悪しき力の正体・7
頬に冷たい滴が当たったようだ。
かなり高いところから落下してきたのだろうか。一粒の水滴が勢いよく頬を叩くので、ルナリアはその痛みで目を覚ましたのだ。
薄暗い空間だった。
真っ暗闇ではない。どこかに光源があるようだが、意識が戻ったばかりのルナリアにはこの薄暗さに目をなじませるだけで精一杯だった。
(ここはどこなの?)
体を起こすときに手をついてようやく、今まで自分が横たわっていたのは、滑らかな石を並べた床だと気がつく。
(なんだか床が温かいわ。地熱かしら)
そう思いながら周囲を見回すと、青白く光る細長い物体が目に入った。
(魔剣だわ。魔剣が光っていたのね)
ルナリアは這うようにして魔剣の在処に近づき、手を伸ばした。
魔剣はブンと震えるような音を立てた。
しかしルナリアが触れると光を放ったまま静かになる。
どうしようか、と魔剣を手にしたまま座り込んでいたが、ルナリアの耳は人の話し声のような音を拾った。
(誰かいる。……か細い声ね。女の子かしら)
深く考えもせずにルナリアは立ち上がり、魔剣を持って声のするほうへ歩き出した。
こうして歩いてみると、ルナリアが横たわっていたのはだだっ広いホールのような場所だったらしい。
しばらくは壁が見えなかったが、ついに行き止まりの壁が視界に出現した。
(この空間には人の気配を感じない。ということは、声は壁の向こう側から聞こえてきたのかしら。でもかなり分厚い石壁みたい)
立ち止まって耳を澄ますと、先程より話し声が聞き取りやすくなった気がした。
ルナリアは壁に片手をついた。そして壁に沿って歩き始める。手で壁を触ったまま進む。
しばらくすると壁の切れ目にたどり着いた。
ぽつりぽつりと話し声が聞こえてくる。
「泣かないで……」
「だって……帰ってこないでしょ」
壁の切れ目はルナリアの指一本分ほどしか開いていなかった。これでは壁をすり抜けることができない。
仕方なくその隙間に顔を近づけて覗くと、ルナリアと同年代か年下の少女たち数人が肩を寄せ合って座っているのが見えた。
(ここにいるのは、もしかして……ダーラウから攫われた子たちなの?)
そう気がついた瞬間、背中に悪寒が走る。
彼女たちは、ルナリアの身代わりで攫われたのかもしれないのだ。いつからここに囚われているのだろう。
ルナリアは彼女たちのいる空間を見える範囲でつぶさに観察した。
どうやら小さな部屋で共同生活をしているようだった。
どの少女も頬がこけ、体もやせ細っている。今にも泣きだしそうな表情の子もいれば、すべてをあきらめたように虚ろな目をしている子もいた。
「家に帰りたい」
「私たち、このまま殺されちゃうの?」
ルナリアの胸がズキンと痛んだ。
薄暗い穴倉のような場所に長い間監禁されているのだ。どれほど心細かっただろうか。
壁の隙間がもう少し大きければ助け出せるかもしれないが、今は無理そうだ。魔剣の力で通り抜けられないかと思い、壁に近づけたり、胸に抱いて念じてみたが、壁はびくともしなかった。
やるせない思いで再び壁の向こう側を覗き込むと、痩せてはいるが、軽やかな足取りの少女が、座り込む子たちの前にやって来るのが見えた。
顔はよく見えないが、背格好や物腰から察するに、この中では年長者のようである。
「ねぇ、みんな。前にも話したでしょう。思い出して、ルナリア様のこと」
ルナリアは驚いて目を見開いた。
うつむきがちだった少女たちが顔を上げる。
「ダーラウのルナリア様ね」
「そう。ルナリア様は12のときに神隠しにあって、数日間行方不明になったの。たくさんの人があちこち捜索したのに、何の手がかりもなくて、もうほとんどの人があきらめたわ。だけど、ルナリア様は戻ってこられた」
「どうやって?」
