一粒の滴(しずく)
そうして、2人は部屋を出て行きました。そしてまたドアの向こうから何やら話声が聞こえてきます。
“お前、あの汚いネズミはなんだ?、飼うようになったのか?、病気持ってるかもしれないぜ。”
“お兄ちゃん、病気って?”
“大昔のことだ、ヨーロッパでネズミの病気が大流行してな、それにかかって沢山の人が死んだんだぜ、だから部屋に置かない方が良いぜ。”
# ガチャン
玄関のドアが閉められた後、車が出発して遠退いて行く音がします。
# グオーン・・・
母親は、グスグスと鼻をすすりながら、ゲージに向かって話し掛けます。
“これから心配で心配で夜も眠れないほど何だよ。私はもう年老いていくばかり、いつかは死んでいく・・・死んだら正男はどうやって、どうやって生きて行けばいいのかねえ?、どうしようもなく駄目な息子だけど、春男の方は独りで生きていける、正男よりずっとマシだよ、ずる賢いくらいじゃないと今の世間を渡っていけないからね。お前さんは何処から来たのか知らないけど、正男とは違って世話をするのは簡単だからね。”
話し掛けられたところで答えられるはずもありませんが、これから愛する我が子の人生が心配でならない母親の心境を映し出す暗く沈む表情が、子兎にも見て感じ取れるのでした。
『この人間は、淋しいのかな。他にも仲間の人間が居るのに、楽しそうじゃない。特に派手な柄の上着を着ていた奴とは、仲が悪そうだ。』
日頃意識していることは無いのですが、会話をしている間は、活気に包まれていることが分かります。母親独りになった部屋は、まるで留守にしているかのようにシンとしています。
『そうだ、ネズミさんが言っていたな。人間は、独りになったら本当の心をみせるんだって、そんな時に愛想をふることが大切なんだよって。人間は、素直になれない心が弱い生き物。いつも意地を張って、強がっているんだ。でも、本当は淋しくて淋しくて、何かにすがりたいと思っている、誰かにかまってもらいたいと願っているんだ。だから、そういう本当の表情を見せた時に、癒してあげるんだよって。』
やがて母親の赤くなった目から、一粒の滴がこぼれました。
“ピキピキ、キュン、キュン、キキ、キュン ”
優しい、愛くるしい鳴き声が静まり返った部屋に優しく広がりました。すると、母親の口元が上がり、虚ろな渇いた眼に潤いがもたらされます。
“私を元気付けようとしているのかい?、そんな小さななりをして、気遣いができるなんて随分と賢いんだねえ。”
これは、偶然でしょうか、いいえ、必然のことなのです。心を通い合わせることは、別に同じ生き物同士じゃないと出来ない訳ではありません。言葉が無くても気持ちは伝わる、伝えられるのです。
そうして、正男達の乗った車が目的地の付近に停まります。




