九十九の名
闇の中。
最後の灯火だけが、静かに揺れている。
千尋はまだ言葉を発していなかった。
だが、門番はそれを急かさなかった。
「……その前に」
ツクモが、静かに口を開いた。
その声は、いつもの冷ややかな響きではない。
どこか、遠い。
「選ぶ前に、知っておくべきことがあるわ」
門番は目を細める。
「語る気か」
「ええ。どうせ、隠しても意味はない」
ツクモは千尋の方を向いた。
その瞳は、初めて“迷い”を宿していた。
「私の名前は“ツクモ”ではない」
千尋は息を呑む。
「え……?」
「それは、あなたが付けた呼び名。呼びやすいように。契約者は皆、そうする」
「皆……?」
「私は一人目ではない」
空間が、わずかに揺らぐ。
門番が低く告げる。
「九十九番目だ」
千尋の胸がざわめく。
「九十九……?」
「私は“器”よ」
ツクモは、まるで他人事のように言った。
「境界に落ちた魂の残滓を繋ぎ合わせて作られた存在」
灯火がひとつ、強く明滅する。
「最初の私は、ただの人間だった」
視界が揺らぐ。
千尋の周囲に、映像が広がる。
白い部屋。
病床に横たわる少女。
窓の外には、灰色の空。
少女は痩せ細り、それでも誰かの名を呼んでいる。
「……兄さん」
その声は、弱い。
だが、確かに温かい。
千尋の胸が締めつけられる。
「まさか……」
「ええ」
ツクモの声が重なる。
「私は、妹だった」
空間が静まり返る。
「病で死にかけた兄を救いたくて、祈った」
千尋の鼓動が早まる。
「その願いが、境界を開いた」
黒い影が、少女の背後に現れる。
あの夜と、同じだ。
「兄は助かった。でも——」
少女の胸元に、黒い紋様が浮かび上がる。
「代わりに、私は連れていかれた」
闇。
絶叫。
そして、静寂。
映像が消える。
「境界に落ちた魂は、完全には消えない」
門番が続ける。
「強い未練や願いがあれば、形を保つ」
「私は消えなかった」
ツクモの瞳が、わずかに揺れる。
「でも、人間ではいられなかった」
境界で、何度も呼び出される。
何度も契約する。
何度も、誰かの願いのために動く。
「契約者が死ねば、私は分解される」
「……分解?」
「魂の欠片に戻る」
そして。
「九十九回目の再構築で、私は“ツクモ”になった」
千尋は、言葉を失う。
「九十九」
九十九。
付喪神。
長い年月を経て、物に魂が宿る存在。
「あなたは……」
「ええ。私は“人間だった残骸”」
だが。
ツクモは、ふっと微笑む。
「でもね」
その笑みは、少しだけ温かい。
「あなたと契約してから、少しだけ違うの」
「違う?」
「あなたは、自分を犠牲にしようとした」
千尋の胸が痛む。
「普通は、誰かを差し出す」
門番が無言で頷く。
「でもあなたは、最初から“自分”を選んだ」
ツクモは静かに言う。
「それが、私の中で何かを変えた」
空間の奥で、赤い光が強くなる。
原初の影の気配が近づいている。
「源を断てば、私は消える」
「……」
「でも、消滅じゃない」
ツクモの声は、穏やかだった。
「今度こそ、終われる」
九十九回分の未練。
九十九回分の願い。
それを、解放できる。
「だから」
ツクモは千尋を見る。
「私を選んでも、後悔しないで」
千尋の視界が滲む。
「……ふざけんな」
声が震える。
「なんでお前が勝手に終わる前提なんだよ」
ツクモが目を見開く。
「俺は、妹も救う。お前も消さない」
「そんな都合のいい——」
「ある」
千尋は門番を睨む。
「三つしかないって言ったな」
「言った」
「でも、“理論上”可能って言ったのは一つだけだ」
門番の目が細まる。
「……ほう」
「なら、“理論外”がある」
沈黙。
空間が、わずかに軋む。
千尋の中で、何かが繋がる。
九十九回。
魂の欠片。
再構築。
「なら、百回目を作ればいい」
ツクモが息を呑む。
「……何を」
「分解される前に、再構築すればいい」
門番のローブが揺れる。
「人の魂で?」
「違う」
千尋は、はっきりと言う。
「俺の半分を使え」
空気が凍る。
「契約は対等だろ」
ツクモの瞳が震える。
「あなた……」
「俺の魂を分けて、ツクモを“人間側”に引き戻す」
門番が低く笑う。
「成功確率は一割にも満たん」
「ゼロじゃない」
赤い光が爆ぜる。
原初の影の気配が、すぐそこまで迫っている。
門番が告げる。
「決断の時だ」
千尋はツクモの手を強く握る。
「終わらせよう。二人で」
ツクモの瞳から、一筋の光が落ちた。
「……本当に、馬鹿ね」
だが、その声は。
九十九回分の孤独を、初めて手放した声だった。




