第21話:獣人族の狩猟肉炭火焼き_1
この日、昼の片付けが終わるころ、扉の鈴が一度だけ低く鳴った。
入ってきたのは、狼を思わせる耳と尾を持つ獣人の青年だった。背は高く、肩と胸板が厚い。毛並みは灰と黒が混ざり、動くたびに短く光る。視線は真っ直ぐで、店内の匂いと音を確かめるように一巡させる。
「ようこそ」
ツユが柔らかく頭を下げる。
「本日は、どのようなご用向きでしょうか」
「火と塩が欲しい」
青年は短く言って、背の袋から布包みを取り出し、カウンターに置いた。その重みで天板が微かに鳴る。
「お名前は?」
「ラグナル」
「BALのツユと申します。こちらは唯白凪斗、手伝いの若い者です」
「……ツユにナギト。よろしく」
「凪斗です。こちらこそ、よろしくお願いします」
凪斗が会釈すると、ラグナルはこくりと頷いた。礼はある。その声は低くよく通り、物怖じもしていない。
ラグナルは布を開いた。そこから、赤身がよく締まった、大きな肉塊が現れた。よく見ると、表面に白い細線が走っている。稲光の残像みたいに見えたが、実際は筋の流れだという。脂は厚みがあり、角度で鈍く光った。冷えた川の匂いと、野の匂いが混ざっている。
「雷角鹿だ」
「雷角鹿ですか。なるほど、処理はどのように?」
とツユが聞く。
「腹の中身を抜き、川の水で冷やした。香りは何も足していない」
「結構でございます。――望みは塩と火、でしたね」
「あぁ。余計な手は要らない」
端的だが、挑むような調子はない。自分の獲物と技術に責任を持つ者の言い方だった。
「では、こちらで火の用意をいたしましょう」
ツユは厨房奥の蓋を外し、石組みの浅い炉を出した。
「これは火石の炉です。熱を石に溜め、一定に吐き出します。炭と合わせると、荒れずに押せる火となります」
「良い。……あぁ、良いな」
ラグナルが短く言う。
凪斗は炭を重ね、細木で起こし、火石を周囲に配る。側面の小窓を少し開け、空気の通りを作った。
ぱちぱち、と乾いた木が鳴り、炭が赤く灯る。火石がゆっくりと鈍い光を帯び始めた熱が均され、焦りを誘わない火の性格になる。
「凪斗君、肉はまだ常温に。温度はそのままにしておいてください。表面は水気を丁寧に拭いて、脂側に浅い格子を淹れましょう。筋は追わず、脂の溝だけ作ることにします」
「はい、わかりました」
ペーパーで肉を押さえる。指先に冷えと張りが伝わってきた。川の水が冷たかった証拠だ。
脂に浅い切れ目を入れると、刃の進み方で厚みがわかる。深過ぎると脂がよく落ちてしまう。浅過ぎると表面で逃げる。
『この後をどうしようか』と、凪斗が迷ったところで、ラグナルが無言でそばに立った。大きな手が肉を軽く押さえ、刃の角度を指の腹で示している。
「こう。脂は切らない、開くだけ」
「……こう、ですか」
刃を預けると、すっと通ったことに驚く。余計な抵抗がない。
「無駄に切るな。肉は切られたぶんだけ泣く。泣くと、身が締まらなくなる。旨味も逃げる」
言葉はぶっきらぼうだが、助言は的確だった。
「塩は砂の国でいきましょう。カラッと表面を乾かして、粒もどこにいるのかわかりやすいですから」
ツユがいくつかある塩壺の中から、砂の国のものを開ける。
「赤身は薄く、脂側は気持ち多めに。香草は火にくぐらせて煙だけ借りましょう。香りを塗るのではなく、通すだけです」
「通すだけ」
凪斗が復唱する。
「そうだ」
ラグナルは短く頷いた。
「……ところで」
ツユがラグナルに視線を向ける。
「旅は長いのですか?」
「あぁ……まだ続く。他の火、他の塩。他の肉。他の飯。……他の寝息」
そこで言葉が止まる。『寝息』――
音の柔らかさに、凪斗の胸が不意に揺れた。幼い頃の夜がひょいと浮かぶ。狭い布団で、父の低い寝息と、母の浅い呼吸に挟まれて眠った。間にいる自分は何も気にせず、温度だけを確かめて目を閉じた。――匂いも音も、子どもを安心させる形をしていた。
今の自分は、一人で眠る音を聞いている。思い出は痛くはない。ただ、少し口と喉が乾く。
「話は火後にしよう」
「ええ、火のあとに」
ツユは笑ってその提案を受けた。
炉の温度が落ち着く。火石の光が呼吸のように小さく明滅し、炭の表面に白い粉が薄く出た。
「強火、近火、短時間。とにかく、焦がさぬよう表面を中心に。返しは一度です」
「承知です」
塩を当て終えた肉は、表面に薄く汗を浮かべている。キラキラと光る塩が、ドレスに飾られたビジューのようだった。
脂側を下に、準備していた厚手の網へ――
じゅっ。
置いた瞬間、音が立った。
もう一度、じゅっ、と短く鋭い。脂が均等に滲み、香りが一段跳ねる。炭の乾いた匂いと、脂の甘い匂いが重なった。火石が熱を吸い、炎は暴れない。
ツユが香草の束を火に走らせ、白い煙を一瞬だけ通す。煙は肉に薄くまとわり、上にはのぼらなかった。煙たさは空に残らない。
「まだ触るな。今は肉の音を聞くだけ。脂の爆ぜる音を」
ラグナルの声は低い。
脂面に細かい泡が生まれては消える。塩の粒が溶けて光り、格子の焼き目が少しずつ浮き上がる。
凪斗は呼吸を短く整えた。音と匂いがリズムを作る。焦らなくていいが、タイミングを逃さないためにも、目は一瞬たりとも離せない。
「返すのは一度。……まだ、ですよ」




