第3話.アデール・マテューの懸念
セシルから「侯爵夫人としての振る舞いを学ぶべく、縁ある他家の夫人を屋敷に招いても良いか」と、いつも通り侍女伝いに告げられたルシアンは、彼女が星見の宴に向けて準備を整えようとしているのだと思い当たってすぐに許可を出した。
確かに、オブシディアの貴族にとって星見の宴は重要だ。結婚前は「ペリドット家の引きこもり令嬢」らしく一度とて参加したことがないと聞いているが、ダイオプサイト侯爵夫人となって初の夜会を同じように欠席する気はないようでルシアンは少し安心した。
同時に、気が重い、と思う。自分は、同居していながらこれだけ距離のある相手をエスコートしなければならないのだ。正しい振る舞いを学ぼうという意欲の通り、セシルが協力的であることを祈るしかない。
妻がいれば、夜会でいつも発生する女たちの囲いはなくなるだろうか。四方八方からひしめく高い声、多種多様な香水の匂い……思い出すだけでも頭痛がしてくる。
かつてこの国で大陸に共通する爵位の代わりに用いられていた色位文化の名残で、未だ公的な夜会の場で着られる衣装の色が灰から黒だけなのが唯一目に優しい。これで他国と同じように色とりどりのドレスを身に纏った女たちに囲まれたらと思うと……ルシアンはギュッと固く目を閉じて嫌な想像を振り払った。
(……そう言えば、彼女は黒橡のドレスをまだ仕立てていないのではないか)
色位の頃の文化を元に、現在のオブシディア王国貴族は自身の爵位が該当する色位の色を正装として身に纏う。王家を最上の漆黒とし、彼が該当する侯爵位は上から二番目に黒の濃い黒橡だ。セシルはその一つ下、伯爵家の令嬢として濃墨を纏ってきたはず。
(……まずいのでは?)
上位貴族御用達のオートクチュールは完成までに少なくとも二月はかかる。そして、星見の宴まではあと一月程度。自領に腕の良い職人を多く抱えるルシアンは静かに青褪めた。納期に追われた職人ほど恐ろしいものはないと知っているので。
こうしてはいられない、とルシアンは使用人を呼び、セシルへの伝言を頼んだ。
そして使用人が急ぎ足で執務室を出ていくのを見送る間もなく手紙を書き始める。ルシアンの表情は淡々としたままだが顔色は最悪だ。一人静かに蒼白になりながら、ダイオプサイト侯爵領からこの王都に支店を出している職人の中で最も腕が良く仕事の早い者へ、無茶苦茶な納期の仕事を頼みたい旨を懇切丁寧に綴ったのだった。
――――――
旦那様から使用人伝てに「黒橡のドレスをまだ仕立てていないだろう。こちらで仕立屋を呼ぶので要望は好きに伝えろ」とお言葉を頂戴いたしました。
わ、忘れていましたわぁ~~ッ!!
そうでした、わたくしは侯爵夫人になったのでした。伯爵令嬢時代に仕立てた濃墨のドレスはもう着られないのです! なんてこと! ちょっと勿体ないですわ!!
侯爵夫人としての振る舞いの勉強にばかり気を取られて、それ以前の問題を失念しておりました。恥ずかしいことです。
それにしても旦那様は大変素晴らしい気配りのできる方なのですね。このお話しぶり(伝言ではありますが)ですと、恐らくは今発注をかけても星見の宴に間に合わせることのできる仕立屋をご存知であり、その方を呼んでくださるということかと思われます。
ダイオプサイト侯爵領には素晴らしい仕立職人が多くいることは有名な話ですから、その伝を使ってくださるのでしょう。
旦那様が気づいてくださって良かった。勉強に突き刺さっている状態のわたくしでは、宴の前に衣装を決める段階で「あっ」となっていたに違いありません。恐ろしいですわぁ!!
ふぅ。それはそれとして、これだけお気遣いをいただけるということは、旦那様もこの結婚生活の維持には協力的と見ていいですわね。
ありがたいことですわぁ~~ッ!!
