第17話.ルシアン・ダイオプサイトの真意
わたくしがいっぱいいっぱいになろうとも時間は流れていきます。
ついに来てしまいました、旦那様と共に使用人たちを安心させるために開催するいつものお茶会の日が……
どんな顔をして旦那様にお会いすればよろしいのかしら……昨日も昨日とて、書庫で調べものをしているところへ「手伝うことはあるか」と声をかけられたばかりですけれど。
仕方がありません、ここは腹を括るのです、セシル・ダイオプサイト。
最早当たって砕けろの精神で(本当に砕けることができたらどんなに良いかしらとすら思う近頃でございます。血迷っていますわ)旦那様に「そもそも何故旦那様はわたくしに『愛することはない』と仰ろうとしていたのか」を訊ねてみましょう。
行けますっ、わたくしは先手を打って「愛することはない」と言い放った女! ほらっ、字面だけ見れば旦那様よりよっぽど強そうですわ!! 行けますわ~ッ!!
……くっ、空しいですわ、あんまりにも空しいっ。こんな、孤独に無為に己を鼓舞して過ごすなんて……眩しく暖かな朝ですのに……!
「奥様、そろそろ朝のお支度を」
「そうですわね……」
アデールに声をかけられ、わたくしは泣く泣くベッドを下りるしかないのでした。
そうしていつも通りの昼下がり――今後は夏の盛りで暑くなってきますから午前中になるかもしれませんね――わたくしは庭に出ました。
今日のドレスは夏らしい深緑。庭の木々に紛れて旦那様に見つからずにいられないかしらと、わたくしに無駄な期待を抱かせます。好きな色ですのにっ。
本日の無駄な期待は本当に無駄な期待で、大抵わたくしより後にいらっしゃる旦那様が今日はすでに四阿に座ってわたくしを待っておられました。カモフラージュする暇なしっ。
「お、お待たせいたしました」
「いや、私も今来たところだ」
アデールがお茶を淹れるのを「永遠に淹れ終わらなければいいのに……」と見つめ、にっこり微笑んでそばを離れていく彼女に「あぁ……」と手を伸ばしたい気持ちに。
「……今日は何を話そうか」
「…………わたくし、だ、旦那様にお訊きしたいと思っていることが一つございますの……そ、それではいけませんでしょうか?」
「そうか、ではそうしよう」
「ありがとう、ございます……では、そのように……」
緊張で喉が渇きます。手が震えるの抑えつつカップを手に取りお茶を一口。夏の新茶ですわ、爽やかな香りが素敵……よし、頑張りましょう、わたくし。
「……旦那様に、お訊きしたいのは……以前旦那様がわたくしに訊ねられたことと、ほぼ同じでございますの」
「と、言うと……」
「ええ……差し支えなければ、旦那様がそもそも何故わたくしに『愛するつもりはない』と仰ろうとなさったのか、ご真意を知りたく存じます」
静かな目でわたくしを見たまま、旦那様が僅かに身動ぎされたのが分かりました。美しく、しかし男性的な骨格をした白い手がカップを手に取られます。
しかし結局口を付けることはなく、旦那様は新茶らしい黄金の水面に視線を落としたまま「確かに私ばかりが貴女の真意を暴いたままでは不公平だ」と呟かれました。
「い、いえっ、そんな不公平だなんてことは」
「構わない。ただ、この話は長くなる上、女性である貴女にとっては不愉快なものになるかもしれない」
「……それでもわたくしが希望するのなら、お話しくださるということですか?」
「ああ」
旦那様の前置きで、何となく察することのできる部分もあります。ですがやはり、旦那様自身からきちんとお聞きしたい。
何より、わたくしは時折ポンコツである自覚がございますので「察することのできる部分もあります」等と言っておきながら全然的外れであることも有り得ますもの。
ほんの少し、苦いお顔をしておられる旦那様を真っ直ぐ見つめます。朝から続いていた変な動悸は止みました。
「お聞きしたいです」
「……分かった」
わたくしも、旦那様を知らねばなりません。旦那様がわたくしに対して誠実にあろうとしてくださるのなら、同じように返さねば。
「――どこから話したものか」
旦那様はそう言って白銀の瞳を庭の緑へ向けられました。どこか遠いところを見る目。どこか苦い過去を遡る人の目です。
「誓って、あの夜、貴女個人に対する拒否感があったわけではないのだ」
ふらりと今に戻った瞳がわたくしを見ます。
「私は、女性を愛することができないと、愛する気すら湧かないと、そう考えていた」
また目をそらされ、旦那様は静かな声で「だから、それを先に妻となる人へ告げておかねば互いに辛いだけではないかと思ったのだ」と仰いました。
「……結局、貴女に先を越されたし、貴女は私が考えていた“妻となる女性”とは程遠い人だったがな」
ふ、と旦那様は微笑まれました。その節は大変な失礼を、と言いたくなるのを堪えて苦笑するに留めます。
