第15話「結界の名残」
老人が地図を折り畳んだ
しばらく沈黙があった。渓谷の水音だけが続いていた。老人が独り言のように言った
「誰も信じてくれなくてね」
丸山が何か言おうとした
その前に余が口を開いた
「……その話、嘘ではない」
老人が顔を上げた。丸山も余を見た
余は川の向こうを見たまま、真顔だった
「え」丸山が言った。
「嘘ではないと言った」
「なんで魔王くんにわかるんですか」
余は答えなかった
老人が余をじっと見た
さっきと目の色が違った
「行くぞ」
余が立ち上がった
渓谷の奥を見た
霧がかかっていた
余は迷わず歩き始めた
「こっちだ」
丸山が立ち上がりながら言った
「また始まった」
老人は一瞬止まった。それから静かに立ち上がって、二人の後を追った
渓谷の奥へ進んだ
道がなくなった
岩を越えて、倒木をまたいで、斜面を横切った
丸山が余の背中を見ながら歩いた
老人が黙ってついてきた
「魔王くん、何を感じてるんですか」
「魔力ではない」余は歩きながら言った
「もっと古いものだ」
「古いもの?」
「結界の名残だ」
丸山が老人を見た
老人が小さく首を振った
わからない、という顔だった
余は足を止めなかった
しばらく進んだところで、余が立ち止まった
岩壁の前だった、大きな岩が重なって、斜面を塞いでいた。土砂が流れた跡があった
最近のものだった
先日の台風の爪痕だろう
倒れた木が岩に引っかかっていた
余は岩の隙間を見た
「あの奥だ」
丸山が覗き込んだ。「岩で塞がれてますよ」
「どかすぞ」
余が岩に手をかけた
丸山も手を貸した 二人で押した!岩が少しずつ動き土が崩れた!!隙間が広がった
老人が息を飲んだ
岩の奥に、石造りの構造物が見えた
苔に覆われていた
長い年月が経っているのは明らかだった
土砂に半分埋まっていたが、形はわかった
小さな祠だった
屋根の端が欠けていた
正面に何かが刻まれていたが、苔で読めなかった
三人で無言で立っていた
水音だけが聞こえた
老人がゆっくりと前に進んだ
祠の前に立った
手を伸ばして、苔をそっと払った
石の感触を確かめるように、指でなぞった
「あった……」
小さな声だった
泣いてはいなかった
しかし三十年という時間が、その二文字に全部入っていた
余は黙って老人の背中を見ていた
丸山も何も言わなかった
渓谷の風が吹いた 木々が揺れた
しばらくして、老人が振り返った
いつもの穏やかな顔に戻っていた
「財宝はないな」老人が笑った
「でもよかった」
「それでいいのか」余が言った
「十分だよ」老人が祠をもう一度見た
「あったということがわかった。それだけで三十年分の意味がある」
余は祠を見た
六百年前にここに逃げ込んだ人間たちが、この祠を作った
誰にも見つからないまま、土砂に埋もれた
それでも残っていた
「人とは、不思議なものだな」余が言った
「君も年を取れば分かるよ」老人が微笑んだ
「余は二百歳だ」
老人が笑った。声を出して笑った
「ははは、そうか、二百歳か」
丸山が小声で言った。「また始まった」
渓谷に老人の笑い声が響いた
帰り道、三人で渓谷を戻った
夕方の光が岩壁を染めていた
影が長くなっていた
老人が先を歩いた
丸山がその隣を歩いた
余が後ろを歩いた
誰も話さなかった。話す必要がなかった
余は歩きながら足元を見ていた
渓谷の石は様々だった
白い石、茶色い石、平たい石、丸い石。水に磨かれて、どれも滑らかだった
その中に、一つだけ違うものがあった
余は足を止めた
しゃがんだ
黒い石だった。
小さかった
握れば手のひらに収まる大きさだった
他の石と同じように川に磨かれていた
しかし色が違った。光を吸い込むような、深い黒だった
「何です?」丸山が振り返った
「ただの石だ」
老人も振り返った。「その辺にいくらでもあるよ」
「……そうか」
余は石をポケットに入れた
立ち上がって歩き始めた
ポケットの中で、石が僅かに温かかった
余は何も言わなかった
渓谷の入り口まで戻った
老人が大きなリュックを背負い直した
「また来年も来るよ」老人が言った
「祠を見つけたのに、また来るの?」丸山が言った
「まだ調べたいことがある」老人が笑った
「あの祠に刻まれていたものが何か読みたいしね。来年は道具を持ってくる」
老人が余を見た
「お兄さん、今日はありがとう」
「余は何もしていない」
「いや、してくれた」老人が静かに言った「一人では辿り着けなかったと思うよ」
余は答えなかった
老人が手を上げて、道を下っていった。
その背中が小さくなっていった
やがて木々の向こうに消えた
二人で見送った
「いい人でしたね」丸山が言った
余はポケットの中の石を、指先で触れた
やはり温かかった
「……そうだな」
余は空を見上げた、星が出始めていた。




