第20話.ルシアン・ダイオプサイトの自覚
ルシアン・ダイオプサイトは書斎の机にずべしゃ、と突っ伏していた。麗しき氷雪の侯爵にあるまじき姿であるが致し方なし。
彼は朝の己の醜態を思い出して、珍しく死にそうな気持ちになっているのである。
今朝、ルシアンは妻であるセシルと結婚後初めて共に朝食の席に着いた。
昨晩、セシルの方から「今後は食事を共に摂らないか」という伺いがあり、昼間に己の過去のあれこれを彼女に打ち明けた際のことで彼女ともっと時間を重ねたいと思い、すぐに了承したのである。
どんな話をしようか、彼女の名を呼んでも許されるだろうか――そんなことを、がらにもなくわくわく考えながら眠った。
そして、今朝。
彼は、自分が毎朝どれだけぽやぽやしているのかを失念していた。
半分も働かない頭のまま、名を呼んでも良いだろうかと訊ね、動揺した様子の彼女の了承を得てからほやほやと二度も名を呼び、自分のこともできれば名前で呼んでほしいなどと勝手に宣った挙げ句、一人満足してその後は自分の食事に集中する始末。
彼は、自分が毎朝どれだけぽやぽやしているのかを失念していたのである。
ルシアンは頭を抱えて呻いた。
きっと彼女は不快に思ったに違いない……動揺していることしか記憶になく、彼女がどんな顔をしていたかも覚えていないのだ。自分がどれだけボケていたかが分かると言うもの。いっそ殺せ、とはこういう気持ちか、と思うルシアンだ。
昼食の時間に一緒になったら、どんな顔をして彼女に会えばいいのだろうか。
大変に珍しく一人でうだうだと煩悶している主人を、ポールが温かな慈しみに満ちた目で見つめていた。歴戦の執事からしてみれば、大事な坊っちゃんが随分と可愛らしい悩みで身悶えているのである。これを慈しまずして何を慈しむというのか。
――――――
朝のことでああだこうだとぐだぐだしている間に時間が押してしまい、結局昼食は変な時間にまで遅れてしまったのでルシアンがセシルと顔を合わせることは夕刻までなかった。
そうこうしているうちに夕食の時間だ。
気まずい、気まずいが行かねばならない。こういうことは逃げれば逃げるほど気まずさが増していくものだと賢いルシアンは分かっていた。つまり、行くしかない。
(……何と言えばいいのだろうか、扉を開けてその場で彼女に罵られたらどうすれば……いや、彼女はそんなことをするひとでは……だが私の行いはあまりにも……)
煩悶し、重く感じる足を意志の力で動かしてルシアンが夕食の席にやって来ると、先に到着していたセシルがシュバッと立ち上がって「ごごごご機嫌よう」と出迎えてくれる。その姿に一先ず安堵した。
続けて、彼女は「だっ、る、るっっ、るし、~~っ!!」と謎に言い淀み、顔を赤くしたり白くしたりしながら口ごもって、やがて力尽きたように座り込んだ。
昨日のことと言い、彼女はもしかしたら意外にも感情表現豊かなひとなのかもしれない。忙しなく変わる表情を見て、ルシアンはそう思った。
「待たせてしまっただろうか、すまない」
「いいえっ、大丈夫でございますわっ」
自分の席に腰を下ろし、心の内にもやもやと蟠る気まずさを完璧な無表情で押し隠して、ルシアンは「……その、だな」と口を開いた。
「……朝は、すまない。とてつもない醜態を晒した。貴女には失礼なことをしたと思う」
気まずくてセシルの顔が見られない。ルシアンは給仕が運んできた前菜で視界をいっぱいにしながら「……朝のことは、忘れてほしい」と、なるべく聞き苦しくないよう努めて告げた。
「…………」
セシルは沈黙している。カトラリーを動かす様子もなく、夫婦は前菜を前に固まっていた。しばらくそのまま固まり、やがて硬直を先に解いたのはセシルだった。
「……る、っ、っ、旦那様」
「…………何だろうか」
「わ、わたくしは、だ、旦那様にな、名前を呼んでいただくのは、う、嬉しかったです、わ」
「……!」
「朝は、少しお、驚いただけでございますの。だから、る、る……っ旦那様に対して、嫌だとかそんなことは、思っておりませんっ」
思わず顔を上げたルシアンが見たのは、真っ赤になりながらも必死に言葉を紡ぐセシルの姿であった。
白い耳の先までも赤く染め、橄欖石の双眸を僅かに潤ませて、セシルは「ですから、っ、忘れませんわっ……!」と勢いを込めて言う。必死だからなのか、一点をギュッと見つめており、その様子が何だか愛らしい。
ルシアンは胸の内にほわほわと湧き上がってきた心地に唇を少し噛んだ。未知の感覚だ、落ち着かないのに心地好い。
(……これが、ひとを“好ましい”と思うということだろうか)
そんなことを思って、ルシアンはセシルを見つめた。よく見れば彼女は小動物のようにふるふると震えているし、淡紅色の唇はムギュッと固く結ばれている。
(……可愛らしいひとだ)
人生で初めて、女性のことをそう思った己に驚きながら、相手がセシルだからだと自分の中の別の部分が首を振る。それを自覚して、ルシアンは強張っていた表情を緩めた。
「……セシル」
「ひゃっ、ひゃいっ!!」
「そう、呼び続けて良いということだな」
「っはい、左様でございます」
「……ありがとう」
ついに首まで真っ赤になったセシルが「しょれほどれもっ」と噛み噛みで答えるので、つい笑ってしまう。ああ、本当に可愛いひとだ、と納得してしまえばもう止まらない。
「……セシル、食事を共に摂ろうと提案してくれてありがとう。お陰で、貴女に少しずつ近づけている気がする」
「は、はひゃい……わ、わたくしも旦那様と時間を過ごすことができて、う、嬉しいです、わ」
「今朝の私を許してくれると言うのなら、明日からもこうして時間を共にすることも許してくれるだろうか」
真摯な白銀の視線を受けて、ついに限界まで潤みきった萌黄が揺れる。
セシルは真っ赤な顔を両手で覆って俯くと、小さな声で「もちろんでございますわ……」と答えたのだった。
それが何とも嬉しくて、ルシアンはまた笑みを深めたのだった。




