第15話.ルシアン・ダイオプサイトの奮闘
決意の日から、ルシアンはそれとなくセシルを観察することにした。
時間を見つけては邸内をうろうろし、見当たらないなぁとなれば庭に出てうろうろし、背後からセシルに「旦那様?」と声をかけられる始末。
これで尚、ルシアンは「それとなく」でいるつもりなのである。
今の今まで誰かのことをよく知ろう、と自ら動いたことがなかった男故、「会話をしましょう」と設けられた場以外でどう声をかけてみれば良いのか分からないのだ。
悲劇である。この場にジュスタン・ペツォッタイトがいたら床に転がって爆笑する方の。
ポールはあの坊っちゃんがついに、という感涙と、あんまりにも酷い挙動への衝撃で一人咽び泣くなどしていた。流石の敏腕執事も泣くときは泣く。憐れである。
幼少期から己を見守ってきた執事が咽び泣いているとは露知らず、ルシアンは至極真面目にセシルの観察を続けていた。
今は庭の四阿で何やら書き物をしている様子を遠目に眺めている。
セシルは柔らかな茶色の髪をきっちりまとめ、橄欖石の双眸を手元の紙に向けてさらさらと文字を綴っていた。
家政の幾らかを任せようか、と決めてどこを割り振るか検討を始めたばかりなので、そんなに書き物をするようなことがあるだろうかと疑問に思う。何を書いているのだろうか。
机には何冊かの書籍と紙の束、インクの瓶。セシルは時折ペンを止めてしばらく目を閉じ、手元の本を開いては何事かを読んで確かめ、またペンを手に取って手を動かす――というのを淡々と続けている。
一枚書き終えたら次の紙、と書き終えたらしい紙が少しずつ積み重ねられ、新しい紙の山が段々減っていっていた。どう見ても手紙ではない。
時折侍女がお茶のおかわりを持って現れる。集中しているのかそれにも気づかず書き続け、ふっと顔を上げた時にポットが温かいものに取り替えられていると気づいて一人微笑む。
使用人の気遣いに顔を綻ばすその姿に、ルシアンの胸がざわめく。何だこれは、と顔を顰めながら胸を擦っているルシアンであるが、それは俗に言う「ドキッ」ですよと親切に教えてくれる者はここにはいない。ジュスタンがいたら残念なものを見る目で「お前はまったく……」と言うことだろう。
せめて積み重ねているあの紙の種類が分かればとルシアンは歩を進めた――具体的に言えば木陰からこそこそ、と出て三本くらい前の木の後ろに移動した。
(……あれは)
原稿用紙?――と思い当たったその直後、セシルがバッと顔を上げて彼の方を見た。
あ、と思ったのも束の間、思いっきり目が合った。
直後、セシルの顔がぼわっと赤くなり、そして急降下で蒼白になる。
「だっ、だだ、旦那様っ?! にゃ、っな、何か御用でいらっしゃいましたか?!」
セシルは盛大に吃りながら、顔はルシアンの方へ向け、手は忙しなく紙束を隠すようにまとめ始めた……どう見ても大変に怪しい。
ルシアンは見つかってしまった落ち込みを一旦振り払い、大人しく木陰から出て「何を書いていたんだ」と訊くことにした。
「へっ、あっ、ええ、別に大したものでは!」
「随分集中しているようだったが」
「ほ、本当に大したものではなくって……!!」
「……言えないようなものなのか」
ここにきて隠し事か、とルシアンは胸の底が少し冷えるのを感じた。
それを見上げたセシルがまた顔を蒼くして「えっと、あの、そのっ」とまとまりのない言葉を転がす。やがて顔を覆ってしまった彼女は「申し訳ありません……」と小さく謝った。
「……旦那様に不利益を及ぼすようなものではありませんの……ただ、その、っ、わたくしの趣味と申しますか……旦那様にはお目汚しの塊かと思いますので……お見せしたくないなぁ、と……」
