第14話「財宝伝説」
朝、目が覚めると渓谷が霧に包まれていた
余は毛布から出た。冷たかった。春の山の朝は、昼間とまるで違う。息が白くなった。
「寒いな」
丸山がすでに起きていた。小さなコンロに鍋を乗せていた。
「インスタントコーヒーあります。飲みますか」
「こーひーとは何だ」
「温かい飲み物です。苦いですけど」
お湯が沸いた。丸山が紙の袋を破いて、お湯を注いだ。湯気が上がった。余に差し出した。
余は両手で包んで一口飲んだ
苦かった
しかし温かかった。苦さの奥に、何か深いものがあった。余はもう一口飲んだ。
「苦いな」
「そうです」
「……しかし悪くない」
「朝はこれじゃないと始まらないって人が多いです」
余は川を眺めながらコーヒーを飲んだ。
霧が少しずつ晴れていった。
渓谷の岩壁が朝の光に浮かび上がってきた。
その時、上流から人の気配がした。
足音が近づいてきた。余は顔を上げた。
老人だった。
古い野球帽をかぶった小柄な老人が、大きなリュックを背負って歩いてきた。手には釣り竿を持っていた。余たちを見て、足を止めた。
丸山が会釈した。老人が近づいてきた。
「魚、釣れるかね?」
「昨日釣れました。アマゴが」
「ほう」老人が目を細めた。「そうかそうか。しかし珍しいな、こんな山奥まで来る人も」
「おじいさんもよく来るんですか」
「毎年来とるよ。もう三十年以上になるかな」
老人は余を見た。じっと見た。余のマントを見て、顔を見て、また目を細めた。
「お兄さん、変わった格好しとるな」
「……余の服だ」
「そうか」
老人はそれ以上聞かなかった。余は少し面食らった。コスプレかと聞かれると思っていた。
「もっと釣れる場所があるよ。行くかね」
老人が言った。丸山が余を見た。余が頷いた。
「行く」
三人で川沿いを歩いた。老人は小柄だったが足が速かった。険しい岩場も躊躇なく越えていった。余と丸山が後を追った。
しばらく歩いて、岩が川に張り出した場所に出た。水深があって、流れが複雑に絡み合っていた。
「ここだ」老人が言った。「いい場所だろう」
三人で竿を出した。
最初に釣ったのは丸山だった。アマゴが一匹。次に余が竿を出した。全然釣れなかった。
老人の竿先が動いた。
老人が竿を立てた。糸が張った。引きが強かった。しかし老人は慌てなかった。ゆっくりと、竿の角度を保ちながら引き寄せる。
大きなアマゴが上がってきた!
丸山が目を丸くした。
「すごい、大きい」
老人がまた竿を出した。また釣れた。丸山が追いつけなかった。
余は老人を眺めた。
「老人、なかなかやるな」
「長生きだけが取り柄だからね」
老人が笑った。
「三十年同じ川に来とれば、魚の気持ちもわかってくる」
丸山がまた竿を出した。釣れなかった。老人がまた釣った。丸山の顔が複雑になっていった。
余は黙って見ていた。
「もっと奥に行けばな」老人が川の上流を見ながら言った。「キリクチという魚がおる」
「きりくち?」
「イワナの一種だよ。絶滅危惧種に指定されとる。この辺にしかおらん、貴重な魚だ。もっとも、そっちは釣らんがね。おるというだけで十分だ」
余は上流を見た。渓谷の奥は霧がかかっていて、先が見えなかった。
三人で岩の上に腰を下ろした。
老人が水筒からお茶を出した。余は渓谷の水を掬って飲んだ。
老人がリュックから折り畳んだ紙を取り出した。広げると、山の地図だった。書き込みがたくさんあった。赤いペンで丸をつけた場所が、いくつもあった。
「何の地図だ」余が聞いた。
「宝の地図だよ」老人が言った。
丸山が顔を上げた。
「宝?」
「知らんかね。この山には財宝伝説があるんだ」老人が地図を指でなぞりながら言った。「後南朝の財宝と言ってな」
「後南朝とは何だ」余が聞いた。
「大昔の話だよ」老人が空を見上げた。
「六百年ほど前になるかな。この国に南朝と北朝という二つの朝廷があってな。南朝が負けた後も、皇子たちがこの山奥に逃げ込んで暮らしていたんだ」
余は黙って聞いた。
「皇子たちはここで長い間暮らした。そして財宝を山のどこかに隠したという話が残っとる。三之公川の渓谷のどこかに埋まっているという伝説だ」
「見つかったことはないのか」余が言った。
「ない」老人が笑った。
「わしも三十年探しとるが、見つからん」
「それでも来るのか」
「来るよ」老人が地図を眺めながら言った。
「財宝が目的じゃないからね。この山が好きなんだ。探している時間が好きなんだ。見つからなくても、それでいい」
余は老人を見た。
三十年、見つからなくても来続ける。余には、その気持ちが少しだけわかる気がした。
丸山が地図を覗き込んだ。
「ここに丸がついてる場所って、全部行ったんですか」
「全部行った。でもまだ行けていない場所がある」
老人が地図の一点を指で押さえた。「この奥だ。毎年少しずつ近づいとる」
渓谷の奥を見た。
霧がかかっていた。
余はその霧の向こうを、じっと見た。
何かがある気がした。
言葉にはできない。ただ、何かが余を引いた