わたくしはあまり服飾に関心がないので要望などは特に浮かびません。ベランジェール様に意見を仰いでおこうかしら。とにかく、変に贅を凝らさず、夜会の場で浮かなければそれで満足ですわ。
「奥様、あの、差し出がましいことを申し上げるようですが、侯爵様とのご関係はこのままで本当によろしいのですか?」
わたくしの髪を梳きながら不意にそんなことを言ったのは、慣れ親しんだ者がそばにいた方が良いだろうと旦那様からご提案をいただいてペリドット家から連れてきた侍女、アデールでした。
「このままで、とは?」
「お会いにもならずお話しもされない、白い結婚そのものな現状です! 奥様は、セシル様は、本当にとても素敵な方なんですから、きちんとお話しすればきっと侯爵様も……」
「ありがとう、アデール。でもね、わたくしは今の生活に大満足していますのよ。協力的でいらっしゃいますし、旦那様もそうなのではと思うの」
「セシル様……」
鏡に映るアデールは悲しげです。長くそばにいてくれている彼女にこんな顔をさせてしまって申し訳なく思いますが、わたくしは本当に満足しているのです。
「大丈夫ですわよ、アデール。わたくしにはあなたがいるし、寂しくはないですわ」
今まで、お嬢様、とわたくしを呼んできたアデールに奥様と呼ばれるのは何だかこそばゆい気持ちですわね、ふふふ。
――――――
沈痛な面持ちでご機嫌な主人の髪を梳かしながら、侍女アデール・マテューは「そういうことじゃないんです奥様ぁッ!!」と叫び出したいのを悲しげな表情の裏でギュムッと堪えていた。
アデールは幼い頃にペリドット伯爵家に拾われ、何の後ろ楯もない状態から自分の腕前だけでセシルの侍女にまで上り詰めた女である。
高位貴族の令嬢の侍女になるのは、基本的には行儀見習いに出される貴族の令嬢だ。どこの生まれとも知れない人間がそうなれるものではない。
しかしアデールはその仕事ぶりで己の価値を示し続け、ついに認められてセシルの侍女となった。自分より少し年下の可愛いお嬢様を、大事に大事にして生きてきた。
お嬢様が奥様になり、ダイオプサイト侯爵邸に移った後、初夜の明けた最初の朝に「良く寝ましたわぁ~!」と一人ぼっちの寝室でつやつや起きてきたセシルを見てアデールは「こりゃまずい」と悟った。
その日から食事も自室で摂ることを決め、必要がなければ部屋には来ないでくれと告げ、会いに行くこともしない――この全てをアデール伝てに侯爵へ届けた。
それに対して、侯爵の側付きの使用人伝てに許可を得て「嬉しいことですわぁ~!!」と喜ぶ始末。
アデールは「これは、まずい」と心の底から思った。
麗しい新婚夫婦が同居しているのに、邸内は信じられないほど静かである。ダイオプサイト邸の使用人たちも上品で物静かな顔のまま「これマジ??」という空気を醸し出している。悲しく、驚くべきことにマジである。どうしたものか。
アデールは、セシルがこの白い結婚を全然、本当に全ッ然気にしていないことをよくよく分かっていた。
前ガーネット侯爵夫人を招いての勉強と、物語を書くことに全力投球して、夫のことを何にも気にしていないのはよくよく理解していた。
セシルが今「きゃ~、アデールに寂しい思いをしていないかと心配されてしまいましたわ~!」と思っていることにもよくよく、気づいていた。
奥様は、こういうお人である。自分の趣味に真っ直ぐで、しかし責任感はあり、分け隔てなく優しくて、そして鈍い。すごく鈍い。
侯爵はかなりセシルのことを思いやって行動している気がする。協力的、と言えばそれで終わってしまうがもしそれだけでなければ?
そんなふうに訝しんでいたアデールはある時侯爵邸の執事であるポールが似たような懸念と疑念を抱いているであろうことに気づいた。
ダイオプサイト侯爵の執事であるポールは、必然、アデールが担う侯爵宛のセシルからの伝言の受け取り口であり、侯爵からのセシル宛の伝言を侍女であるアデールに届ける人物でもある。
二人は当然顔を合わせる場面が多い。老年と言えよう、シルバーグレーの頭髪をきちっとまとめた穏やかな執事が時折物憂げな目をしていることを、敏腕侍女であるアデールが見逃すはずがない。
「――ポール様」
「おや、アデール殿。何か……いや、いつもの伝言でしょうか」
「いいえ」
ポールの憂いの原因が自分と同じだという確証はない。何せ直接悩みを聞いたわけでもないのだ……が、侍女としての勘が告げている――この人はこちら側の人間である、と。だからアデールは賭けに出た。
「単刀直入にお訊きします――旦那様と奥様の現状、どうにかしたくありませんか」
青い目が驚きを隠せないように見開かれ、緩やかに葛藤と希望を乗せながら細められていくのを見て、アデールは己の勝ちを確信したのだった。
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