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最初の夜

落ちる。


 いや、落ちているのではない。


 記憶の底へ、沈められているのだ。


 冷たい水に沈むような感覚の中で、千尋は目を閉じていた。耳鳴りが止み、やがて、遠くから音が戻ってくる。


 ――雨。


 ぽつ、ぽつ、とアスファルトを叩く雨音。


 目を開けた瞬間、見慣れた景色が広がっていた。


「……ここは」


 古い団地の前。街灯の下。夜の匂い。


 何年も前の、自分の住んでいた場所だった。


 足元を見ると、小さな手が震えている。


 幼い。背も低い。


 これは“過去の自分”の視点だと、直感で理解した。


「やめて……」


 声が聞こえる。


 細い、震える声。


 千尋はゆっくりと視線を向ける。


 そこには、幼い妹が立っていた。


 泣いている。


 その前には、黒い影。


 人の形をしているが、顔がない。


 ただ、影の奥に赤い揺らぎがある。


 影は、ゆっくりと妹へ手を伸ばしていた。


「……思い出せ」


 どこか遠くで、門番の声が響く。


 千尋の胸が締めつけられる。


 あの日。


 あの夜。


 自分は、何をした?


 幼い自分は、震えながら一歩前に出る。


「やめろ……!」


 叫び。


 その瞬間、胸の奥から何かが溢れた。


 熱。


 怒り。


 恐怖。


 守りたいという、強すぎる願い。


 視界が赤く染まる。


 地面に刻まれる、見たことのない紋様。


 影が、一瞬だけ後退する。


 だが、消えない。


 代わりに、妹の足元から黒い霧が立ち上った。


「……あ」


 記憶が、つながる。


 自分は、祈った。


 願った。


 “何でもいい。代わりに俺を持っていけ。だから妹を離せ”と。


 その願いが、境界に触れた。


 門が、わずかに開いた。


 そして——


 影は消えた。


 代わりに、何かが妹の中へ落ちていった。


 それが、呪いの種だった。


 視界が揺らぐ。


 現在へと引き戻される。


 石造りの記録庫。灯火は半分ほど消えている。


 千尋は膝をついていた。


「……俺の、せいだ」


 喉が乾く。


 息がうまく吸えない。


 ツクモが静かに隣に立つ。


「半分はね」


「半分?」


 顔を上げると、ツクモの瞳はいつになく真剣だった。


「あなたの願いは“きっかけ”に過ぎない。あの影は、元々この世界に干渉していた」


 門番が頷く。


「正確には、境界の綻びを探していた。強い願いは、裂け目を作る」


「じゃあ……俺が願わなければ」


「別の誰かが犠牲になっていた」


 その言葉は、慰めでも救いでもない。


 ただの事実。


 千尋は拳を握る。


「じゃあ、どうすればいい」


 門番のローブが揺れる。


「呪いは芽吹き、成長し、やがて“花”を咲かせる」


「花?」


「その瞬間、器は壊れる」


 千尋の背筋が凍る。


「……いつだ」


「近い」


 空間の奥が赤く染まる。


 石板のひとつが砕けた。


 その破片の中に、妹の姿が映る。


 眠ったまま、黒い紋様が胸元に浮かび上がっている。


 ツクモが低く言う。


「時間がないわね」


 千尋は立ち上がる。


「方法は?」


 門番は、ゆっくりと指を三本立てた。


「三つある」


 一つ目の指が光る。


「呪いごと、器を消す」


 千尋の顔が強張る。


「ふざけるな」


 二つ目。


「新たな器に移す」


「誰かに押しつけるってことか?」


「そうだ」


 三つ目。


 わずかに、間を置いて。


「源を断つ」


 静寂。


「源……?」


 ツクモの瞳が揺れる。


「それは——」


 門番の声が低くなる。


「境界の奥にいる“原初の影”を殺すこと」


 空気が重くなる。


「殺せるのか」


「理論上は可能だ。だが」


 門番はツクモを見る。


「代償は、彼女になる」


 千尋の視線がツクモへ向く。


 ツクモは、何も言わない。


 ただ、静かに微笑んだ。


「私は、元から長くはない存在よ」


「……何言ってんだ」


「境界の住人が源に触れれば、消滅する」


 千尋の中で、何かが軋む。


「ふざけるな……」


 妹を救うために呼び出した存在。


 その存在を、犠牲にする?


 そんな結末を、選べるわけがない。


 だが。


 時間は、ない。


 赤い光が強くなる。


 石板が次々に砕けていく。


 門番の声が響く。


「決断しろ、契約者」


 ツクモが、そっと千尋の手を握った。


 冷たいはずの手が、なぜか温かく感じた。


「あなたが選ぶの。私は従う」


 千尋の視界が滲む。


 選択は、ひとつではない。


 だが、正解もない。


 灯火が、最後の一つを残して消えた。


 闇の中、千尋は口を開く。


「俺は——」

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