第5話:エルフの祝祭サラダ_5
カウンターの端で、ツユが小鍋をかき回した。
「お口直しを少し。森の香りを余韻に残し、現状を一度リセットする、透明なスープでございます」
木椀に注がれた汁は、ほぼ無色。湯気と一緒に、穀の優しい香りが立った。口へ含むと、温度だけが先に解けていき、味は細い筋で後から追いかけてくる。舌の上を掃き清めるみたいに、さっきの青さに区切りをつけてくれる。
「スープというより、幕間ですね。次の料理のための、準備の時間みたいな」
「よい言葉です。幕間は、次の演目のための場所でございますから」
「よかった、俺、間違ってないんだ」
――幕間。
この言葉が今夜の空気にぴたりとはまった。凪斗は頷き、視線を店内に巡らせる。四人掛けのテーブルには、見知らぬ文字が印刷された紙片。誰かが異世界の新聞を置いていったのだろう。窓の外では、路地の水たまりがほとんど乾いて、街灯が裸の石畳に輪を落としている。
「ところで、今このお店は、どこにあるんでしたっけ? 俺の家の近くの路地裏、あんなんじゃなかった気が」
「気にしないことですよ。今は、必要ありませんから」
「そうですか……」
なんとなく、想像する。この窓からの風景に意味がないことを。誰も来る気配はなかったのに、扉が開いたら誰かが入ってきた。自分も、扉を開けたら店だった。扉は世界に直通で、景色はただのお飾りなのではないかと。
グラスの水面が、なぜか小さく震えた。
凪斗は、胸ポケットの木札に指先を当てる。そこに確かめるべき理由はないが、触れると、先ほどの青い香りが鼻の奥でそっと蘇る気がした。
「ツユさん」
「はい、凪斗君」
「……ここで、俺にできることって、何から始めればいいですか」
「まずは、席に座っていただくこと。それから、よく見ること。お皿の前の人、皿の上のもの、皿の外にこぼれた気配。どれも同じくらい大切でございます」
「わかりました」
「あとは、話を聞くこと、思ったことを素直に口にすること。雑用も立派な仕事です。そこからわかることもある」
言葉を区切ってから、ツユは付け加えた。
「それと、できれば――時々、台所のこちら側にもいらしてください。あなたに向いた包丁の握り方が、きっと見つかります」
背中を押すでもなく、突き放すでもない誘い。
その言い方は、凪斗にとって『自分が認められた』という思いを湧かせた。歯車のように、強制的にその場にいなくても良いと。
「……はい」
と短く返す。返事の長さはそれで十分だった。
ふと場が静まった時、扉の鈴がさっきより景気よく鳴った。
足音は重い。炭と鉄の匂いが一歩ごとに近づいてくる。
「おう、ツユ! 今夜も火は元気か!」
背は低いが肩幅のある影が、外気を連れて入ってくる。鼻先をくすぐるのは、鉄と炭の匂い。どこか懐かしいその香りに、凪斗は胸がくすぐったくなった。
「あまりよくないこと」とわかっていたが、凪斗の視線は男に釘付けになった。濃い髭、日に焼けた肌、革のエプロン。胸元には煤の指跡が線になって残っている。腰には金属の工具袋、歩くたびに小さく鳴る。
ツユがちらりと目をやり、穏やかな声で言った。
「凪斗君、幕間の痕は、少し賑やかな演目になりそうです。火の側の方がお一人、いらっしゃいましたね」
「火の側?」
「ええ。肉と酒の、大変陽気な方でございます」
レイファスがカウンターから半歩下がり、来客に視線を向けた。
「おぉ? 初めて見る顔もいるな。こんばんは!」
低い、よく響く声が男から放たれる。ルイファスと凪斗はほぼ同時に「こんばんは」と返した。
「いい匂いだな。……喉を潤しに、今日も寄ってもいいか」
「もちろんでございますとも」
ツユは柔らかく迎える。
「ただいま幕間でして、すぐに一幕開けましょう。席はどちらでも」
男は一番火口に近い席へ腰を下ろすと、皮袋をどすんと足元に置いた。
凪斗と同じカウンター席。漂う炭の匂いが濃くなる。だが、この匂いは嫌いではない。カウンターに何気なく置かれた男の手は、一言で言うと無骨だった。そして、よく使われた手をしている。
男の印象は「ドワーフそのもの」だった。種族として、現実世界には存在していないはず。エルフの青年もそうだが、フィクションの世界にしか存在しないはずの種族が、今自分の目に映っていることに、彼は子どものような興奮を覚えた。
同時に、自分が今いる場所への疑問を、一瞬だけ取り戻す。『まぁいいか』と今は忘れることにした。
「それでは、僕はこれで。まだ少し、戻ってやらなければならないこともありますので」
名残惜しそうに、ルイファスは指で木椀の縁を撫でた。邪推だが、帰りたくないのかもしれない。
「ルイファス、貴重なサラダをありがとございました。珍しいものが食べられました」
「いえいえ。いつもの本の御礼です。また美味しい物を持ってきますね。次は、何か食材も一緒に」
木鉢を抱え、ルイファスは席を離れた。満足そうな顔を見て、彼の祖母の話を思い出す。
「では、ナギト君もまた」
「はい! また!」
爽やかな香りを残し、鈴の音が鳴った。




