第2話 『再会と”人違い”』
有居歩の両親の職場は、自宅から500メートルも離れていない。
その入口に自転車を停めたところで、中から出てきた母が、朝の挨拶もなしに、
「あんた、ミルクやる時間なんかあんの?」
ちょっと呆れたような声で言った。
「ある! お母さん、着替えるからその間に作っといて!」
歩は合掌のポーズで母に懇願した。
「はいはい」
諦めたように、手洗い場に向かう母。
寝坊したのは事実だ。だが、朝の2つのルーティンだけは時間がなくても大事にしたい。歩の“エネルギー補充“のために。
半透明のシートで区切られただけの“事務所”のソファーに座って制服を脱ぎ、手早く作業着に着替えた。
事務所を出ると、母が哺乳瓶を持って立っていた。3リットル容量のプラスティック製の容器は、真っ白なミルクでいっぱいだった。
「ありがと」
哺乳瓶を受け取り、歩は建物の真ん中の通路を走った。
朝食を食べたばかりの真っ黒で大きな生き物たちが、歩の姿を追って首を伸ばした。
「走るな」
通路の奥にいた父が咎めた。
「ごめん」
歩は父の顔を見ずに謝り、目的の場所に立って呼びかけた。
「ユイちゃん!」
歩が呼びかけるより早く、その姿を見つけて駆け寄ってきた黒くて小さい生き物──子牛のユイは、鉄の柵から顔を出して、限界まで首を伸ばした。
歩が哺乳瓶を差し出すと、ユイは先端のゴムの乳首に力いっぱい吸いついた。
生後2ヶ月のメスの子牛。母牛の乳量が少なく、毎回追加哺乳が必要だった。ユイは結局、完全人工哺乳になってしまった。
朝夕の“ミルクやり”が歩の仕事だ。
3リットル近くのミルクを飲み干すまで少し時間がかかる。必死で飲む姿はかわいいけど、ちょっと退屈だ。
とはいえ、子牛は一気に飲み過ぎてむせたりするので気が抜けない。哺乳瓶にもたまに空気を入れないとミルクの出も悪くなる。
だけど、一瞬、思い出した。
今朝、“目覚める前”の出来事を。
白い霧。汽車。車掌さん。そして、その前に出会った髪の長い女の人──
ボコンッ、という音が響いた。
「あ!」
哺乳瓶が思いっきり凹んでしまった。空気を入れるのが遅れたせいだ。だけどユイは、中身のミルクを飲み干していた。
まだ飲み足りない!と暴れるユイを「またね」といなして、歩は母のもとへ戻った。
「ベコベコやん」
母は凹んでしまった哺乳瓶を受け取ってぼやいた。──ダジャレではないと思う。
「お願い」
哺乳瓶の洗浄を母に任せて、歩は着替えのために半透明シートの事務所に入った。
「あ」
横着して立ったまま作業着を脱ごうとして、よろめいてしまった。
「気ぃつけや」
母の位置からは見えなかったはずなのに、注意された。なんでわかったんだろうと首を傾げつつ、
「はい」
と返事した。
そこから落ち着いて服を着替え、靴も履き替えて、右足から自転車にまたがった。左のペダルにくっつけているハーフクリップに義足の先がちゃんと収まったのを確認した。最後に自転車用のヘルメットを被る。
牛舎の中を振り返ると、一番手前の牛房に“ひとり“でいる大きな牛が歩に向かって頭を振った。──まるで手を振るみたいに。
その牛に手を振りながら、「ああ、この子、ユイちゃんのお兄ちゃんだ」と思い出していた。
「今日も美月の店、行くん?」
洗い場から母がやや大声で尋ねた。
「うん」
「遅刻しなや」
「気をつける。じゃあ、行ってきます」
母の返事を待たずに自転車を漕ぎ出した。
小高い丘の上の牧場から、見下ろす町。その中心、城下町へ向かって歩は快調に自転車を転がしていった。
*
「おはよー」
喫茶店のドアを開けると、保育園用の黄色い帽子を被った男の子が出迎えてくれた。
「アユ、はーよ」
歩は、たどたどしい挨拶を返してくれた甥っ子の両頬に手のひらを当てて、
「ケンちゃ~ん」
さっそくエネルギーを補充した。
歴史美術館の向かいにある『檸檬』。9歳離れた姉とそのご主人が経営する喫茶店。
今日はモーニングの日で、すでに5~6人ほどのお客さんが座っている。
「来たん?」
エプロンに三角巾姿の姉、美月が現れ、お客さんが帰った後のテーブルを片付け始めた。
「うん。でも、時間ないから……」
歩は甥っ子のケントとじゃれ合いながら答えた。
時間に余裕がある日はエプロンをつけて店を手伝ったりするが、今日は無理だ。
それよりも、歩には重大な役割がある。
「いこ?」
ケントが手を握って、歩を外へ連れ出そうとする。
「今日もお願いできる?」
「うん」
姉のお願いに、歩は快くうなずいた。むしろ「お願いしない」と言われる方が困る。
「アユちゃん、いつもアリガトね~」
奥の厨房の暖簾をかき分けて、姉の夫、ルイが手を振った。
歩は義兄に手を振り返してから、姉に向き直った。
「高校、部活は決めたん?」
姉が訊いてくる。一瞬だけ、歩の左の義足に視線を向けた。
「決めた。まだ届けは出してないけど」
「そ」
「今日、見学に行く」
「まあ、楽しんで」
姉は何部に入るかを訊かなかった。歩はそのことに別段不満もなく、
「うん」
と、うなずいた。
「いこ!」
