兄と弟
「やだね。この後、予定があるんだ。そんなババアの茶番劇に付き合ってられるか。」
「兄ちゃん!、どうしたら良いんだ、教えてくれよ。」
春男は、正男の言うことを全く信用していません。でも、しつこく迫られて仕方なく言うのです。
「しょうがねーな、じゃあ、救急車呼んでやるから、もう帰れ、それでいいだろ。」
「兄ちゃんは、帰らないのか?」
「ああ、もう俺が帰れる家はないんだよ。」
正男は、春男が少し悲しそうな顔つきになったのを見ていました。それは今に限ったことではありませんし、その訳も何となく分かっていました。
小さい頃のことを思い出します。母に連れられて、何処かの家に行きました。そこは、大きな古いお家で、入り口の門から玄関が見えないほど広い庭がありました。敷き詰められた青々とした芝生が広がり、その真ん中に玄関まで続く石畳の道の上を歩いていきます。正男は、こんなお屋敷の中を見たことが無かったのでドキドキしながら辺りを見回していました。やがて、お屋敷の玄関が見えてきました。車が2台も入る位大きくて、ケヤキでできた立派な玄関の門があります。そして、その傍らに小さな人影が見えます。正男より少し上の子供でした。それが、春男だったのです。その時の顔が、やはり悲しみに満ちていたのをはっきりと憶えています。
℡“もしもし、もしもし ”
春男が、携帯電話をかけています。
℡“ああ、消防署かい?救急車を出してくれないか?・・・お袋が倒れているんだよ・・・・住所は、○○町346番地、田辺和代、お袋の名前だ、電話番号は・・・いや、相当危ない状態なんだ・・・なに!医者じゃねえからそんなこと分らねえよ!・・・来ないつもりか?、手遅れだったらお前らのせいだからな!・・・分かったら、早く来てくれよ、一刻も争うことだからな、宜しくな。”
話を終えて、携帯電話をポケットに突っ込むと、左手に持っていた煙草をまた口元に持っていき、根元近くなるまで大きく吸い込みます。
「兄ちゃん、どうだった?」
「ん、全く、役所ってのは融通が効かないよな。マニュアル通りにことが運ばないと動けないんだとさ。面倒くさがっているのがありありと分るよな。一応、お前が言ったことを信じてやったんだぜ、感謝しな。救急車を出してくれるみたいだぜ、早くババアの処に行った方が良いぜ。」
それでも正男は、その場から離れようとする素振りを見せません。
「だから俺に期待しても無駄だぜ。早く行かないと救急車が来ちまうぞ。病院に付き添うのはお前しかいないんだからな。」
そう言い残すと、春男は再び駅に向かって歩き出しました。
“兄ちゃん、春男兄ちゃん!”
未だ遠ざかっていないので、聞こえているはずなのですが、春男は二度と振り返ることはしませんでした。




