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第13話「アマゴと星空」


竿が大きくしなった


「来た!」


 丸山が素早く竿を立てる


 糸がぴんと張り、川面が激しく割れた。銀色の魚影が水中で暴れ回る!


 ばしゃん!!!



 水しぶきを上げて魚が宙を舞った。陽の光を浴びた朱色の斑点が、きらりと輝く



 丸山はそのまま岩の上へ引き上げた。魚は何度も跳ねたが、素早く手で押さえ込む



 余はしゃがみ込み、顔を近づけた


「綺麗な魚だな。これがアマゴか」


「そうです」


 丸山は息を整えながら頷いた


「赤い斑点が雨粒みたいでしょう。だから地元ではアメゴって呼ぶ人もいるんです」


 余は魚を眺めた


 銀色の体に散る朱色の斑点。川の中で見た時よりも、ずっと鮮やかだった


「雨か。なるほどな」


 そのあとは入れ食いだった



 仕掛けを流すたびに竿先が震え、一匹、また一匹とアマゴが姿を現す


「なんだ、どんどん釣れるじゃないか」


「ここ、すごくいい場所みたいです」


 丸山が嬉しそうに笑う


「父親と来た時も、よく釣れた記憶があるんです」


 余は渓流を見渡した



 澄み切った水が岩の間を流れ、木々の葉が風に揺れている



「さすがに、こんな山奥まで釣り人は来ないのだろうな」


「来ないですよ。道が険しいですから」


 丸山は竿を上げながら言った


「だから魚が残ってるんだと思います」


 桶の中にはアマゴが次々と増えていく


 五匹。


 六匹。


 七匹。



 銀色の魚体が折り重なり、時折ぴちりと跳ねた


 少し上流へ移動した時だった


 浅瀬にアマゴの群れが見えた


 透き通る水の中を十匹以上がゆったり泳いでいる。模様まではっきり見えるほど浅い


 余は竿を置いた


「余が捕る」


「え?」


「素手だ」


 丸山が苦笑した


「無理ですよ。魚はすごく素早いですから」


「うるさい。見ていろ」


 余は浅瀬へ足を踏み入れた


 冷たい水が足首を包む


 一歩、また一歩


 魚の群れは少し距離を取っただけで逃げない


 余はゆっくり手を水へ沈めた


 もう少し


 あと少し


 届く


 その瞬間だった


 足元の石がつるりと滑った


「ぬおっ!」


 どぼん!!!


 派手な水しぶきが上がる


 アマゴの群れは一瞬で散り、影も形もなくなった



「…………」

 


「…………大丈夫ですか」


「見るな」


「見てません」


 そう言いながら丸山の肩は小刻みに震えていた。


 余は立ち上がる


 膝までびしょ濡れだった


 手のひらには小石の跡が赤く残っている


 魚は一匹もいなかった




「もっと奥へ行きましょう!」


 丸山は前を向いたまま言う



 声が少し震えていた


「もっといい場所があるはずです」


「……行くぞ」


 余は何事もなかった顔で歩き出した


 渓谷の奥へ


 岩を越え、倒木をまたぎ、細い獣道を進む


 水音はさらに大きくなり、山の空気はひんやりとしていた


 その時だった


「あれ?」


 丸山が立ち止まる


 川沿いの岩陰に、緑の葉が群生していた


 丸い葉


 白い茎


 澄んだ水が根元を絶えず流れている

 


「ワサビだ!」



 丸山の声が弾んだ


「わさびとは何だ」



「薬味です。魚にすごく合うんですよ」


 丸山はしゃがみ込み、嬉しそうに根元を確かめる。


「こんなに群生してるの、初めて見ました」


 余も隣にしゃがんだ



 岩陰で静かに育つその姿は、どこか気品があった


「持って帰れるか」


「一株だけなら」


 丸山は慎重に掘り起こした


 白い根を渓流で洗うと、爽やかな香りがふわりと立ちのぼる


「これで魚がもっと美味しくなるんです」


「ほう」


 余は静かに頷いた。


 やがて夕方になった



 空が橙色へ染まり、渓谷の岩壁も赤く輝き始める


 鳥の声は遠ざかり、水音だけが静かに響いていた


 丸山は石を組み、枯れ枝を集める


 マッチを擦ると、小さな火が生まれた


 ぱちり、と音を立てて炎が育っていく


 余は火の前へ腰を下ろした


 頬がじんわり温かい


 木の燃える匂いが、冷え始めた山の空気へゆっくり溶けていった



「アマゴ、焼きます」


 丸山は枝を削って串を作り、塩を振ったアマゴを刺して火へかざす


 じりじりと皮が焼ける


 脂が落ち、炎がふっと大きく揺れた


 余は黙って見つめていた


 魔王城でも肉を焼いたことはあった


 しかし、それは料理人が整えた料理だった


 自ら釣り、自ら火を起こし、自然の中で焼き上げる


 そんな食事は、生まれて初めてだった


 やがて焼き上がる


 丸山が一本差し出した


 余は受け取り、一口かじる


 動きが止まった


 皮は香ばしく、ぱりっと弾ける


 身は驚くほどふっくらとして、噛むたびに旨味が広がった



 川魚特有の澄んだ香りが鼻へ抜けていく


「……」


「どうですか」


 余はしばらく答えられなかった



 うまい。


 だが、その一言では到底足りない


「言葉にならんな」


 丸山が嬉しそうに笑った



 すりおろしたワサビを添える


 余は恐る恐る口へ運んだ


「なんだこれは!」


「それがワサビです」


「毒ではないのか」


「違います」


 余は眉をしかめながら、もう一口食べる


「……悪くない」



 丸山は満足そうに笑った


 食事を終えると、お湯を沸かした


 小さなコンロに鍋を乗せ、渓流の水を入れる


 二人は焚き火を眺めながら静かに待った


 湯が沸く。


 丸山はリュックからカップラーメンを二つ取り出し、一つを余へ渡した


 余が蓋を開けようとすると、


「待ってください」


「また三分か」


「三分です」


 余は素直に蓋を閉じた


 三分


 それは長かった


 川を眺め、焚き火を眺め、空を眺める


 ようやく三分が過ぎる


 余は蓋を開けた


 湯気が立ち上る


 一口すすった


「……やはり、うまいな」


「でしょ」


「なぜ三分待つとうまくなる」


「知りません。そういうものです」


 余は何も言わなかった



 この世界には、理由は分からなくとも「そういうものだ」で成り立っていることが、あまりにも多かった


 夜になった


 焚き火は小さくなり、山の空気はさらに冷える


 二人は毛布を肩に掛け、並んで空を見上げた


 星が広がっていた


 街では見えないほど無数の星々


 街灯も、看板もない


 だから夜空そのものが、星だった


 余は見上げたまま動かなかった


 丸山も黙って空を見ている


 聞こえるのは川の流れと、焚き火のはぜる音だけだった


「魔王くんの世界にも、星はありましたか」


「あった」


 余はゆっくり答えた


「しかし、見ていなかった」


「なんでですか」


「見る必要がなかった。余には城があり、部下がいて、やるべきことがあった。空を見上げる暇などなかった」


 丸山は毛布を少し引き上げた


「もったいないですね」


「……そうだな」


 余は初めて、素直にそう思った


 二百年生きてきた


 それなのに、星をちゃんと見たのは、この渓谷が初めてだったのかもしれない


 川は流れ続けていた


 火は静かに揺れていた


 星は何も語らず、空いっぱいに瞬いていた


 余はその夜、飽きることなく空を見上げ続けていた

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