第10話 一杯のかけうどん
昼
目覚めると丸山が座っていた
「あ、おはようございます、魔王くん、」
「あぁ、」
「昨日のお礼に、今日は美味しいものを食べにいきましょう」
「ん?…美味しいものを食べにいく…」
「それは王侯貴族のやることだな」
「……庶民もやります」
丸山に連れられて十分ほど歩いた
古い建物だった。色褪せた暖簾がかかっていて、手書きの品書きが窓に貼ってあった。うどん、そば、丼もの。余は立ち止まって眺めた
「うどんとは何だ」
「食べればわかります」
引き戸を開けると、出汁の臭いがした
余は足を止めた。知らない臭いだった。この世界に来てから嗅いだことのない、深くて温かい臭いだった。
小さな店だった。テーブルが四つ。壁に手書きのメニューが貼ってある。
奥の厨房から、規則正しい音が聞こえた。とん、とん、とん。誰かが何かを打っている音だった。
「あの音は」
「うどんを打ってるんだと思います。大将が作ってるんです」丸山が小声で言った。
余は厨房の方を見た。白い割烹着を着た老人が、黙々と麺を伸ばしていた。無駄のない動きだった。
「腕のある者の気配がする」
「声が大きいです」
女の子が注文を取りに来た。
余より頭二つ分ほど小さい。エプロンをつけていた。余を見て一瞬目を丸くしたが、すぐに笑顔に戻った。
「ご注文はお決まりですか」
丸山が財布をそっと確認した。中を見て、また閉じた
「かけうどん、一つ」
「お一つですか?」
女の子が余と丸山を交互に見た。
「二人で食べます!」
女の子は一瞬止まった。それから何も言わずに笑顔で言った。
「かしこまりました」
しばらくして、大きな丼が運ばれてきた。
湯気が立っていた。透明な出汁の中に、白い麺が沈んでいた。ネギが少しと、薄い油揚げが一枚乗っていた。
二人で向き合って座った。丼を真ん中に置いた。丸山が箸を割った。余も割った。
「真ん中から半分ずつです」
「…二人で一杯たべるのか…」
余が先に一口食べた。
麺が喉を通った。出汁が口に広がった。余は動きを止めた。
「……なんだこれは」
「おいしいでしょ」
「この透明な液体に、これほどの旨味が」
「出汁です」
「出汁」
「昆布とか鰹節で取るんです」
余はもう一口飲んだ。じわじわと体に染み込んでくる温かさだった。
魔王城の料理は豪華だった。肉も酒も香辛料も、何でもあった。しかしこんなふうに、透明な液体の中に全ての旨味が溶け込んでいるものは、食べたことがなかった。
「……うまい」
「でしょ」
二人で黙って食べた。
丼が少しずつ空になっていった。
食べ終わって、丸山が財布を出した。
「かけうどん一つで」
「310円になります」
丸山の手が止まった。
「あれ、前は290円じゃ……」
「先週から値上げしまして、すみません」
丸山が財布の中を確認した。小銭を全部出して手のひらに乗せた。余を見た。
どうやら足りないみたいだ…
沈黙があった
二人で無言で困っていた。
女の子がそっと言った。
「あ、290円で大丈夫ですよ、今日は 笑」
丸山が顔を上げた。余も見た。女の子が笑っていた。
さっきと同じ、何でもないような笑顔だった。
「またきてください」
帰り道、二人で並んで歩いた。
春の夕方だった。風が温かくなってきていた。しばらく二人とも何も言わなかった。
余が口を開いた。
「あの娘は、なぜそうした」
「さあ」丸山が少し考えてから言った。
「優しい人なんじゃないですか」
「見返りもなく、か」
「そういう人もいますよ」
余は何も言わなかった。
歩きながら、一度だけうどん屋の方向を振り返った。
暖簾がまだ出ていた。中で女の子が次の客に笑いかけているのが、遠目に見えた。
余はまた前を向いた。
異世界では、見返りのない優しさなど存在しなかった。力ある者が与え、力なき者が従う。それが当たり前だった。
しかしあの娘は、余たちに何も求めなかった。
ただ笑っていた。
それだけだった。
余にはまだ、その意味がよくわからなかった。




