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こちら異世界BAL《クロスロード》-世界の味、集めます-  作者: 三嶋トウカ
第二章:様々な世界の一片

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第20話:水の都の浮き魚の冷製スープ_5


 凪斗は、碗の残りを大切にすくいながら、ふと、会社員時代の夜を思い出した。

 ――蛍光灯の白い光。深夜の会議室。コンビニのサンドイッチは片手で食べ、もう片方の手はキーボード。自販機の缶コーヒーは甘く、舌に膜をはった。空腹は確かに消えたのに、胸のあたりに重さだけが残った。

 入れるだけ。味わった記憶がない。燃料に味は要らない。溜まるか溜まらないか。それに、エネルギーになるかならないか。値段も忘れてはいけない、それから、手軽さも。


 たまに食べる季節限定のスイーツは、そんな生活をほんの少し彩ってくれる要員だった。減らない仕事に忙殺されてからは、それすらもなくなってしまった。引き出しにしまっておいたチョコレートも、目を覚ますために食べていたガムも、いつの間にか空っぽになって、補充をする気にもならないまま去った。


 ――それが、今はどうだろう。座って、誰かと向きを揃えて、目で涼み、香りで始め、短く終わる。人と意見を交わしながら、目の前の料理を楽しみ、そして、次の料理を考える。――たったそれだけで、腹の中心が静かに満たされるのだ。

 あの場にいたら、きっと気が付かなかっただろう。気が付いたとしても、せせら笑って、ごみ箱に捨てていたかもしれない。こんなに素敵なものを、不要なものとして。


「……人に出す緊張がないと、料理って、ここまで自由なんですね」


 思わず漏らすと、ツユは微笑んだ。


「ええ。約束の皿と、自由の皿。どちらも大切です。今夜のこれが、明日の約束を支えます。家族との約束も、友達との約束も、仕事の約束も……自分との約束も」

「自由と約束……人と自分……」

「自分のことも、大切にしてください。美味しい物を食べるということは、自分を大事にすることと変わらないと思いませんか?」

「確かに」

「それに、誰かと話して意見を交換するということは、自分がそこにいることの象徴にもなります。今、ここに凪斗君はいるんです」

「そう、ですね」


 少しだけ緩やかになる空気。知ってか知らずか、グランツが空いた碗を掲げる。


「おかわり!」

「ふっ……あははっ……! 早いなぁ」

「いや、もっと早く食い終わってたんだがよぉ。なんか邪魔しちゃ悪いと思ってな、これでも待ったんだぞ?」

「もっと早く食べ終わってたんかい!」


 カリンが呆れつつ、すぐに動く。


「……泡、もう一本いる?」

「いる! 当たり前だ!」

「そう言うと思ったわ」


 レイファスは茶の話を続け、香りの重ね方を窓辺の風に例え、モーガは短く相槌を打つ。


「風がいるのはわかる。強すぎないやつじゃな」

「そうです。加減が難しいんですけどね。……でも、ここの席はちょうど良さそうだ」

「えぇ。風の席を選んでお出ししました」


 ツユが応じると、モーガは僅かに口角を上げた。


「気づいておったよ」


 碗の底が見えてきた。最後の一口。

 凪斗は、炙り皮の香りに舌を寄せ、出汁と一緒に飲む。香りが合図のように立ち、すぐ終わる。浮き魚は最後まで沈まなかった。口の中で魚が浮かぶ。

 ――旅の記憶そのものが、静かに浮いているみたいだ。誰のものでもないのに、知らないのに、まるで、自分のための記憶。

 碗を置くと、胸の奥を涼しい風がふっと通り抜けた。


「締めに、柑の寒天を少し」


 ツユが小皿を出す。透明な立方の中に、薄い皮の点が光る。

 目の色の変わったモーガが先にひとつ、無言で口に運んだ。


「これは……よい」


 短く言い、もうひとつ取った。


「水の都の皿のあとに、ちょうど良いなぁ。わかっておる」

「ありがとうございます」


 凪斗もひとつ口に入れる。噛むとすぐに崩れ、冷たさだけが残る。スープと同じ“短い終わり方”だった。


 やがて、グラスの音が落ち着き、客たちの会話も静かになる。

 レイファスは「また森にこの話を持ち帰る」と言い、グランツは「次は肉の回だな!」と笑い、モーガは「甘味はまた頼む」と短く告げた。

 それぞれが、それぞれの終わり方で席を立つ。


 厨房へ戻る途中、ツユが小声で問う。


「凪斗君、さっきの街を食べているという言葉、いただいても?」

「え? あ、もしかして記事にですか?」

「ええ。シオンさんがきっと喜びます」

「どうぞ。俺は、そう思いましたから」

「君の思ったは、良い味をしています」


 それだけ言って、ツユは片付けへ戻った。


 水の都の夜は、碗の底に小さく残った涼しさと一緒に終わる。

 グラスを伏せ、氷石を拭い、浮袋壺の口を閉じる。この時間で、また新しい扉を開けて、新しい人に出会い、味を知った。

 凪斗は手を動かしながら、自分の腹の中心に静かな明かりが灯っているのを感じていた。満腹ではない。だが、足りている。心が満ちている。


「……すごく、生きてる……って感じがしてる」


 そう小さく呟くと、扉の鈴がひとつ、軽く鳴った。


「いらっしゃいませ!」


 店の夜は、まだ続く。

 けれど凪斗の中で、先ほど経験した『椀の中のひとつの旅』は、確かに短く、だが美しく終わっていた。

 ――食べただけで、異世界を旅できる。

 この『BALクロスロード』は、やはり交差点なのだと、彼はあらためて思った。

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