第12話「渓谷へ行く」
朝。
丸山が窓の外を見ながら言った
「腹減りましたね」
余も同じことを考えていた。しかし食材がなかった。余は腕を組んだ
「そういえば、前に川で取れた魚はうまかったな」
丸山が少し首を傾けた
「あれ、ウグイですよ」
「うぐい?」
「川にいる魚です。まあ、食べられないことはないですけど、そんなに美味しい魚じゃないです」
余は丸山を見た
「何? うまかったぞ」
「それは腹が減ってたからだと思います」
余は返事をしなかった。図星だったかもしれない。
丸山が少し考えてから言った。
「もっと上流に行けば、アマゴという魚がいますよ」
「あまご?」
「渓流魚です。綺麗な魚で、味も本当に美味しい。ウグイとは全然違います」
余は身を乗り出した。
「本当か!?」
「はい。ただ、かなり山奥まで行かないといけないですけど」
「構わん。行くぞ」
「……そうなると思いました」
丸山が立ち上がって押し入れを開けた。釣り竿を取り出しながら、ぽつりと言った
「昔、よく父親と釣りに行きました。アマゴを狙って、あの渓谷まで」
余は何も言わなかった。
丸山はそれ以上話さなかった。ただ黙って道具を準備した。
「よし!行くぞ丸山!」
バスを乗り継いで、山の入り口まで行った。そこから歩いた。最初は舗装された道だったが、すぐに獣道になった。木々が深くなった。空気が変わった。
余は歩きながら辺りを見回した。
光が違った。木漏れ日が地面に落ちて、風が吹くたびに揺れた。足元には苔が生えていた。踏むたびにふかふかとした感触があった。鳥の声が聞こえた。水の音も聞こえ始めた。
「いい場所だな」
「でしょ。ここから先が渓谷です」
道が険しくなってきた。岩を越えて、細い橋を渡って、斜面を横切って進んだ。
余は黙って歩いた。魔王城の周りは霧と荒野だった。こんなふうに光に満ちた山を歩いたことがなかった。
「険しい山だな」余が言った。「こんな山奥まで来ないと釣れない魚なのか」
「そうです。だから美味しいんだと思います」丸山が前を向いたまま言った。
「父親がよく言ってました。簡単に手に入るものより、苦労して手に入れたものの方が美味い、って」
余は何も言わなかった。
その言葉を、胸の中で繰り返した。
渓谷に入った。
両側に岩壁がそびえていた。
その間を川が流れていた。
水が透明だった。
川底の石まではっきり見えた。
陽の光が水面に当たって、きらきらと光った。
余は立ち止まった。
美しかった。
異世界にも川はあった。しかし魔王城の周りの川は黒く濁っていた。
魔力が滲み出て、水を染めていた。こんな透明な水を、余は見たことがなかった。
「この水、飲めるのか?」
「飲めます」
丸山が岩に手をついてしゃがんだ。「ここの水は綺麗ですよ」
余も川に近づいた。両手を水に浸けた。冷たかった。掬って飲んだ。
余は目を丸くした。
「……なんだこれは」
「美味しいでしょ。山の水です」
甘かった。水が甘かった。そんなことがあるとは思わなかった。
余はもう一度掬って飲んだ。冷たさが喉を通って、体の芯まで届く気がした。
その時だった。
上の斜面で何かが動いた。
どさどさという音とともに、茶色い影が飛び出してきた!
余と丸山は同時に後ろに飛びのいた
鹿だった。
大きな鹿だった。余の肩ほどの高さがある。立派な角を持っていた。こちらを一瞬見た。黒い大きな目だった。それから身を翻して、川を跳び越えて、対岸の茂みに消えた。
どさどさという音が遠ざかっていった。
静寂が戻った。
「……今のは」
「鹿です」丸山が息を整えながら言った。「びっくりした」
余も心臓が速く打っていた。魔王城には多くの魔物がいた。しかしああいう目をした生き物はいなかった。澄んでいて、静かで、何も恐れていない目だった。
「美しい生き物だな」
「そうですね」丸山が笑った。
「こんな山奥に来ないと見られないですよ」
さらに奥へ進んだ。
渓谷が深くなるにつれて、空が狭くなっていった。両側の岩壁が高くなって、見える空が細くなった。しかしその狭い空に、何かが舞っていた。
余は立ち止まって見上げた。
鷹だった。
大きな鷹が、翼を広げたまま風に乗っていた。
羽ばたきもせず、ただ大空を滑るように旋回していた。陽の光を受けて、翼の端が金色に光った。
余はしばらく見上げていた。
丸山も隣で見上げていた。
何も言わなかった。言う必要がなかった。
鷹はゆっくりと旋回しながら、やがて岩壁の向こうに消えていった。
釣り場についた。
岩が川に張り出した場所だった。
水深がある。流れが緩やかで、岩陰に魚が潜んでいそうだった。丸山が竿を組み立て始めた。余は川を覗き込んだ。
水が透明なので、川底まで見えた。
大きな岩の陰に、何かが動いた。
「いるぞ!」
「どこですか」
丸山が覗き込んだ。「あ、本当だ。アマゴです!」
「あれがアマゴか」
「たぶん。仕掛けを流してみます」
丸山が静かに竿を出した。糸が川面に落ちた。流れに乗って仕掛けが下っていく。余は息をひそめて見ていた。
しばらく何もなかった。
丸山が竿の位置を少し変えた。仕掛けが岩陰に近づいていった。
その時だった。
竿先がぴくりと動いた。
丸山の体が固まった。
もう一度、ぴくり。
丸山が竿を持つ手に力を入れた。余は隣で固唾を飲んだ。
竿先が大きく引き込まれた。
「来た」
丸山が竿を立てた。糸が張った。川面が揺れた。水しぶきが上がった。銀色の何かが光った。




