第36話:ポテトチップスの味変_1
バルの夜は、ほどよくにぎわっていた。
木の扉の奥に広がるのは、現代日本の居酒屋とも、古い酒場とも言えない空間だ。石造りの壁にはランプがかかり、光がグラスや瓶に反射して揺れる。カウンターの奥ではツユが静かにグラスを磨き、凪斗は手元の小皿を並べていた。
獣人の男が喉の奥で笑い声を上げ、しっぽを揺らしながら仲間に杯を差し出す。長耳のエルフが、歌うような抑揚のある言葉で返す。
凪斗はもう聞き慣れた。だが、その場に初めて足を踏み入れた人間には、理解不能なざわめきでしかないだろう。
からん、と鈴が鳴った。
扉が開いた瞬間、空気が僅かに動く。
入ってきたのは、Tシャツにリュックを背負った若い男女だった。大学生くらい。だが、顔は強張り、目を見開いたまま動けない。
「……え、ここ……」
「何……? さっきまで新宿の路地に……」
周囲に座る客たちが一斉に彼らを見る。狼の耳を持つ獣人、猫耳の少女、鱗の浮いた腕の男。
彼らが交わすのは、人間には意味の分からない言葉ばかり。低く唸る声、鳥の囀りのように軽快な調子、喉を震わせる音。
観光客の二人は一歩後ずさり、顔から血の気を引かせた。
「……外国? いや……」
「やばいって、耳とか尻尾とか……コスプレじゃねえよ……」
彼らの声は震えていた。もしここから出られなくなったらどうしよう。そんな恐怖が目に浮かんでいた。
「いらっしゃいませ」
そんな緊張した空気の中、ツユの穏やかな声が響いた。
「こちらはBAL。偶然のご縁で辿り着く場所です。どうぞ、お掛けください」
「に、日本語……通じるんですか?」
女性が震える声を絞り出す。
「ええ。ここでは誰とでも言葉が繋がります。少し、魔法が必要ですが」
ツユは落ち着いて微笑んだ。
それでも二人の肩の力は抜けない。顔を見合わせて、難しい顔をしている。
凪斗が慌てて割って入る。
「大丈夫です。俺も日本から来てるんですよ。異世界転移って知ってます? えっと、多分一夜限りのそんな感じのやつです」
その一言で、ようやく二人の顔に安堵が浮かんだ。
「ほんとに……? 日本人……?」
「はい、唯白凪斗って言います。ここでは給仕やってます」
二人はまだ不安げだが、凪斗に促されるままカウンター席へと腰を下ろした。緊張で背筋はまっすぐに伸び、目は泳いでいる。女性がリュックを探り、くしゃっとした袋を取り出した。
「すみません……これ、ここで食べても大丈夫ですか?」
袋には見慣れた文字。スーパーでよく見るポテトチップスだった。
凪斗は思わず声を上げる。
「それ、日本のポテトチップス! うわー、美味しいですよね」
男女の顔に光が戻る。
「やっぱり! 日本の人ですよね!」
「はい。俺、日本から来て、今はここで働いてます」
以前は家から通っていたが、ツユの誘いでそのままこのバルに居候することにした。上階に居住区がある。ポテトチップスを見るのは、久し振りだった。
ツユが袋を受け取り「袋のままでは味気ないでしょう。器に移しましょう」と言った。
袋を開けると、ぱりっと乾いた音。油と塩の香りが広がり、異世界の空気に懐かしい日本の匂いが混じった。
木のボウルに移したポテトチップスは、薄片が重なり合い、ランプに照らされて黄金色に透けて光った。
「あはは。……懐かしい匂いだ」
凪斗は胸にこみ上げるものを覚えた。
「やっぱり定番の塩味ですね」
「はい、コンビニで買ったばかりで……お腹空いてて」
女性は照れ笑いをする。
「信じられない……路地の先が、こんな店に繋がってるなんて」
女性とは反対に、男性はまだ呆然としていた。
そのとき、どすん、と重い足音が鳴り響く。
「おう! 今夜も喉が渇いてるぞ!」
入ってきたのは、胸板も髭も分厚いドワーフの鍛冶師、グランツだった。
「お、おい……! ドワ……ドワーフ……!?」
男性の声が裏返る。
「ドワーフで合ってる。気にすんな。――で、その皿は何だ?」
「日本のスナック菓子です。ポテトチップスって言います」
狼狽えている男性の代わりに、凪斗が答える。
「ほう……」
グランツは一枚つまみ、豪快に口へ。
バリッ。
乾いた音が響き、彼の目が見開かれた。
「……ほぉう! これは……止まらんな!」
二枚、三枚と次々に食べる。指に油が光り、塩を舐めてはジョッキをあおる。
「あ、ちょっと! みんなの分も!」
凪斗が慌てて皿を分ける。
「やば、わかります。ほんと止まらないですよね」
女性が笑う。
「酒を呼ぶ! こいつぁ危険なつまみだ!」
笑顔につられてグランツは豪快に笑った。
そこで、ツユが手を打つ。
「折角です。バル流にしてみましょう」
カウンターにみっつの器が並んだ。
ひとつ目は燻香胡椒チーズソース。
とろりとしたチーズに黒い胡椒粒が散り、琥珀色の燻製油が表面に浮かんでいる。匂いを嗅ぐだけで舌がうずく。
ふたつ目は夜光花蜜マヨ。
乳白のマヨに淡いオレンジの筋が走り、かき混ぜるとほのかに光った。酸味に甘さが絡む香りが立ち上がる。
みっつ目は星砂塩クリーム。
白いクリームに混じる結晶は角度で星のように瞬き、舌にのせれば早く溶け、喉を涼やかに抜ける。
「この三種をお出しします。どうぞ試してみましょう」
みっつの器がカウンターに並ぶと、観光客の二人はごくりと唾をのんだ。
「……本当に、これにつけていいんですか?」
「もちろんです」
ツユは大きく頷いた。
「料理は、試して初めて広がります」
グランツが真っ先に手を伸ばした。
「まずはこれだな。チーズってやつだ」




