第2話.ルシアン・ダイオプサイトの困惑
さて、ペリドット家とダイオプサイト家を結んだ婚姻の日から数日。若き侯爵ルシアン・ダイオプサイトは何とも困惑に満ちた新婚生活を送っていた。
まずは朝。本来であれば夫婦は共に朝食を摂るものであるが、初日からセシルは居間に現れなかった。侍女曰く、彼女は「旦那様がお求めであれば参じますが、そうでなければお食事は自室で摂ります」と宣い、一人静かに朝食を摂ったらしい。
次に休日の昼間。ルシアンは書斎で仕事を片付けたり温室で本を読んだりするのだが、そういった時間を邪魔されたくない、と釘を刺す前にセシルの方から「重要なご用事以外でわたくしの部屋には来ないでくださいまし」と侍女伝いに告げられた。
そして夜。セシルは勿論夕食の席には姿を現さないし、ルシアンが彼女の寝室に足を運ぶこともない。お互いにお互いの姿を見ることもないまま一日が終わる。
新婚生活とは……??
ルシアンは訝しんだ。本当に同居しているのかも怪しいレベルである。彼が今までに出会ってきた女たちの誰とも違う、不思議を通り越してもはや不気味な女だ。
いやしかし、こういう形だけの愛なき結婚生活を求めたのは自分だ、と唸る。そして初夜の宣言からして相手方も同じ希望を持ってこの婚姻に応じたらしい。
ならば問題ないのでは、と一応頷いてみる。
そうだ、何も問題はない。むしろ最高の状況だ。ルシアンは自分が想像していたのが、愛のない結婚に嘆いたり怒ったりする騒がしい女との同居だったので、現実の淡白っぷりに拍子抜けしてしまって肩透かしを食らったような気がしているのだ、と考えることにした。
夫婦の部屋は、貴族の屋敷によくある両室を繋ぐ扉はないが一応隣り合っている。だが、隣室から声や物音は一切聞こえてこない。文句を垂れる声も、使用人に当たり散らすような声もしなかった。
彼の妻となった人は静かな女であるらしい。
ルシアンは白銀の目を伏せてこの静寂を享受する。
父が自分に家督を譲り、隠居のために母を連れてこの屋敷を去ってから、ずっと続いている静寂だ。結婚によってなくなってしまうかと思っていたが、幸いなことに彼の好む静寂はそのまま保たれた。
窓から夜空を見上げる。オブシディア王国の貴族たちが、宝石の名を戴く自分たちの始祖として崇め尊ぶ星々が濃紺の夜空に常と変わらず輝いていた。
(何事も変わらないのが一番だ。星の煌めきの如く、不変と理性を貫くのが一番良い)
星を見上げる度にいつもそう思う。同時に、釣られたようにして幼い頃そっくりそのまま思ったことを母に告げたときの彼女の言葉も思い出すのだ。
『私の可愛いルシアン、確かに星の煌めきは不変で理性的に見える。その輝きは貴方の中にもあるのよ。けれど星は時に、驚くほどの熱度を持って輝いていることを忘れてはいけないわ』
母曰く、彼のように星の輝きを胸に抱く者は皆、遅かれ早かれ綺羅星のような、目映く、何ものにも代え難い激動の運命に出会うのだと言う。
(そんなものが本当にあるのだろうか。氷雪とすら囁かれる、心までも冷えきった私に)
カーテンを閉じて寝台に転がる。彼が目を閉じる頃になっても、やはり隣室は人の気配を感じさせないほどに静かだった。
――――――
新婚生活、最高ですわ~ッ!
ルシアン様の宣言を遮って「旦那様を愛することはありません」と言った手前、その通りに過ごさねばルシアン様にご迷惑がかかりますので、それらしくルシアン様とお顔を合わせることなく暮らしております。
何せこういった「愛のない結婚生活」というものは、わたくしが幾度か物語にしてきた題材ですから、手本にする例には事欠きません。それらしく振る舞うのは何だか演劇のようでちょっとドキドキいたします。
朝も昼も夜も、必要以上に関わらないでほしい、という態度を貫いておりますのよ。まさに愛のない結婚生活!! これぞ白い結婚!!
懸念であったダイオプサイト家の使用人たちの反応ですが、彼らはわたくしの行動には何も言わず、しかし暮らしに不自由のないようきちんと仕えてくださっております。ありがたいことです。
そして!! 何より嬉しいのが、ルシアン様から屋敷の女主人としての仕事を任されていないことです!!
嫁いだ以上屋敷の管理などはきちんとお預かりするつもりでおりましたが、仕事というものはしなくて済むのならしたくないもの。ルシアン様がわたくしを信頼していないからなのかは分かりませんが、とにかく、今のわたくしには仕事がありません。
ですから、わたくしは起きている間のほとんどの時間を趣味の時間にあてられるのです!!
筆が止まりませんわ~ッ!!
