枝はそれぞれ違う空へ伸びながら、
同じ土を生きている。
そこへ永遠の愛なんて言葉はいらなかった。
歳月の証も、
沈黙の絆もいらない。
ただ。
冬の海を眺める二人の老人が、
そこにいた。
その瞬間だった。
胸の奥から、
鋭い感情が突き上げてきた。
彼女の言葉を借りた感動じゃない。
もっと深く、
もっと原始的なもの。
地中深くで眠っていたマグマが、
突然ひび割れを見つけて噴き出すみたいに。
あまりにも強くて、
僕は思わず海へ背を向けた。
ゆっくり息を吸う。
目の奥が熱い。
涙ではない。
もっと名前のない感情だった。
それが静まるまで、
僕は長いことその場を動けなかった。
もう一度振り返ると、
老夫婦の姿はもうなかった。
展望台には風だけが残っていた。
午後になると、僕は帰りの新幹線へ乗り込んだ。
窓の外で、
海は少しずつ遠ざかり、
代わりに陸地が景色を埋めていく。
僕は自分の手を眺めた。
掌には砂で擦れた細かな傷が残り、
海風と塩のせいで肌は乾き、少しつっぱっている。
爪の隙間には小さな砂粒が入り込んでいて、
僕はそれを一粒ずつ取り除いた。
灰色の、
とても小さな砂だった。
街へ戻るころには、
もう夕暮れになっていた。
駅から地下鉄へ乗り換え、
いつもの帰り道をたどる。
見慣れた景色なのに、
どこか違って見えた。
きっと海を見てきたばかりだからだろう。
人も建物も密集したこの街は、
いつも以上に息苦しく、
騒がしく感じられた。
家へ帰ると、
すぐにシャワーを浴びた。
熱い湯が、
肌に残っていた塩と砂をゆっくり洗い流していく。
乾いていた皮膚は少しだけ柔らかさを取り戻した。
鏡を見ると、
頬は海風に焼かれ、
軽い日焼けみたいに赤くなっていた。
夕食は、きちんと作ることにした。
ステーキを焼き、
野菜をオーブンへ入れ、
米を炊く。
惣菜も、出前も使わない。
少しだけ時間をかけて、
一人分の食卓を整えた。
肉はミディアムレア。
切り分けると中心が淡い桃色をしている。
野菜は縁が少し焦げ、
甘い香りが立っていた。
炊きたてのご飯は粒が立ち、
白く湯気を上げている。
僕はゆっくり噛みしめながら食べた。
肉の繊維。
野菜の甘さと歯触り。
米の柔らかさ。
味は口の中で静かに広がっていく。
懐かしい味でもない。
故郷の味でもない。
ただ、
食べ物そのものの味だった。
食事を終え、
机へ向かう。
パソコンを開き、
新しい文書を作る。
カーソルだけが静かに点滅していた。
僕は打ち始める。
――海は灰色だった。
単調な灰色ではない。
岸辺には濁った灰。
沖には鉄みたいな灰。
泡は汚れた白に近い灰。
砂浜は粗く、
裸足では痛かった。
風は塩を含み、
見えない刃みたいに肌を切っていく。
そこに詩はなかった。
あるのは物理的な事実だけだった。
けれど、
そんな海の前へ立つと、
人は不意に理解する。
現実は飾らなくても現実なのだと。
痛みは比喩を必要としない。
孤独も象徴を必要としない。
ただ、
そこに在る。
大きく、
静かで、
疑いようもなく。
書き終えて読み返す。
飾り気のない文章だった。
少し硬いかもしれない。
それでも、
一文字ずつが僕自身の言葉だった。
彼女から借りたものではない。
僕はもう一度キーを叩く。
――今日、海辺で老夫婦を見た。
夫が車椅子を押し、
妻は静かに海を見ていた。
二人は一言も話さなかった。
僕は勝手に物語を作らなかった。
一生愛し合ってきたのかもしれない。
ただ長いあいだ隣で暮らしてきただけかもしれない。
昨日、大喧嘩をしたばかりかもしれない。
僕には分からない。
でも、
あの瞬間、
二人がそこにいたという事実だけは確かだった。
海岸線がそこにあることと同じくらい、
揺るがなかった。
意味を与える必要なんてない。
在るということ自体が、
もう十分な意味だった。
そこで手が止まる。
彼女の声が、
ふと胸の奥によみがえった。
――僕はずっと君のそばにいる。
あれは、
嘘だった。
けれど。
もしかすると、
あえて嘘をついたのかもしれない。
彼女は知っていたのだ。
