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深淵の訪問者

霧は、ただの霧ではなかった。


 川岸を包む白は、ゆらりと揺れ、まるで呼吸しているかのように脈打っている。千尋はその異様さに気づき、無意識にツクモの袖を掴んだ。


「……なにか、いる」


 自分の声が、やけに遠く聞こえる。


 ツクモは静かに目を細めた。その瞳の奥で、黒い光がかすかに揺れる。


「気をつけて。ここはもう“こちら側”ではないわ」


「こちら側って……」


 問いかけた瞬間、足元の砂利が音を立てた。


 霧の向こうから、影がひとつ、ゆっくりと歩いてくる。


 黒いローブ。深く被られたフード。顔は見えない。ただ、その存在だけがはっきりと“異質”だった。


「久しいな、ツクモ」


 低く、湿った声。


 ツクモの表情がわずかに強張る。


「……門番」


 千尋の心臓が跳ねた。


「こいつが……」


 黒フードの男は、ゆっくりとフードの奥から視線を向ける。その視線が千尋を射抜いた瞬間、胸の奥に冷たい針を打ち込まれたような感覚が走った。


「君が契約者か。思ったよりも、脆そうだ」


「なっ……!」


 怒りが込み上げるが、体がうまく動かない。


 門番は一歩、また一歩と近づいてくる。その足音は地面を踏んでいるはずなのに、どこか水面を歩いているような鈍い響きを伴っていた。


「用件はわかっている。呪いの源を知りたいのだろう?」


 千尋は歯を食いしばる。


「妹を救うためだ。あんたが関わってるんだろ?」


 門番はくつくつと笑った。


「関わっている、か。まあ、否定はしない」


 ツクモが一歩前に出る。


「あなたは境界を管理するだけの存在ではないはず。あの呪いは“誰かの意志”が絡んでいる」


「さすがだな」


 門番は、ゆっくりと両手を広げた。


 霧がざわめく。


 次の瞬間、景色が崩れた。


 川も、空も、足元の砂利も、すべてが砕け、闇へと落ちていく。


 千尋は叫び声をあげる暇もなく、暗黒の中に引きずり込まれた。


 目を開けると、そこは巨大な石造りの空間だった。


 天井は見えないほど高く、無数の灯火が宙に浮かんでいる。


「ここは……」


「境界の記録庫」


 門番の声が反響する。


「ここには、呪いの“始まり”が保存されている」


 壁一面に、無数の石板が並んでいた。それぞれに、見たこともない文字が刻まれている。


 ツクモはその一枚に触れ、眉をひそめた。


「……これは」


 石板の表面が揺らぎ、映像が浮かび上がる。


 泣いている少女。


 その背後で、血のような赤い影が揺れている。


 千尋の息が止まった。


「まさか……」


 それは、妹によく似ていた。


「呪いは感染するものではない」


 門番が淡々と言う。


「呪いは“選ばれる”のだ。資質を持つ者に」


「資質……?」


「器だよ。強い感情、歪んだ願い、絶望。そういったものが、呪いを呼び寄せる」


 千尋は拳を握る。


「妹が何をしたっていうんだ!」


「何もしていない」


 門番の声が冷たく響く。


「だが、彼女は“見てしまった”」


 空間の奥が開き、別の映像が浮かぶ。


 暗い部屋。血。倒れている誰か。


 そして——泣いている幼い少女。


 千尋の記憶がざわめく。


「……あの日」


 忘れようとしていた記憶が、形を取り始める。


 ツクモが静かに言った。


「あなたは、思い出していないのね」


 千尋は息を荒くする。


「何を……」


 門番はゆっくりと告げる。


「呪いの発端は、彼女ではない」


 その言葉は、刃のように胸を貫いた。


「契約者——それは君だ」


 空間が震える。


 石板の文字が一斉に光り出す。


「君の願いが、最初の歪みを生んだ」


「……違う」


「妹を守りたい。その一心が、境界を破った」


 千尋の足元が崩れかける。


 ツクモが腕を掴み、支えた。


「落ち着いて。まだ確定ではない」


 だが門番は続ける。


「真実を知る覚悟はあると言ったな?」


 静寂が落ちる。


「次に進めば、戻れない」


 灯火がひとつ、消える。


 またひとつ。


 闇が迫る。


 千尋は震える手を握りしめた。


 逃げたい。


 だが、妹の顔が脳裏に浮かぶ。


「……進む」


 かすれた声で、それでもはっきりと。


「俺が原因なら、俺が終わらせる」


 門番の口元が、わずかに歪む。


「ならば見せよう。“最初の夜”を」


 世界が、再び崩れ落ちた。

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