第26話:妖精郷の花蜜ケーキ_1
ある日の午後、扉の鈴が軽く鳴って、カリンが風のように飛び込んできた。
肩に砂色の布袋、手には小さな木箱。頬は少し上気していて、目が冴えている。はぁはぁと息も上がり、口元はほんの少し口角が上がっていて、いかにも「良い知らせがあるで!」という表情をしている。
「ただいま戻りましたぁ! なぁ、見てや、これこれ! ほんまにええもん、持ってきたで!」
奥で帳面を閉じたツユが、いつもの穏やかな笑みで迎えた。
「お帰りなさい、カリンさん。まずは水をどうぞ。いつもまるで、風のように入ってきますね。……さて、その木箱は?」
「ふっふっふっ、開けてからのお楽しみや!」
布袋を椅子に置いて、カリンは木箱の留め金を外した。
箱の中には、指先ほどのガラス小瓶がみっつおとなしく並んでいる。部屋の灯りを受けて、瓶の中の液体が琥珀色にきらりと揺れた。薄いオレンジの光が、ふっと脈打つように見えた。
「この間、レイファスが蜜持ってきとったやろ? これは妖精郷の『花蜜』や。妖精卿の森の深奥でしか採れへん、祝祭用のやつ。あれよりさらに珍しいやつなんやで? ひと舐めで目ぇ覚めるくらい幸せになれるっちゅう、旅人の間でも重宝されるシロモノや!」
カウンターに顔を寄せた凪斗は、思わず息を呑む。瓶の口を近づけるだけで、甘い香りが立ちのぼった。砂糖の甘さとは違う。柑橘に似た爽やかさが混じって、鼻の奥がすっと広がる。
見た目は、レイファスの持ってきた花蜜と差がないように見えた。それどころか「これがあのときの花蜜です」といわれたら、信じてしまいそうなくらいに、中身の差がわからない。それくらい、判断が難しかった。
「これも……光ってる……?」
「せやで! これもしっかり光る! 妖精の花は夜に蜜を溜めるんやて。採るときに『目覚ましの呪』がかかるらしくてな、温めると一瞬だけバチっと強烈に明るくなるんや」
「へぇ、呪い、か。なかなか面白いですね」
レイファスが微笑む。
「これ、開けてみてもいいですか? ぜひ、匂いを嗅いでみたくて」
「かまわへんで! 零さんようにだけ、ちょい注意したってや」
「わかりました、ありがとうございます」
小さなガラスの蓋を取ると、きゅぽっと音が鳴った。その瞬間、花を近づけなくてもわかるくらい、濃厚な蜜の匂いがあたりにゆっくりと漂い始めた。
「……なるほど。森の蜜とも香りが違う。とても清い匂いだ」
レイファスは目を閉じて、その匂いを脳裏に焼き付けているように見える。
「なんてこった! 甘い匂いだけ嗅いで腹が鳴るのは初めてだぞ!?」
「身体が喜ぶ匂いじゃないか。年寄りにも効きそうじゃ」
グランツは本当に腹の音を鳴らし、モーガは目尻を下げて香りを堪能している。
ツユは小瓶を一本、手の上で転がして重さを確かめた。キャップを外し、ごく僅かに香りを吸い込む。
「なるほど、芯がとても強いですね。しかしその先には軽さが残っている。……そうですね、これはケーキに仕立てましょう。クリームが重たくならない組み立てが良さそうです」
「美味しいケーキが出来上がりそうですね。早速手伝いますよ」
「やっぱりケーキやんな!? うちもそう思っとったんや!」
凪斗の声へ被せるように、カリンが興奮気味に身を乗り出す。
「妖精郷でも祝いに食べるんや。みんなの世界でもそうやんな? これな、表面に温めた蜜をかけると、きらっと光るんよ。子どもらが歓声あげるやつ! な、な? わかるやろ?」
凪斗は、こんなにはしゃぐカリンを初めて見た気がした。少しばかり驚いたが、意外な一面にくすりと笑う。
ツユは何度も見たことがあるのか、特に気にも留めていない様子だった。
「では、いただいたヒントをそのまま借りましょう。――凪斗君、卵を六つ、常温に。砂糖は控えめに計量、薄力はふるい、油は少量。……レイファスさん、申し訳ないですが粉砂糖のふるいをお願いできますか」
「もちろん」
「なぁなぁ、うちも手伝うで! 何ができる!? 何したらえぇ!?」
「カリンさんにも、お手伝いをちゃんとお願いしますよ」
「任せとき!」
厨房が忙しくなる。
ボウルの金属音、オーブンを温める風の唸り。
それでも、ツユの声はいつも通り落ち着いていた。
「スポンジは軽く膨らませます。花蜜は香りが強いです。生地自体は主張を抑えて、今回は蜜に主役を譲ることにしましょう」
「了解です」
凪斗は卵を割り、泡立て器で混ぜる。ツユは片手で鍋に水を張り、湯煎の準備を始めた。
「湯気は控えめに。卵液の温度は人肌程度。気泡を潰さず、砂糖を溶かしましょう」
「段取りが大事そうですね……わかりました」
「細かい部分を丁寧に。お菓子作りは、手を抜くと簡単に結果へ繋がってしまいます」
「が、頑張って美味しくします!」
腕にほどよい重さがのる。
攪拌の音が一定になったところで、ツユが湯から外し、ハンドミキサーに替えるよう促した。泡は細かく、つやが出る。持ち上げると跡がゆっくり落ちて消える。
「ここで粉です。三回に分けて、底から返すのをイメージしてください。――凪斗君、そこ、ボウルの側面に粉溜まりが」
「はい!」
「油は最後に、縁から回し入れて、手早く」
生地の香りは素朴だ。卵と砂糖のやわらかい甘さ。卵のもったりとした香り。
ここに花蜜が重なるのかと思うと、凪斗はわくわくした。型に紙を敷き、流し込む。トントンと軽く落として大きな気泡を抜く。
「オーブンへ。温度は高めで入りを作り、すぐ落とします。蒸気を少量」




