第3話:エルフの祝祭サラダ_3
「働かせてください。俺、今ちょうど無職なんです」
「それはそれは、非常にタイミングがよかった。受け入れてくださって、何よりです」
短いやり取りで済むのが楽だ。返事の余白を埋める必要がない。顔色を窺うことも、言い訳を考えることもしないで済む。
ツユは頷くと、水のグラスを新しく交換した。氷は入らない。温度が低ければいいわけではないことを、今夜の一皿が教えてくれたから、これでいいと凪斗は思う。
レイファスは木鉢の縁を軽く拭き、布で包み直した。次の店に持っていくのかもしれない。あるいは、この店で別の皿に転じるのか。
「今夜はこのあとも祝祭が続きます。森の仲間が何人か、こちらに顔を出すはずです」
「出入りは自由です。レイファス、通行証を忘れないように」
ツユが笑う。
「当たり前ですよ。故郷と同じくらい大切ですから。絶対に失くしません」
通行証が何かはわからなかったが、必要なものということはわかる。
「ここは交差点です。遠回りして来る者、まっすぐ来る者、立ち止まって帰る者。皆さんいらっしゃいます。人間もいれば、エルフもドワーフも、獣人も」
交差点、という言葉は大きいが、手触りは大げさではない。実際に、今後ろで知らない言葉が落ち着いて交わされ、カウンターの上で同じ皿が人を繋いだ。そこに説明は要らない。
凪斗は自分の腹具合を確かめる。満腹ではない。だが、満たされていないわけでもない。空腹の穴が埋まったというより、穴の形が整って、次に入るべきものの形が見えてくる感じだ。
会社を辞めてからの一週間、こういう満ち方はなかった。食事は燃料、会話は確認、睡眠は待機。そういう日が続いていた。今、目の前の椅子に座っている自分は、燃料でも確認でも待機でもない何かをしている。大げさな言葉に直す必要はないが、確かに違う。
ツユがふと、カウンターの内側の棚から小さな器を出した。手のひらに収まる木椀。底が厚く、温度を優しくする道具だとわかる。器に注がれたのは、琥珀色の液体。香りは甘いが、舌にべたつく感じはない。
「祝いの一口です、どうぞ」
勧められるままに口に含むと、舌の上で温度がふわりと解け、さっきの果皮の香りが遠くで響く。酒かどうか聞こうとしたが、聞かなくてもよかった。ここでは、その名前より働きのほうが先に来る。
扉の鈴が、もう一度鳴った。
湿り気の少ない夜気が、店の奥まで流れ込む。
レイファスがツユに目で挨拶し、凪斗にも軽く会釈した。去る気配ではない。場所を少し変えるだけの身の引き方だ。祝祭の続きが、ここでも外でも進むのだろう。
凪斗はフォークを置き、呼吸を整えた。次の皿が来ても、空腹だけで判断しないように。ここでは、食べ方も場の一部になる。
視線の先でランプが揺れた。強くはない光だが、必要なものだけを見せる明るさ。今夜の店には、その程度で十分だった。
ここは、ただのバルではない。
そう言い切るには早いが、そういう方向に意識が傾いているのはわかる。腹と舌が先に理解して、頭が後から追いかける。――ここにいる時は、その順番でいい。
皿の彩りがすっかり消えても、香りの名残は店の空気に薄く残っていた。
凪斗は喉の奥に残る青い余韻を確かめ、息を整える。満腹ではない。なのに、急いで何かを足したい感じがない。穴が埋まったというより、腹のかたちが整って、次に入るものの居場所が見えた――そんな感覚だった。
「ごちそうさまでした」
口にすると、ツユが静かに目尻を和らげた。
「ええ、よい食べ方でしたよ、凪斗君。料理は口に入れて終わるのではなく、飲み込んだあとの沈黙までを含めて一皿でございます。今の沈黙は、とても上品です」
褒められているのだと気付くまで、少し間がかかった。
慣れない褒め言葉が、声色の中に溶けている。上からでも、持ち上げでもない。肩に羽織るブランケットのような温度で、凪斗の胸にすとんと落ちる。
レイファスが木鉢の縁を布で拭きながら言った。
「森では、祝祭の朝に子どもたちが草原へ出ます。背の低い草の間に、春の名残や夏の始まりが隠れているので。子らは今年の色を集めるんです」
「今年の色」
「ええ。たとえば、雨が多かった年は葉が厚く、風の強い年は茎が強い。木の実の甘さにも差があります。集めて、刻んで、混ぜる。魔法ではなく、ただ丁寧に。今日の一皿も、そうやって生まれます」
「……それは、確かに子どもが適任ですね。……あ、いや、特に深い意味はなくて。なんとなく、子どもたちの笑顔が浮かんだというか」
「仰る通り。子どもたちのほうが素直ですから。それに敏感。だから、より多く見つけることができるんですよ、大人と比べて。悔しいですけどね、要は、僕も昔は上手かったということです」
語り口は飾らない。景色を一枚ずつ見せるように淡々としているが、その淡さが逆に想像を助けた。
朝の草の湿り、手のひらに溜まる冷たさ、指先に残る青い香り。凪斗は聞きながら、さっきの皿の味を頭の中で並べ直す。苦みが縁に、甘みが点に、清涼感が中心に――あれは確かに、「今年の色」の寄せ集めだった。