「それは……私にはわからないけど……とにかくご無事だったのよ。その後は剣の稽古に励まれて、男の剣士にも負けないくらい強くなられた。私、馬で駆けていくところを何度か見かけたことがあるの。私たちとそんなに変わらないのに、凛々しくて、美しかったわ」
「私もお見かけしたことがあるわ。銀色の髪が陽の光を浴びてキラキラしていて、かっこよかった」
ルナリアは思わず一歩後ずさった。
(あなたたちが囚われの身になったのは、私のせいかもしれないのに……)
そう思うといたたまれない気持ちになった。
なんとかして彼女たちを救いたい。しかし壁の隙間から手を差し伸べることすらできないのに、声をかけて期待を持たせるのも無責任な気がした。
「諦めるのはまだ早いわ。ルナリア様のように、私たちも生きて戻りましょう。気を強く持って、ね?」
年長らしき少女の力強い言葉に、他の少女たちが頷く。
ルナリアはそれを見届けてから、今度は自分の意志で壁から離れた。
ぐずぐずしている暇はない。
まずはここがどういう場所か探り、出口を見つけなくてはならない。
(私はまだ死ねない。こんなところで死ぬわけにはいかないわ)
魔剣の柄を両手でギュッと握りしめた。
青白い光が一瞬輝きを増した。
そのときだった。
急に斜め前方の壁にぼんやりと何かが浮かび上がる。
ルナリアのいる場所から少し距離があるので、おそるおそる近づいていった。すると、壁が急にこちらを見た。
「ひぃ!」
喉の奥から悲鳴が漏れた。
壁に男の顔が浮かび上がり、ギョロリとした大きな目がルナリアの姿を捉えていた。
「大きなネズミが紛れ込んだとばかり思っていたが、これはなんとも珍しい。王太子妃殿下ではありませんか」
壁に浮かび上がった顔に見覚えがあった。
王宮の舞踏会に登場するなり話題を攫ったノクタリス男爵の顔だった。
ルナリアは口を開けたまま硬直した。
「ノクタリス男爵……」
「これは光栄なこと。そうです。私はマグナス・ノクタリスと申します」
壁の顔がお辞儀をするようにうつむきがちになり、そこから大きな目だけがルナリアへと向けられた。
上目遣いのノクタリス男爵は、壁に浮かび上がった像であっても秀麗な顔立ちに変わりはなかった。だからなおさらだろうか、微笑んでいるのに凄まれているようにしか感じられない。
おのずとルナリアも表情を消し身構えた。
「ここはどこですか?」
「その剣をこちらに渡してください。そうすればあなただけは助けてあげよう」
優雅で美しい笑みを浮かべたノクタリス男爵は、ほんの少し顔を右に傾ける。
ルナリアは剣を持つ手にますます力を込めた。
「『お断りします』と言ったら?」
「仕方がない。あなたはどこに逃げられるわけでもない不利な立場だ。それをわきまえたほうがいい」
ノクタリス男爵の言い回しには、どことなくルナリアを軽んじる心情が透けていた。
しかしルナリアからすれば、壮年まで生き、体が大きく、腕っぷしが強いだけで、自分よりも若く、小さく、弱い人間を軽視する理由にはならない。
これまでも年上の男性から生意気な小娘だと疎んじられることはあった。容姿の良さを褒める一方で「従順であれ」と圧力をかけてくる。おとなしいことが女性の美徳のように大きな声で主張するのだ。
いちいち反論したところで彼らは耳を傾ける仕草すらしない。薄ら笑いを浮かべて「生意気な小娘を相手にする男はいないぞ」とあしらわれるのが関の山だ。
ルナリアは内心うんざりしながらも、この場所について何か少しでも聞き出せないかと思案した。
「わたくしは望んでここへ来たわけではありません。ここはどこですか?」
「そこは、昔から『奈落の祭壇』と呼ばれている」
ルナリアは眉間に皺を寄せた。はじめて聞く名称に底知れぬ禍々しさを覚えたからだ。
辺りを見回してみるが、壁も床も石が敷き詰められた空間があるだけで、祭壇のようなものは見つからない。
「奈落の……祭壇?」
「むしろどうやってそこへ入り込んだのか、私のほうが知りたいくらいだ。そこは——入口も出口もない場所なのだから」