趣味。冷えた胸の底にまたぬくもりが戻る。知らなければ、という決意にぴったりのテーマが来たぞとルシアンは目を瞬いた。顔を覆ったままのセシルは、よく見れば耳が真っ赤である。
「物を書く趣味……日記、いや、物語か?」
「っ、あぅ……その……ええと……」
「私は、貴女のことをもっと知らねばならないと思ったのだ」
「へっ? そ、それは、ありがたいことと存じますが……」
「貴女が嫌でなければそれを見てみたい」
「あわわ……」
ルシアン・ダイオプサイトという男は対人関係能力が色々とアレなので、物書きにいきなり書いたものを読ませてくれ、というのが如何に恐ろしいことなのか分かっていない。一番近くにいた芸術家が天下に名を轟かすジュスタン・ペツォッタイトだったのも災いした。悲劇である。
じっと返答を待つルシアンの前で、セシルは赤くなったり蒼くなったり白くなったりと忙しなく表情を入れ換えている。
ルシアンは彼女が穏やかに微笑んでいる顔しか見たことがなかったので「こんな顔もするのか」と大人しく考えるなどしていた。
やがて、セシルは観念したように今一度顔を覆って「どうぞ……」と呻いた。
「……感謝する」
妻が「いっそ殺せ……!」と思っているとは露知らず、ルシアンは彼女の手元にあった原稿用紙を手に取った。
ぱら、ぱら、と紙が捲れる音がする度セシルの細い肩が跳ね、ついには本格的に読む姿勢になったルシアンが椅子に座ると四阿の柱に張り付いて「ころしてくださいまし……」と小さく呻き始めた。憐れである。
一通り読み終えたのか、ルシアンが原稿用紙の束を丁寧にまとめて机に戻した。その頃にはセシルは「もうおしまいだわ……」という鳴き声の生物になり果てていた。
「……これを、貴女が書いたのか」
「ひっ……ええ、左様でございますわ……」
「……すごいな」
「お許しくださいお許しください……え?」
「すごいな」
「……え??」
ルシアンは素直に呟き、セシルが聞き返してきたので同じことをもう一度告げる。
「私は人の情動に疎い。こんなにも感情豊かな物語を想像することすらできないだろう」
「え、えっ」
「それに情景の描写が美しい。貴女の目に世界はこう写っているのだな」
「あ、あわわ」
「感謝する、無理を言ってすまなかったな」
「あわわ……」
ルシアンは大満足して席を立ち、あばあばしているセシルに「ではな」と告げて四阿を出た。
彼の心中は「一つ、彼女について知ることができたぞ」という達成感できらきらしている。いつも動かない表情も心なしか明るいほどだ。
(なるほど、彼女は物語を綴るひとなのか)
そう言えば最近隣国の王女が作家として市井向けの本を書いている、と王宮で聞いた。
タイガーアイ家のような類い稀なる金庫番のいないあの国では経済のために女性の社会進出を推奨しているらしい。元々作家をしていた王女はその後押しのために大々的に己の仕事を宣伝しているそうだ。
(彼女も、そんなふうになりたいだろうか……)
ルシアンはそんなことを考えてみたりして、己の仕事に戻っていったのだった。
「だれか……だれかたすけてください……!」
そして四阿に取り残されたセシルは真っ赤になってとろけていた。
言えないようなものなのか、と言ったルシアンの顔が明らかに傷ついたそれだったから、つい覚悟を決めて原稿を差し出すなどしてしまったのである。
どうぞと言われた彼が微笑んだので、そうして良かったとは思う。だが後悔の波が押し寄せて止まらない。しかも何かたくさん褒められてしまったのである。
「たすけてぇ……わたくしこれからどうしたらいいの……」
面と向かって作品を褒められて喜ぶ作家は数多い。しかしセシルは喜びと羞恥の間でめちゃくちゃになるタイプの作家であった。
「たすけてぇ……!」
憐れである。




