第19話.セシル・ダイオプサイトの動揺
夏の盛りの迫る季節らしく、朝の日差しはすでに肌を刺すような白さを発しています。自室の窓から見える庭の緑が光を反射して、翠玉のように煌めいて美しい限り。
わたくしが今日身に纏うのは柔らかな青緑のドレス、髪はシンプルに結い上げて銀のリボンを添えて。これからの予定は緊張し過ぎてしまいそうなのでコルセットはいつもより緩く。
「アデール、変なところはないかしら」
「大丈夫ですよ、お綺麗です」
「そんなことを言って……」
鏡の前でそわそわとするわたくしにアデールは苦笑混じりにそう答えました。
ああ、緊張いたします。何せわたくしは今朝から旦那様と一緒に食事を摂るのです。
自分からお誘いしておいてこの醜態と言えそうなそわつきぶり。恥ずかしいですわッ。
「わ、わたくし急にテーブルマナーが不安になってきましたわ……」
「ご安心ください奥様、いつも完璧でいらっしゃいますよ」
「本当に?? 一切の狂いなく??」
「大丈夫ですから」
「朝食を食べるだけでこんなに緊張したことはありませんわ……」
嫁いできてからいつもぼんやり一人で食事を取るだけでしたから、実家で鍛えたはずのテーブルマナーが全て忘れ去られていそうで……くっ、自分が信用できないっ……!
アデールの評価も身内故の甘さがあるかもしれないですし……ううぅ……
落ち着かず、もぞもぞしているとアデールがわたくしの正面へ来て、困った子を見るような顔で微笑み「奥様」とわたくしの手を握りました。
「ご安心ください。落ち着いて、穏やかに朝の席をお楽しみなさいませ」
「うぅ……行って参りますわ……」
「はい、いってらっしゃいませ」
侍女にこれだけ背を押されては逃げることは叶いません、いえそもそもわたくしが旦那様をお誘いしたのです……逃げられるはずもなし。とぼとぼと部屋を出ます。
居間を目指して歩きますが、足が重たく感じますわ。そんなに遠くないのに……
ここへ嫁いできてから居間で食事を摂るのはこれが始めてです。
そもそも居間に足を踏み入れるのも初ですわ……ハッ、わたくし、もしかして出不精過ぎ……?! 邸内の探索くらい旦那様も普通に許してくださっていたのに……
すれ違う使用人たちが、何か、慈しみをもって見守るようなお顔で「おはようございます奥様」と挨拶をしてくれます。
しおしおしながらそれぞれに挨拶を返しつつ進んでいたら、もう目的地の目の前です。
居間の扉は開かれており、朝の光が差す窓は庭の緑の色を柔らかく室内に投じていて、白を基調とした居間の内装に爽やかな夏らしさを添えていました。
あぁ、素敵なお部屋ですこと……
「――おはよう。良い朝だな」
「おはようございます、旦那様」
旦那様と朝の挨拶をする日が来るとは……
先に席について朝のお茶を飲んでおられた旦那様は静かにわたくしを見て、挨拶で出迎えてくださいました。
挨拶を返し、給仕が引いてくれる席に腰掛けます。長テーブルの端と端で良かったのに、端とその傍らという近さ……何故……
お茶をいれてもらいながら窺えば、旦那様はまだ完全にお目覚めでないのか、いつもよりほやほやとしておられるように見えます。
長いまつ毛の下で白銀の瞳はどこかぼんやりとしておられ、わたくしが見ているのにも気づいていらっしゃらないかもしれません。
ご挨拶の後はお言葉も続きませんし……もしかしたら朝が弱い方なのかもしれませんわ。
こうしておられるとわたくしへの積極性も発揮されないので、朝の光の似合う凄まじく美しい置物のようです……失礼この上ないけれど……
「……」
「……」
と、とんでもない沈黙ですわ~……
旦那様はほやほやしておられ、わたくしはそんな旦那様にお声がけをすべきか否か読めずにひたすら食事を口に運び、結果として朝食の席はとんでもない沈黙に支配されています。
破るのを憚られるような沈黙に、わたくしがそわそわしていると不意に旦那様が「……一つ、良いだろうか」と口を開かれました。
「もごっ、わわ、な、何でしょうか……?」
危うくパンを喉に詰まらせるところでしたが何とか飲み込んで答えると、旦那様はどこを見ているとも言い難い曖昧な視線を果物の山に投じたまま「……その」とふわふわしたお声で続けられます。
「……貴女のことを、名前で呼んでも構わないだろうか」
……貴女のことを名前で呼んでも構わないだろうか????
「わ、わたくしのことを、名前で?」
思わず聞き返せば旦那様はこっくりと小さく頷いて「……うん」と小声で答えられました。
ひぇぇーっ、このお顔から放たれる「うん」の破壊力ッッッ!!!!
次回作はこんな感じのヒーローを書こうかしらなんて考えるのは、あまりの破壊力に意識をそらしていないと「ヒャーッ」と言ってしまいそうだからでございます。
「え、えぇ、勿論ですわ」
わたくしたちは夫婦であるわけですし、お断りする理由はわたくしが動揺しそうだから、ということ以外にはありません。そう思って頷けば、旦那様はわたくしの返答をしばし反芻する様子をお見せになり、そして――
「……セシル」
眠たげな旦那様の声色は心地よい低音。そんな音で紡がれたわたくしの名は、まるで自分のものではないような気さえ感じさせました。
あばばばば、わたくし、なんだか顔が熱くて心臓が口から飛び出してしまいそうな心地です。
自分がどんな顔をしているかも分からないで動揺しているわたくしを穏やかな白銀の双眸でほやほやと眺め、旦那様は微かにお顔を綻ばせて「セシル」と繰り返しました。
「ひ、ひぇ」
「……貴女も、嫌でなければ、私のことを名で呼んでくれて構わない」
「ひえぇ」
「ふ……少し、進展だ」
わたくしが言葉を話せない生き物に成り下がっている間に、旦那様は一人ご満足なさった様子で小さく笑って、朝食に向き直られました。
し、しんぞうが、むねをつきやぶって、でてきてしまいそうですわ。
何でですのわたくし、変ですわこんなの。旦那様があまりにもお美しくてきらきらと星のように輝いておられるから、目から脳までグワーッとやられてしまったのですわ。
意識を保つべく残りの朝食をはしたない勢いで口に詰めていきましたが、とても美味しいはずのそれがどんな味なのかも分からなくなっておりました。屋敷の料理人に申し訳ないですわ……
わたくしが旦那様のことをお、おおお、お名前でよ、呼ぶんですの……??
旦那様は「嫌でなければ」と仰られました。勿論嫌ではありません。少し前のわたくしであれば「旦那様のお求めであれば」と普通にお名前を呼ばせていただいたに違いありません。
けれど、今のわたくしは……
何故か「ルシアン様」と、口に出すことが上手にできません。喉が詰まって舌が絡まって、それで顔も熱くなってしまって……変ですわっ、こんなのわたくしらしくない……!
カトラリーが触れ合う微かな音にすらビクッとしてしまっていけません。斜め前にいらっしゃる旦那様の方を見ることすらできないなんて……!
味も分からなくなってしまった朝食を喉に詰まらせそうになりながら全ていただいて、わたくしは転がるように居間を後にいたしました。
こんなに動揺してしまって、本当に一体どうしたというのセシル・ダイオプサイト……!!