「えっ!?」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
ノクタリス男爵は少し目を細めて、何かを納得したように頷いた。
「その剣の仕業だな。自ら飛び込んできてくれるとは、願ってもない展開だ。もう少し相手をしてあげたいが、私も忙しい。しばらくそこでおとなしくしていなさい」
ルナリアは壁の顔を睨みつけた。
「嫌です」
「フフッ、さすがはお転婆と名高いお嬢さんだ。私は知っているのだよ。あなたがあの山小屋で、誰に何をされたのか……」
ギンッ、と金属の鈍い音が暗い広間に反響した。
ルナリアが壁に浮き出たノクタリス男爵の眉間に、魔剣を突き立てたのだ。
「わたくしがお転婆だからあんな目に遭ったと言いたいのですか?」
「怖い顔をしていると王太子に嫌われますよ」
魔剣といえども石壁に刺さるはずもないが、それでもルナリアは剣をノクタリス男爵の眉間に押し込むように力を込めた。
ギリギリと石と剣がこすれて反発し合う音が耳に障る。
さすがにノクタリス男爵は顔をしかめ、苦笑した。
「むきになるところを見ると、そうか……惚れたか」
ルナリアの頬がカッと熱くなった。
冷静でいなければならない場面だとわかっている。それでも怒りの炎が、胸の奥で急速に燃え広がった。
それに気がついたのか、ノクタリス男爵は愉快そうに口を歪めて笑った。
「なんと憐れな。王太子はいずれあなたを捨て、他の女との間に子を成す男なのに……」
もう一度ギンッと剣と石がぶつかり合う音が響いた。先ほどよりも鋭く強い音だった。
ルナリアが渾身の力で剣を石壁に突き立てていた。
「黙りなさい!」
ノクタリス男爵は眉間に剣を突き立てられたまま、不敵な笑みを浮かべていたが、次第にその像は薄れていった。
彼の顔が完全に消えると、ルナリアの前にあるのは武骨な石壁だけであった。
ルナリアはゆっくり剣を下ろし、その場にへたり込んだ。
鉛の塊を詰め込まれたかのように、体が重い。魔剣から手を離し、上体を床に近づけた。
静かに体を横たえる。
石の上に身を投げ出すと、硬い床に直接当たる肩や背中が痛かった。だが、そんなことより気分の落ち込みのほうが酷い。
(……嘘よ。ハッタリだわ。ありえない。どうやって知ることができたというの?)
しかし王宮での舞踏会の日、誰も知るはずのないことが噂として囁かれていた。あれは誰が……?
(まさか——!?)
瞬きをするのも忘れて、しばらくの間ルナリアの目は開きっぱなしになった。
(発信源はノクタリス男爵とファンヌ……あの人たちだった。でもどうやって知ったというの……?)
わからない。だからこそ怖かった。
まるで見てきたかのように噂する彼らが、どこでどうやってそれを知り得たのか。
誰がどんなふうにその話を聞いたのか。何人の人が知ったのか。ルナリアが誰にも話したことのない、あの山小屋での出来事を——。
すうっと目尻から涙がこぼれた。
なぜ涙が出るのかわからない。泣いたとて、何かが変わるわけではない。
耳の裏側から首筋に悪寒が滑り落ちた。同時に体が硬直する。
胸の奥を抉れらるような恐怖が、一瞬呼び覚まされ、すぐに消えた。
怖い。助けて。嫌だ。やめて。お願いだから、誰か——。
慌てて息を吐く。負の感情がルナリアを支配してしまう前に吐き出さなければ、恐怖に溺れてしまいそうだった。
(何をどうやっても、すべてなかったことにはならないわ。何一つとして、私が望んだことではないのに……)
おぞましいノクタリス男爵の顔と声が、新たな脅威としてルナリアの脳に刻まれる。
あんな脅しに屈してはいけないと思う。
だが今は——。
己が弱くちっぽけでみすぼらしい存在だと、消せない烙印を押されたような気がして、できるならこのまま消えてしまいたかった。