一人で歩かなければならない道があることを。
自分自身の目で、
見つけなければならない景色があることを。
文書を保存せず閉じ、
僕は窓際へ歩いた。
夜の街は、
無数の灯りで満ちている。
もう無理に言葉へ置き換えようとは思わなかった。
ただ、
静かに見つめる。
そのときだった。
街の南東の空だけ、
雲が少し薄くなっていることに気づく。
かすかな月明かりが、
そこから滲んでいた。
満月ではない。
細い細い三日月だった。
僕はもう、
何かに喩えようとはしなかった。
それは、
三日月だった。
それだけで十分だった。
それでも僕は、
長いあいだその光を見つめ続けた。
やがて雲が流れ、
三日月は静かに隠れていった。
❀
一月、最初の仕事始めの日。
僕は編集部へ戻った。
オフィスには休み明け特有の空気が漂っていた。
お土産を配る人。
休暇の思い出を話す人。
太った、と笑いながら嘆く人。
いつも通りの賑やかさ。
生活の匂いがする、他愛ない時間だった。
僕は席に着き、パソコンを立ち上げる。
未読メールは四十七件。
会議の案内。
原稿の修正依頼。
定期購読の更新。
新年の挨拶。
広告の営業。
一通ずつ目を通し、
一通ずつ処理していく。
どれも今すぐ返事が必要というわけではない。
それでも、放っておけるものは一つもなかった。
生活もきっと同じだ。
切迫した危機はなくても、
毎日、小さな責任が積み重なっている。
昼休み。
編集長が声をかけてきた。
「新年最初の連載、何を書くか決めたか?」
僕は少し考えてから答えた。
「雪を書こうと思います。
クリスマスの日に降った雪を」
「悪くないな」
編集長は頷く。
「でも雪なんて、誰もが書いてる。
何か新しいものがほしい」
「やってみます」
編集長はその場を離れなかった。
僕の顔をしばらく眺めてから、
ぽつりと言う。
「お前、少し変わったな」
「そうですか」
「うまく言えないけど……落ち着いたというか。
前は何かを探してる目をしてた。
今は、見つけたようにも見える。
ただ、その見つけたものは、たぶん欲しかったものじゃなかったんだろうな」
思わず笑ってしまう。
驚くほど、的確だった。
「歳を取ったのかもしれません」
「二十七で何言ってる」
編集長は肩を軽く叩いた。
「まあ、大人になったなら悪くない。
三時から会議だから忘れるなよ」
「はい」
午後の会議では、
新年特集の企画について話し合われた。
僕は一つ提案をする。
「『裸眼観察』という連載はどうでしょう」
「裸眼観察?」
「比喩をできるだけ使わない。
形容詞も減らして、
目の前にあるものを、そのまま記録するんです」
僕は例として雪を挙げた。
「『羽毛みたいだ』とか、
『粉砂糖みたいだ』とか、
『おとぎ話みたいだ』とは書かない。
雪は水が零度以下で固体になり、
空から落ちて、
地面を覆う。
反射率が変わり、
音を吸収する。
歩けば足跡が残り、
その足跡によって雪の密度や光の反射も変化する。
やがて気温が上がれば溶け、
水になって土へ染み込み、
あるいは蒸発する」
数秒、
会議室が静まり返った。
「……理科の教科書みたいだな」
誰かが苦笑する。
「ちょっと冷たい印象ですね」
別の誰かが言った。
編集長は腕を組んで考え込む。
「でも、一度やってみてもいい。
読者の好みも多様だからな。
ただ、やりすぎると気象観測になる。
その境界だけは気をつけろ」
「分かりました」
会議が終わると、
僕は席へ戻り、
雪についての原稿を書き始めた。
彼女の言葉ではなく、
僕自身の観察だけで。
――十二月二十四日から二十五日にかけて、市内で降雪。
積雪量は均一ではない。
屋根は厚く、
道路は除雪と車の往来で薄い。
枝に積もる雪は、上を向いた面だけに残る。
雪は純白ではない。
影では青灰色になり、
陽の当たる場所では眩しいほど白く、
踏み固められた場所は汚れた灰色になる。
雪は音を吸収する。
普段より街は静かになる。
光も変わる。
反射が増え、
夜でも景色はわずかに明るい。
そして雪は必ず溶ける。