「自分で言うのも変な話だが、私は、女性が好ましく思うのだろう要素を多く持って生まれた。この容姿に侯爵家の跡取りという地位……幼い頃から、多くの視線に晒されてきた」
旦那様の目はまた遠い過去を映して遠くなりました。
「ダイオプサイト一族は分家も多い。一族の集まる場で、私を物陰に引きずり込んだ女性は一人二人ではない。一族以外でも、私はそういう視線を向けられ続けた」
あまりのことにわたくしは喉が詰まるのを感じました。
「旦那様、あの……!」
「大丈夫だ、今更辛くは感じない」
思わず「もし辛ければお止めになって」と言いかけて、旦那様の苦笑に止められます。唇を噛むわたくしに「ありがとう」なんて仰って……胸が痛みます。
「……十二のとき、初めての婚約者が決まった。だが、その頃には私の女性嫌悪は出来上がってしまっていてな……彼女には随分冷たく接したと思う。案の定、相手側から断りを入れられ、婚約は白紙に戻った」
ああ、この方は。
「十四のときも同じだ。手紙のやり取りもまともにできず、触れ合いを求める相手を私は酷く突き放した。これも、相手側から断られて終わりだ」
この方は、幼少期から苦しめられ、その結果婚約者に冷たく振る舞ってしまったことを、自分が全て悪いのだと、相手に申し訳なく思っているのです。
「婚約が成立してはすぐに破棄、私はこれを七回も繰り返した。駄目だと分かってはいた。私は次期侯爵、どうしたって妻が必要な身だ」
七回。旦那様の心はその度どれだけ傷ついたのでしょうか。
「だが、とても難しかった。多種多様な香水の匂いに取り囲まれ、少しでも関心を引こうと無遠慮に触れられ、拒めば耳を刺すような声で私をなじり、泣くのだ……こんな生き物、どうして愛せようかと思った」
恋をする自由のない貴族令嬢が、婚約者と恋のようなものができるようにと必死に愛らしく振る舞うのはよくあることです。
そちらの方が多数派で、政略結婚だからと割り切ることのできる少女は本当に少ないのです。
それは、女性というものを嫌悪している旦那様にとって非常に受け入れがたいものだったでしょう。双方不幸なことです。
きっとかつての婚約者の方々は、愛らしく華やかに振る舞って旦那様に愛してもらおうとする方法しか知らなかったのでしょう。
そうするのが、政略結婚を定められた貴族令嬢が幸せになるための数少ない方法ですもの。仕方がありません。
「……だから、初めから貴女のことも、そういう女性だろうと決めつけて、私に愛されようと望まないよう、『愛するつもりはない』と、告げようとしたのだ」
旦那様はわたくしを見て、悲しそうに微笑まれて「すまなかった」と謝られました。
「っ、旦那様は何もっ……!」
悪くありません、と言おうとして、喉の奥がぐっと熱くなったと思ったら押さえるのも間に合わぬまま涙が溢れてきました。
「だ、大丈夫か……?!」
「ふっ、申し訳、ありませ、っ、だ、旦那様は何も悪くありません、っ、わたくしに、謝っては駄目です……!」
「そ、それは」
「うっ、ふぐ、ごめんなさい、泣く女は、お嫌いでしょう……っ、すぐに止めますから……」
ああいけない、旦那様が嫌がる女のそれをこんなお話を伺った直後にするなんて。本当に泣きたいのは、泣くべきなのは、旦那様なのに。
必死に涙を止めようと手で顔をぎゅっと覆いますが目の奥は熱くなるばかり。いけないわ、セシル。泣き止むのよ、みっともないわ。
「……そんなに押さえては駄目だ、痛いだろう」
不意に、旦那様の手がわたくしの手を引きました。痛くないよう、きっと気遣ってくださった力加減で。
ぎゅっとしていたからわたくしの顔は見るに堪えないものでしょうに、旦那様は「これを」とご自分の手巾を差し出してくださいます。
「っ、汚れて、しまいますわ」
「それが手巾の仕事だろう」
わたくしが躊躇している間に、旦那様は真っ白な手巾をわたくしの頬に当てました。
「……私のために泣いてくれるのだな、貴女は」
「失礼を、いたしました。申し訳ございません」
呼吸が僅かに引き攣るのを抑え、申し訳なさと羞恥で俯きながら謝ります。
お返事がありません。旦那様の手はまだ手巾越しにわたくしの頬に触れていて、手巾を受け取れば良いのかそのままにしておくべきなのか分からず、窺うように旦那様を見上げます。
「……いいんだ。まさか、この話を聞いてそんなふうに『謝っては駄目だ』と憤ってくれる女性がいるとは思わなかった」
ほんの少し、いつもより砕けた「いいんだ」というお言葉。
旦那様は僅かに目を細めて「やはり貴女は、私の思い描いていた“妻となる女性”とは全く、何もかも違うな」と言葉を続けられます。
「……貴女で良かった」
微かな安堵と積み重なった精神的疲労感。歩き疲れた人のような声で、そう仰った旦那様を見て。
わたくしはこの方を大切にしたい、と。
ここへ嫁いできて初めて、明確にそう思ったのでした。




