第1話 『夜と朝の間』
走り出す。
星の光が消える前に。
月が光を失う前に。
黒でもない。青でもない。
朝でもない。夜でもない。
もっとも暗い、夜明け前。
雲ひとつない空が見下ろす町には、動く車も人の姿もない。遠くに、線路を走る電車の音が聞こえる。
まるで時間が止まっているかのよう。
だけど、それもあと数分。東の空が赤く染まると、すべてが動き出す。
朝が歩き出す。そして、すぐに走り出す。
その前に、この坂道を駆け下りる。なだらかな1キロに及ぶ真っ直ぐな下り坂を。
夜明けに間に合わなかったとして、何かに負けるわけでも、何かを失うわけでもない。
ただ、会えるような気がするだけ。
風のようなスピードで走り抜ければ──あの人まで届きそうな気がする。
根拠なんかない。なくて良い。自分を信じるとか信じないとかも、どうでもいい。
ただ、この瞬間しかないんだ。
この『夜と朝の間』しか走れないのだから。
坂の中間地点を過ぎた。
さらにスピードを上げる。
靴は履いていない。両足ともに裸足だ。服装もパジャマ。それでも走れる。こんなスピードで。
喩えでも何でもなく、風になれる気がした。
その時。
遠くに響く、”汽車”の汽笛が──
(──聞こえた!)
両手の拳を強く握った。
さらにスピードを上げようとした瞬間、視界が遮られた。
白い、白い、深い霧。──これもまた、ずっと探していたものだ。
また、汽笛が聞こえた。近い。こちらが近づいているのか、向こうが迫ってきているのか。
視界はゼロに近い。それでもスピードは落とさない。落としたら、きっとまた会えない。
汽笛の音の方へ向けていた視線を正面に戻した、その時──
目の前に人が現れた。
「!」
自分と同じくらいの10代中頃の少女。長い髪。服装は白いTシャツに黒いトレーニングウェア。
ぶつかる直前、少女の方が避けてくれた。
「────!」
すれ違い際、少女が何かを叫んだが、聞き取れなかった。
振り返っても、少女は一瞬で深い霧の中に見えなくなってしまった。
どこかで、会った気がする。誰かに似ている気がする。思い出せない。
でも今は、考えている暇はない。
汽笛は聞こえない。代わりに聞こえるのは「シュッ、シュッ」と「ガタン、ガタン」。かなり近い。
そして、目の前を横切る黒く大きな影。
黒い機関車とそれに連なる5両ほどの客車。
スピードを落とすことなく、“道”をほぼ直角に曲がって、汽車を追いかけた。
霧で足元は見えないが、線路の上を走っている──等間隔の枕木の上を走る感覚が、両足から伝わってきた。
つまずく不安はなかった。
ただ、必死に前を走る汽車を追った。
普通なら追いつけるはずがない。
だけど、今自分は“風”になっている。周囲を覆う霧を吹き散らすことだって、きっとできる。
“あの人”の顔を、強く思い浮かべていた。
そして、気がつけば、掴んでいた──列車最後尾のデッキの手すりを。
掴んで、“体”を引き上げた。
デッキの上で息を整える暇もなく、ドアを開けて、客車へと足を踏み入れた。
オレンジに近い、控えめな照明に照らされた木製の床に、木製の窓枠や内壁。古臭いけど、すごくフカフカそうなボックスシートには、まばらに“乗客”が座っている。
最初に乗車した“あの日”と、何も変わらない。
真ん中の通路をゆっくりと進む。
古めかしい木の床の不思議な暖かさを、足の裏で感じながら、歩いた。
”乗客たち”は、視線を動かすことなく、窓の外の流れる霧を見つめたり、うつむいていたりしていた。
そして、正面、隣の車両から連結部のドアを開けて、慌てた様子でこちらへやって来る若い”車掌さん”が見えた。
確信があった──“あの人”だ。
「……どうやって乗車した?」
”車掌さん”はこちらをまっすぐ見て、尋ねた。──やはり一年半前の”あの人”と同じ声だった。自分とあまり歳の変わらなそうな少年の声。
「えっと……」
まずは経緯を説明しようとした矢先、腕を掴まれた。そのまま、車両の後尾へと連行される。
「待って! 話を──」
だが、問答は不要と言わんばかりに、”車掌さん”は最後尾の扉を開けて、告げた。
「自分が帰る場所を強く思い浮かべるんだ」
そして、最後尾のデッキから、突き落とされた──
白い霧の中へ飲み込まれた。そのまま沈んでいく。
あったはずの線路も地面もなくなった。
海の底へ落ちていくように。空の上から落ちるように、深く深く沈んでいった。
──最後に、遠ざかる汽笛が聴こえた。
*
有居歩は目を覚ました。
自室のベッドの上。カーテンの隙間から差し込む陽の光が目に入った。すでに夜は明けている。
歩は上半身を起こして、パジャマの上から胸に手を当てて、
「やっと……!」
噛みしめるように、つぶやいた。
そして、歩はパジャマの左足の裾をめくり、”先”の状態を確認し、汗を拭きとった。サイドテーブルから、シリコーンのライナーを手に取り、ゆっくりと装着した。
最後にライナーの先のピンを義足に差し込み、ゆっくりと立ち上がった。
カーテンを開け、窓を開け放った。
雲ひとつない春の空。その下で、すでに”走り出した”朝の町が見えた。
霧は見えない。汽笛も聞こえない。
それでも、期待で胸がいっぱいになった。
──やっと、会えた。
(Funny Bunny / Uru)