気温が零度を越えると、
端から少しずつ水へ戻り、
濡れた地面だけを残して消えていく。
そこまで書いて、
僕は手を止めた。
読み返す。
正確だった。
でも、
生きてはいなかった。
解剖記録みたいな文章だった。
全部消して、
もう一度書き始める。
――雪は、クリスマス・イブの夜に降り始めた。
急ぐこともなく、
一枚一枚が丁寧に空を降りてきた。
雨とは違う。
雪には急ぐ理由がない。
世界はゆっくり白くなっていく。
けれど、その白さは均一じゃない。
厚く積もる場所もあれば、
薄く地面を覆うだけの場所もある。
長く使われた消しゴムで消した紙みたいに、
白はところどころまだらだった。
雪を踏むと、
足元で小さく鳴る。
その音は不思議なくらい確かで、
「ここに僕がいて、ここに雪がある」
そう静かに教えてくれる。
子どもたちは雪だるまを作る。
公園には、
僕の青いマフラーを巻いた雪だるまが、
黙って立っていた。
クリスマスの朝、
雪は止み、
陽射しが金色の光を返す。
でも、その光も長くは続かない。
午後になる頃には、
雪は枝先から少しずつ溶け始める。
一滴。
また一滴。
まるで、
ゆっくりと別れを告げるみたいに。
今では雪はもうない。
残ったのは濡れた地面だけだ。
それでも、
記憶の中の白さは、
本当の雪よりも長く残っている。
書き終え、
編集長へ送る。
十分ほどして返信が届いた。
――いい。
静かな懐かしさがある。
飾らないのに、ちゃんと詩になっている。
この調子で書いてくれ。
僕は小さく息を吐いた。
彼女がいなくても、
僕は書ける。
あの人ほど美しくはなくても。
少なくとも、
これは僕自身の文章だった。
それからも生活は続いていく。
空を見て天気を読むことを覚えた。
雲の厚さ。
風向き。
道を歩く人の服装。
外れることもある。
雨だと思えば晴れたり、
寒いと思えば暖かかったり。
でも、
間違えることも覚えるということだった。
食べ物の味も、
自分の言葉で表すようになった。
「懐かしい味」ではなく、
塩味は七、
辛さは三、
口当たりはなめらかで、
後味は少し苦い。
そんなふうに。
同僚には、
「最近、グルメ評論家みたいだな」
と笑われた。
僕は笑って答える。
「事実を言ってるだけですよ」
隣に住む陳さんのおばあさんは、
相変わらず食べ物を分けてくれた。
臘八粥。
飴菓子。
時々、おかずまで持ってきてくれる。
もう彼女がいるのかとは聞かれない。
代わりに、
「最近、顔色が良くなったね」
と穏やかに笑った。
「よく眠れるようになったからかもしれません」
「それが一番だよ。
人はね、ちゃんと食べて、ちゃんと眠れれば、それでいいんだから」
僕は頷いた。
食べること。
眠ること。
それだけのことが、
暮らしの土台なのだと思った。
――続きもこの文体・用語を維持したまま翻訳できます。
一月最終週、街にはもう一度雪が降った。
今度はコラムを書くこともなく、ただ窓辺に立って、その降り方を見つめていた。
街灯の光の中で雪は静かに舞い、一枚一枚の輪郭がはっきりと見える。回転しながら落ち、地面は少しずつ白さを増していく。世界は少しずつ静かになっていった。
僕は長いあいだ眺めていたあと、ノートを開き、ペンを走らせた。
――雪が降っている。
「何かのようだ」とは書かない。ただ雪が降っている。
街灯の光の中を白い粒がゆっくり落ちていく。照らされた塵にも似ているけれど、塵よりも遅く、塵よりも落ち着いている。
地面は一瞬で白くなるわけじゃない。少しずつ、少しずつ、誰かが大きな白い紙を丁寧に広げていくみたいに染まっていく。
音は消えたわけじゃない。ただ厚みを持った。布団を一枚隔てて世界を聞いているような、不思議な静けさ。
僕は窓辺に立ち、ガラスへ手を添える。
ガラスは冷たい。
でも掌は温かい。
今、この瞬間。
雪が降っていて、僕はそれを見ている。
それだけだ。
比喩も、象徴もない。
ただ、その事実だけがここにある。
けれど、その事実には、静かな美しさが宿っていた。
書き終えたあと、僕はゆっくり読み返した。