なにせ『氷雪の侯爵、ルシアン・ダイオプサイト』という素晴らしい素材に生で出会ってしまったんですもの。
怜悧な美貌の侯爵、しかしその胸の内には秘められた情熱が……あぁっ、なんて素敵、妄想が膨らんでゆくっ、旦那様、素材として美味しすぎますわ~ッ!
新作を綴る原稿用紙の枚数がどんどん増えて参ります。幸せなことです。
そういうわけで、わたくしは大変幸せで満足感のある新婚生活を送っております。
ですが結婚した以上わたくしはダイオプサイト侯爵夫人なのですから、そのお役目からは逃れられませんし逃れるつもりもありません。ええ、わたくし職務はきちんと果たしますのよ。
さて、初夏と言えばこの国で最も大切な行事である星見の宴が行われる季節です。
我々オブシディア王国の貴族は家名に宝石の名を戴いておりますが、その宝石は元々夜が降らした星々であり、貴族たちの血にはその星が宿っている、という伝承がございます。
そのため、わたくしたちは星々を尊び、その輝きが永久にわたくしたちの上に在るよう折に触れて祈るのです。その光がわたくしたちの支えとして在り続けてくださるように。
そういった理由から、星見の宴は王家が主催する一等大切な儀式であり、同時に煌びやかな夜会となるのです。
わたくしたちの結婚は春、それもすでに半ばとなります。やや急ぎ足で星見の宴の支度をしなければなりません。
結婚式を慎ましやかに執り行いましたので、星見の宴はわたくしたち夫婦のお披露目も兼ねております。
つまり、趣味に没頭するあまり社交界で「引きこもり令嬢」の不名誉な渾名を付けられてしまったわたくしが、デビュタント以来ほぼ初と言えそうな社交の場に、ダイオプサイト侯爵夫人として出ることになるということ。
あらあらどうしましょう、とっても緊張する気がして参りました。
何にせよルシアン様に恥をかかせるわけにはいきません。伯爵令嬢として淑女教育はきちんと受けた身ですし、その一環で女主人の職務についても学んでおります。ですからある程度は対応が可能、とは言え侯爵夫人となると……少し不安は残ります。
さあどうしましょう。とは言いつつも、こういうときにどうすべきかは学んでおりますの。ならば早速行動です。少し前から止まっていた筆を置き、鈴を鳴らして侍女を呼びました。
さて、どんな手紙を書きましょう。
そして七日後、一人の女性がダイオプサイト邸にいらしてくださいました。
品のあるモスグリーンのデイ・ドレス、しゃんと伸びた背筋。一纏めにした髪はすっかり白くていらっしゃいますが、凛として美しいご婦人です。
「お久しぶりです、セシル様……今はダイオプサイト侯爵夫人、でしたわね。改めまして、ベランジェール・ガーネットです。お手紙をいただいてとても嬉しく思いましたわ」
「お久しぶりですわ、どうぞ変わらずセシルとお呼びください。まさか屋敷まで足をお運びいただけるとは思いませんでしたわ。本当にありがとうございます、ベランジェール様」
「ふふふ、私はもうおばあちゃんですから、積極的に動かなければと思って。それに、お若い方とお話ができるのは本当に嬉しいの」
わたくしがお手紙を出した相手、それがこのベランジェール・ガーネット様、前ガーネット侯爵夫人です。
代々外交に携わるガーネット家と、輸入業に関わっておりますペリドット家にはありがたいことに少なからずご縁がございました。
そしてベランジェール様はわたくしが幼い頃に、わたくしたちペリドット家の姉妹の礼儀作法の家庭教師として、ペリドット伯爵邸にいらしていたのです。
今回は時を経て、侯爵夫人の振る舞いを学ばせていただくべく教師をしていただけないかと打診した結果でございます。
現状ダイオプサイトの屋敷で仕事のないわたくしがガーネット侯爵邸へ行くつもりだったのですが、ベランジェール様から快諾と共に自分がダイオプサイト邸へ行く、という旨のお返事をいただきましたの。
ベランジェール様は生家であるルビー家からガーネット家へ嫁いで以降、四十年以上侯爵夫人のお役目をご立派に努め上げた方でいらっしゃいますので、お手本にするにはこれ以上ないお方です。
ちなみに、ルシアン様にはきちんと許可をとっておりますのよ。ただし、侍女伝に、ですけれど。簡潔に「好きにしろ」と使用人伝にお返事をいただきました。ふふふ、素晴らしい仮面夫婦っぷりですわね。
「セシル様は優秀な生徒でしたから、今回もすぐに私のお仕事は終わってしまいそうね」
「まあ、ベランジェール様ったら。努力いたしますので、何卒よろしくお願いいたしますわ」
こうして、優しくも厳しいベランジェール様のもと、わたくしのお勉強が始まりました。この都合の良すぎる白い結婚を手放さずに済むよう、立派な侯爵夫人になりますわよ~!!