ケントが歩の手を引いて叫んだ。
「はいはい、わかった!」
店の入り口へ向かって歩きながら、返事した。
姉が「『はい』は一回」とぼやいたのが聞こえた。妹に対してではなく、息子に対する教育だと思うので、反応しなかった。
ドアを開け、甥っ子と声を揃えて、
「「いってきます」」
喫茶店『檸檬』を後にした。
*
保育園までの距離は500メートルほどしかない。
道すがら、ケントは歩とつないだ手をぶんぶん振りながら、
「かけっこ!」
と、はしゃいでいた。
「走らへんよ」
保育園の間近まで、ずっと歩道が続いている。だけど、3歳児にいきなりダッシュされたら、歩の足では対応できない。
そういうことをしない子だから、姉も歩が保育園への付き添いすることを許してくれている。
それに、ケントは今すぐ“かけっこ“がしたいわけではなく、「速く走れるようになりたい」と言っているだけだと思う。
その証拠に、甥っ子は歩を見上げて、
「はやい?」
と尋ねてきた。
「アユは速く走れるのか?」という問いだった。
あの“出来事”は一年以上前だ。3歳のこの子には、叔母が走っていた姿の記憶はないはずだ。
さて、どう答えようか、と歩道横の城の濠に目をやったところで、
「かっこいい」
ケントは歩の左足を指さして、無邪気に言った。
歩は少し驚きつつ、きっとアニメのロボットの足か何かに見えたのかな、と思いながら、
「へへ」
と笑った。内心で「速くはないんだよ」と謝った。
その時、午前8時を告げるミュージックサイレンが城下町に響き渡った。
正確には、このサイレンはどういう訳か8時2分に鳴り出す。
遅刻の文字が頭に浮かんだが、歩は甥っ子の手を引き、ゆっくりと横断歩道を渡った。
*
保育園から『檸檬』までの道を引き返しながら、歩はまた今朝の“目覚める前”の出来事を思い出していた。
“事故”から半年ほど経ったある日──初めて『夜と朝の間』を走ったあの日から、ほぼ毎日、走り続けている。
霧が出る日もあれば、出ない日もあった。霧が出ても、届かない日もあった。霧の中を走るあの汽車に追いつけたのは、今朝が初めてだ。
汽車に乗ったのも、“車掌さん”に会えたのも、一年半以上前の“事故”の日以来、初めてだ。
何も話せなかった。でもそれでいいと思った。これは“始まり”だ。ここからなんだ──そう強く思った。
そんなことを考えていると、すぐに『檸檬』に着いた──もとい、前を通り過ぎてしまった。
慌てて引き返したところで、歩道の横を一台の自転車が通過した。
歩と同じ高校の制服を着た男子。
言葉は悪いけど、何ひとつ珍しい存在ではない。
だけど、歩はその人から目が離せなかった。
「──!」
あっという間にすれ違った自転車は、同じくあっという間に去って行った。
すぐに追いかけたかった。でも、歩の足では追いつけない。
『檸檬』の店前に停めた自転車に飛び乗り、姉に声もかけず、歩は走り出した。
距離は離されてしまったけど、幸い向かう場所は同じだ。
(絶対、追いつく……!)
──まだ頭の中は整理できていないけど、今すれ違った男子高校生は、あの“車掌さん”と同じ顔をしていた。
*
予想はしていたが、高校に着くまでに彼に追いつくことはできなかった。
歩が入学したばかりの公立高校は、山の中腹に建っていて、校門から校舎まで300メートルの“心臓破りの坂”が続く。
駐輪場は校門から数十メートルのところにあるけど、その数十メートルが一番坂がきつい。入学して一週間、歩は毎日この坂では自転車を押して登っていた。
だけど、今日初めてペダルを漕いで坂を駆け上がった。
駐輪場は坂の左側にある。自転車通学生は、手前の入口から駐輪場に入り、指定の場所に自転車を停めて、奥にある歩行者出入口から坂に戻る。
“その人”が歩行者出入口から出て来たのが見えた。
歩は、駐輪場の入口をスルーして、自転車を漕ぎ続けた。ちょうど、“歩行者”が少なかったのをいいことに。
非常識だ。でも、彼はきっと上級生だ。校舎に入るまでに絶対に追いつきたかった。
「あのっ!」
彼の後方3メートルで自転車を降りて、歩は呼びかけた。
その人は、自分が呼ばれたことに気づいてくれて、立ち止まって歩を振り返った。
その顔は、やはり“車掌さん”と同じだった。そして──
「何?」
その声も同じ。
確信を持って、歩は尋ねた。
「私、今朝あなたに会いました! 私のこと助けてくれましたよね!?」
歩の声のボリュームは、自分でも驚くくらい大きく、登校中の生徒たちの注目を集めてしまった。
「…………」
彼は何も言葉を返さない。
だが、歩は構わずに質問を重ねた。
「会ったのは初めてやないんです。一年以上前、汽車の中で──」
「人違いだと思うよ」
歩の問いに覆い被せるように、その人はきっぱりと否定した。そして、歩の返答を待たずに、前を向いて歩き出した。校舎に向かって。
「…………」
追いかけることはできなかった。
そして、歩は後から登校してきた友達に頭を小突かれるまで、自転車のハンドルを握ったまま、その場に立ち尽くした。




