第27話:妖精郷の花蜜ケーキ_2
オーブンの扉が閉まり、熱の音が強くなる。ツユはすぐに小鍋をふたつ火にかけた。にとつは花蜜用、もうひとつはシロップ用だ。
「花蜜は直火に当てすぎると香りが飛びます。そてに、すぐに焦げてしまう。とろ火で温め、柑橘の皮をひとかけ落とす。――これは妖精郷ではやりませんが、バル流に香りの尾を整えましょう」
「ほな、うちの砂漠の金砂クミンひとつまみ、どう?」
カリンが冗談めかして、クミンの入った瓶を振る。
「今日の主役は花蜜ですから控えめに」
ツユは目を細めた。
「ですが、少しだけ。粉にして、熱を切ったあとに縁へ載せましょう、ね」
「はーい」
シロップの鍋からは、砂糖が溶ける澄んだ匂いが立ち上る。そこへほんの少しだけ花蜜を落として、色に薄いオレンジを移す。
「これはスポンジに塗る用です。花蜜を惜しみなくかけるのは仕上げに回しましょう。全体に香りを行き渡らせるために、まずは下支えの香りを作っておきます」
オーブンの奥で生地が膨らむ。窓越しに見る黄金色は、眺めているだけで、凪斗は何だか嬉しくなった。表面が乾き、指でそっと触れると弾力が返ってきそうだ。
「はい、出します。凪斗君、軍手」
ふわり、とスポンジから湯気が立つ。粗熱が逃げる甘い匂いに、グランツが鼻を鳴らした。
「良い匂いだ! なんもしてねぇのに、もう旨そうだな、これ」
「まだですよ。ここからです」
ツユは生地を型から外し、紙を丁寧に剥がす。刷毛で先ほどの薄いシロップを表面に打つ。しっとり吸って、色にわずかな艶が出る。
「二枚にスライス。――刃は押さず、前へ滑らせる。凪斗君、片を押さえて」
「はい」
断面はきめ細かい。泡が均一で、手で触れると弾む。層に間を作って、シロップをもう一段。軽いクリームを薄くのせる。乳の味が花蜜と喧嘩しないよう、甘さは控えめにしてあり、泡立ては七分で止め、やわらかさを残す。
「このままでも良いのですが――」
ツユは小さなフライパンを火にかけた。薄く油を塗り、カリンに手招きする。
「月果の薄切りを軽く炙って、飾りにしましょう。香りの橋渡しになります」
「任せてや!」
薄い果実がぱち、と音を立てる。表面が少しだけ透けて、酸の匂いが柔らぐ。
脇でレイファスが粉砂糖をふるう準備を整え、モーガは皿を拭いて待つ。グランツは腕を組みながら、落ち着かない足をあからさまに動かしていた。
「珍しいですね。肉や酒ではなく、甘いものの前では落ち着きがないなんて」
レイファスが揶揄うように笑った。
「うるせえ、腹が準備運動してんだよ」
鍋の小さな火の上で、花蜜がゆっくり息をするようにゆらめいている。ツユが柄を握り、熱を確かめた。
「さあ、締めをやりましょう」
スポンジを重ね、側面を軽く整える。表面に薄いクリームをひと撫で落とした。そこへ、温めた花蜜を細い糸のように落としていく。琥珀色の筋が、白い面の上にすっと描かれる。落ちた蜜が、一瞬だけほの明るく光った。
「おお……素晴らしいですね」
「なんやこれ、すっごいなぁ……」
「なかなか面白いじゃなぇか」
「食べるのが勿体ないわい」
思わず声が揃う。光は派手ではない。ただ、確かに灯りが走る。この優しい光は、子どもに見せたら喜ぶだろうな、と凪斗は思った。
「光るのは長くて一呼吸。味に残るのは香りの記憶です。――ここで終わりでも良いのですが、バルらしく目の前で仕上げましょうか」
ツユは自身の手ほどの小型バーナーを取り出し、炎を最小に絞った。
表面の蜜へ、ごく短く火を当てる。焦がすのではなく、表面を溶かしてやわらかく馴染ませる程度だ。それだけでも、花蜜の香りがふっと立ち上がり、鼻の奥が明るくなる。
炙り後には、細い光の筋が残った。
「はい、ここで飾りの月果を。端に寄せて、種は薄切りで散らします。樹なりチーズのときと同じように、種の香ばしさが甘味の輪郭を締めてくれる」
「こんな種まで美味いんやもんなぁ、実も種も食べられる木ぃは反則や」
カリンが笑う。
和やかな空気の中、ツユが出来上がったケーキを皿に切り分けた。
包丁がすっと入って、断面は滑らかで整っている。薄い層の間にシロップの艶が走り、鼻先には柑橘の影。まだ食べていないのに、鼻腔を抜けて舌をくすぐる香りがすでに美味しい。
「盛りは大ぶりにしません。甘味は『次も食べたい』ところで止めるのがよいのですよ」
各人の前に小皿が置かれ、湯気のない温度の甘い香りが静かに広がる。グランツが身を乗り出したところで、ツユが片手を上げた。
「もうひとつだけ、仕込みを。――花蜜の『追い』です。直前に、ほんのひとかけ」
小さなスプーンで、各皿の端にほんの露ほど落とす。光が、今度は皿の上でちかりと瞬いた。甘い香りがもう一段明るくなる。
「準備は整いました。……では、いただきましょうか。――あ、凪斗君」
「はい?」
「一口目はそのまま、何もつけずに召し上がってください。二口目は、皿に落とした蜜をすくってから。三口目に月果を一片載せてください」
「了解です」
フォークを持つ指に、少し汗が滲む。甘味は大好きとは言えないが、この香りは重たくない。空気の温度に近い甘さだ。
目の前の小皿を見つめるうちに、昔感じた昼間の喧騒が薄まっていく。
「さ、どうぞ」
ツユの合図でフォークが一斉に下りかけ――その瞬間――ツユはさらに一言付け加えた。
「飲み物は後ほど合わせます。今日は、きっとこの甘味がお相手を自ら決めるでしょう」