――これでいい。
そう思えた。
彼女の言葉のような華やかさはない。
でも、これは僕自身の文章だった。
塗装を施した家具ではなく、木肌をそのまま残した家具のように。
飾り気はなくても、木目は嘘をつかない。
二月。
冬が終わろうとしていたころ、母から電話がかかってきた。
「昔の家の跡地の隣に残ってた空き地ね。あそこも、いよいよ開発されるみたい」
母はそう言った。
「今ならまだ何もない景色が見られるけど、工事が始まったら全部変わっちゃうわ。……一度、帰ってこない?」
「うん。帰るよ」
週末、僕は久しぶりに故郷へ向かった。
実家はもうない。
その場所は駐車場になっていて、隣の空き地だけが、取り残されたように枯草を揺らしていた。
僕はその真ん中まで歩いていく。
草は膝ほどまで伸び、冬色に乾ききっている。
少し離れた場所には、青い仮囲いが立ち始めていた。開発会社の名前と完成予想図が印刷されている。
風が強かった。
コートが身体に張りつくほどの風だった。
立ち止まり、辺りを見渡す。
左には駐車場。
右には、これから始まる工事現場。
背後には古い商店街。
前には新しいマンション群。
どちらにも属さない場所だった。
かつて何かだった場所。
これから何かになる場所。
そして今は、まだ何者でもない場所。
僕はしゃがみ込み、枯草へ手を伸ばした。
乾いている。
脆く、少し力を入れるだけで折れてしまう。
根元の土は半分凍り、細かな氷の粒が指先へ触れた。
そこには「記憶の手触り」も、「郷愁の温度」もない。
あるのは草であり、土であり、冬という季節だけだった。
僕は立ち上がり、もうすぐ姿を消すこの空き地を静かに見つめた。
風は変わらず吹き続けている。
枯草は波のように揺れ、冬の野原をゆっくりと渡っていく。
その光景を眺めながら、不意に彼女の言葉を思い出した。
――世界はそこにある。そして、君もそこにいる。
そうだ。
世界はここにある。
駐車場があり、空き地があり、工事現場があり、古い街並みがあり、新しい建物がある。
そして僕もここにいる。
二十七歳。
世界を言葉へと訳してくれる誰かを失い、それでも、自分自身の目で世界を見ることを覚えた。
美しく見られない日もある。
深く理解できない日もある。
それでも、自分の目で見たものは、確かに僕のものだった。
風がふっと弱まる。
あたりは静かだった。
そのとき。
――いや、そう聞こえた気がしただけかもしれない。
風が草の先を撫でる、そのかすかな音に重なるように。
彼女の声がした。
「ほら、晴れてきたよ」
僕は空を見上げた。
厚かった雲がゆっくりとほどけ、その隙間から淡い青空がのぞいている。
差し込んだ陽の光は一本の光柱となって、斜めに空き地へ降り注いだ。
枯草が、その光を受けて金色に染まる。
綺麗だった。
本当に、それだけだった。
そして、その美しさを説明してくれる声を、僕はもう待たなかった。
ただ見つめる。
頬を撫でる風を感じる。
目に届く光を受け止める。
足元で枯草がささやく音を聞く。
それで十分だった。
僕は静かに踵を返す。
もう振り返らない。
覚えていたいものは、もう心の中に残っている。
手放すべきものも、きっと、もう手放せたから。
春は、もうすぐ来る。
❀
晩秋の夕暮れ。
僕はひとり、子どものころ住んでいた家の跡地を訪れた。
わざわざ来たわけじゃない。
散歩をしているうちに、気づけば足がここまで来ていた。
前に訪れてから、もう半年になる。
駐車場は変わらずそこにあった。
けれど隣の空き地では工事が始まり、杭打ち機の鈍い音が一定の間隔で響いている。
まるで、大地がゆっくり鼓動しているみたいだった。
僕は駐車場の入口で立ち止まり、その中へは入らなかった。
西へ傾いた陽が、僕と影を長く伸ばしている。
あの銀色のセダンはもうなく、代わりに白いSUVが停まっていた。
たぶん、昔、僕の部屋があったあたりだ。
工事現場のほうから風が吹いてくる。
土埃と、乾いたコンクリートの匂いを運びながら。
遠くではクレーンの影が夕暮れの空をゆっくり横切っていた。
