第1話:エルフの祝祭サラダ_1
鈴の主を確かめようと、凪斗はカウンターの端から振り返った。
現れたのは、一人の青年だった。
麦色の髪が雨上がりの夜気を吸って柔らかく光り、背はすらりと高い。細身に見えるが、姿勢に甘さがない。歩幅の取り方や、視線の動きに迷いがなく、場を壊さないように配慮する癖が身に付いている人の動きだ。耳の先が僅かに尖っているのを見て、凪斗は説明を足す必要がないと悟った。エルフ。そのひと言で十分だった。
不思議と、驚きはなかった。それもそうだろう、彼よりも先に、竜人の青年を見ているからだ。耳が少し違うくらいで、他は自分たち人間と、何ら変わりはないように見えた。
自分と違うとするならば、肌が少々白く見えるということくらいである。
だからといって、何も言うことはなかった。
「今宵は祝祭の日。森の恵みを分かち合いに来ました」
青年は静かに一礼し、両腕に抱えた木鉢をカウンターにそっと置いた。置く時の音がほとんどしない。底に布を噛ませているのかもしれない。
彼の優しさが、なぜだか身に染みた。見えない心遣いほど、後にくるものはない。
木鉢は、肩幅ほどの大きさだった。厚みのある木地に、年輪の筋が綺麗に出ている。中には葉と実が盛られていた。緑は深浅がはっきりしていて、若い葉は黄に寄り、古い葉は墨を一滴垂らしたような深さを持つ。赤い小さな果実がところどころに顔を出し、薄い透明の欠片が光を拾って揺れた。見た目だけなら観葉植物の寄せ植えにも見えるが、近づくと香りが違った。柑橘の皮を細かく削った時の明るい匂い、葉を刻んだ直後の青い匂い、蜂蜜ほど粘らない甘い気配。鼻先にきて、胃のあたりが反応する。
「レイファス。よくきてくださいましたね」
カウンター越しにツユが目を細める。
「こちらは唯白凪斗君。今夜、ここへ迷い込んだ客で……多分、この先もこのバルにとって必要な人間となるでしょう」
紹介されて、凪斗は無意識に背筋を伸ばした。
レイファスと呼ばれた青年は、こちらを見て柔らかく微笑む。礼を保つ仕草だが、堅苦しさはない。相手の緊張を上げない笑い方を知っているのだろう。
「初めまして、レイファスと申します」
「凪斗です! よろしくお願いします!」
形式的な挨拶だが、硬さはなかった。
「これは、森の祝祭で最初に食べるサラダです。作法はありません。好きに食べて、味を、香りを、好きに感じてください。……あるとすると、それが作法でしょうか」
言葉に合わせて、木鉢からの香りがはっきりする。香りは混ざっているが、濁っていない。青、明るさ、甘さ。それぞれ筋が通っている。
ツユは木鉢を受け取り、トングを手にした。手首だけが小さく動いて、葉と実が自然にまとまっていく。音はほとんど立たない。派手な演出はないが、料理を扱う人の動きだとすぐわかる。
カウンターの中では、準備が既に整っているようだった。取り皿は、中身の温度が上がりすぎない程度に冷やされている。フォークの先は軽く磨かれ、指で触れると滑りがいい。テーブルの水滴は拭かれていて、置いた肘が冷えない。細かい気遣いに、店の普段が見える。
「凪斗君、是非、最初の一口を」
皿が目の前に滑ってくる。縁が薄い。視界に皿が入り込みすぎない形だ。
――見た目はとても綺麗だ。だが、見た目だけでは腹を満たさない。
心の片隅で「草を食う」という言葉がちらつく。サラダは付け合わせで、主役にはならない。そう思って生きてきた。野菜は嫌いじゃない、が、上にベーコンやチーズが乗っているとテンションが上がる。
つまりは、そういうことだ。今目の前にある皿の上に、タンパク質は載っていない。前菜として受け入れるのはありだが、これだけで腹の足しになるとは言えない。
それでも空腹は考えを切り捨てる。腹の虫は正直だ。フォークを持つ手に、自然と力が入る。
「……いただきます」
声に出し、葉と実をひと口分すくう。ひと息置いてから口へ運んだ。
歯が触れた瞬間、しゃく、という軽い音。
青臭さがくると身構えていたが、来ない。最初に出てくるのは薄い甘み。甘いと断言するほどではないが、苦みの先に救いがある感じだ。噛むほどに、ほろ苦さの奥に層ができ、爆ぜた実の細かい皮が歯に当たるたび、香ばしい香りが跳ねる。酸味ははっきりとあるが、何の邪魔もしていない。材料同士をまとめる背骨の役割をしている。
思っていたものと違った。
驚きだけが先に出た。
「……うまい」
言葉は勝手に口をついた。意識して選んだ表現ではない。だが、今の自分の舌にはこれが一番正確だった。
先に食べたあの宝石ナッツ。濃くはあちらが上だ。しかし、料理として見るなら、断然こちらのほうが上。幾重にも重なって、さらに遊び心が感じられる。
それから、自身。素材の自信と、紹介者の自信が合わさって、納得せざるを得ない味なのだ。
レイファスが小さく頷く。目が少し柔らかくなる。
「今日持ってきた甲斐がありました、民も皆顔が綻ぶでしょう」
凪斗はフォークを持ち直した。見た目はシンプルだが、舌の上で組み合わされて初めて完成する味だとわかった。先入観に引っ張られないために、もう一度、同じ構成で口に運ぶ。
二口目。最初の驚きが落ち着くと、配置が見えてくる。
中心に清涼感。その周りを香りが円を描いて巡り、縁に薄い苦みがかかる。甘みは点在して、噛む位置で顔を出す。穀の香ばしさが下支えして、「前菜」を「主菜」に変える。口の中の温度が少し上がるたび、果皮の香りが鼻に抜けていく。