巨大な生きものが、黙って何かを考えているようだった。
昔のことを思い出そうとはしなかった。
記憶は、呼び戻すものじゃない。
そこにあるものだ。
あの家の姿も。
庭の木も。
夏の蝉の声も。
冬のストーブのぬくもりも。
みんな僕の中に残っている。
年輪みたいに、身体の奥へ静かに刻まれている。
だからもう、あの場所へ戻る必要はない。
「あそこ」は、もう存在しない。
子どものころが戻らないように。
彼女が戻らないように。
今ここにあるのは、この瞬間だけだった。
コンクリートのざらつき。
土埃に混じるガソリンの匂い。
杭打ち機が刻む規則正しい振動。
頬を撫でる風。
目に届く光。
それが、今の僕に見えている世界だった。
飾り気はない。
詩もない。
比喩もない。
僕ではない誰かの目が、この世界を訳してくれることもない。
そして、かつて彼女と見ていた、あの詩に満ちた世界は――
誰にも知られることのなかった夢のように、
静かに、僕の瞳の奥へ沈んでいった。
それでも。
あの夢は、本物だった。
彼女の言葉を通して知った美しさも。
世界の細やかな手触りも。
何かと何かが静かにつながっている感覚も。
たとえ、その語り手が本当には「存在」していなかったとしても。
たとえ、「永遠」という約束が、優しい嘘だったとしても。
あの時間は、確かに僕を形作った。
もう僕の一部になっている。
子どものころは終わった。
それでも、その時間が今の僕をつくったように。
彼女はいなくなった。
それでも彼女は、この世界をどう見つめればいいのかを僕に残してくれた。
たとえ、その視線が借りものだったとしても。
たとえ、その目が僕の想像から生まれたものだったとしても。
これからは、自分自身の見方を覚えていかなければならない。
彼女のようには、きっとなれない。
あんなふうに世界を詩へ変えることもできない。
でも、それでいい。
これは僕の見ている世界だから。
風が少し強くなった。
舞い上がった砂埃が夕陽の光を受け、小さく光っては消えていく。
そこには「黄金の星屑」も、
「光の舞踏」もなかった。
あるのは、空気の流れに乗った小さな粒子が、ほんの一瞬だけ光を反射しているという、それだけの現象だった。
それでも僕は、しばらくその光景を見つめていた。
どこまでも素朴な現実にも、
現実だけが持つ美しさがある。
誰かに語られなくてもいい。
意味を与えられなくてもいい。
そこに在るということ、そのこと自体が、もう十分に美しかった。
踵を返したとき、不意に彼女の最後の言葉を思い出す。
――「私はずっと、君と一緒にいる。」
嘘だった。
彼女は永遠にはいてくれなかった。
寄り添ってくれたのは、秋から冬へと続く、たったひとつの季節だけだった。
でも――
ある意味では、あの言葉は嘘じゃなかったのかもしれない。
彼女が教えてくれた世界の見方。
彼女が残してくれた記憶。
彼女が僕の心に植えていった、美しいものへ目を向ける感覚。
それらはきっと、この先も僕とともにある。
記憶として。
習慣として。
そして、僕の瞳の奥に残り続ける、決して消えきることのない、小さな詩の影として。
僕は前を向いて歩き出す。
振り返ることはしない。
杭打ち機の音は少しずつ遠ざかり、
代わりに街のざわめきが、ゆっくりと僕を包み込んでいく。
赤信号で立ち止まり、
青信号になれば、人の流れに混じって横断歩道を渡る。
すべては静かに繰り返されていく。
街の呼吸のように。
季節が巡るように。
失われることも、
続いていくことも、
きっと同じくらい当たり前なのだ。
その中を、僕は歩いていく。
失ったものも。
手に入れたものも。
覚えているものも。
忘れてしまったものも。
現実だったものも。
幻だったものも。
そのすべてを抱えたまま。
前へ。
夜明け前が、一番暗い。
だからもう、
僕は誰かの目を借りなくてもいい。
この暗闇の中で、
自分の歩く道を、
自分の目で見つけていける。
たとえその道が、
思っていたよりもずっと寂しく、
そして、
ずっと本物だったとしても。




