第16話:水の都の浮き魚の冷製スープ_1
昼の仕込みが一段落したころ、扉が勢いよく開いて、涼しい風がひと塊りで入ってきた。
カリンが、濡れた布で包んだ壺を両腕に抱えている。髪は湿り、額には細かな水滴。いつも砂や土の匂いを連れて帰る彼女が、今日は川の水の匂いだった。
「たっだいまー! 水の都、ええとこやったで!」
「お帰りなさい、カリンさん」
ツユが微笑む。カリンも、ニコニコとした表情を崩さない。
「随分と涼やかなご帰還ですね」
「そりゃあもう! 川がようけあってな、道がぜーんぶ橋みたいな街や。水の都いうヤツ。んで。――これ、見てや」
カリンは壺をそっとカウンターへ置いた。淡い青の釉薬、肩には魚の文様が彫ってある。凪斗にとって、始めて見る文様だった。
「『浮袋壺』言うて、水の都の保存容器や。中に冷たい気ぃを貯めとける魔具。氷要らずで半日くらいは冷え冷えのまんま! スゴイやろ?」
壺の口を開けると、冷気がふわりと漏れ、薄い霧が立った。中には透き通った水。表面に、銀色の細い影がふよふよと漂っている。
「え、これ……生きてます?」
凪斗は思わず覗き込む。
「生きとらんよ。せやけど浮くねん。この魚も浮き魚ゆうて、空の気ぃを飲むクセがある魚らしい。気嚢が発達してて、締めた後も身が沈まへん。ほら、触ってみ?」
凪斗が箸でつまむと、指に吸い付くように柔らかい。軽いのに、スカスカではない、弾力がある。
「わっ……何だか変な感じですね」
「うちな、これ冷たい吸いもんにしたい思て持ってきたんよ」
「吸い物……今のこの時期なら、確かに冷製の澄んだスープが良さそうですね? そう思いません? ツユさん」
「良いですね。水の都の夏の皿、という趣向でいきましょう」
客席の奥からグランツが顔を出した。
「おい、川魚か? 酒は何が合う? 旨いヤツなんだろうな?」
「お酒はまだ決めませんよ。まずは料理を仕立ててから、です」
ツユはいつもの穏やかな口調で受け流す。
「ほいほい、待ってるぜ」
グランツ自身も、軽くいなされたがいつものことのように気に留めなかった。
仕込み台に壺を移し、準備が始まる。
「凪斗君、壺の中の浮き水は取っておきます。香りが薄く移っていますから、スープのベースに混ぜてやると川の街の香りが出ますよ」
「はい。川の街の香り、ですか」
「えぇ。お楽しみに。ではカリンさん、浮き魚は皮目をそっとこすって、銀粉を落としましょう。身を傷めると気嚢が破れて沈みますから、優しく扱うことをお忘れなく」
「任せとき!」
凪斗は小鍋に水を張り、昆布に似た乾物を落とした。見た目はほぼ乾燥昆布だ。けれど、その板状のものは、はところどころ薄い青を帯びている。
「これは? 昆布は昆布――に見えますけど」
「これは『水路昆』というものですよ。水の都の水路で採れる藻の乾物です。凪斗君の知っている海の昆布より出汁が軽く、香りが水に馴染みます。なので、冷たいスープに向いているんですよ」
「へえ……」
「強く煮ないこと。温度は手で触れて湯の手前まで。じわっと旨みだけ抜きます」
火口で湯気がうっすら立つ。ツユは次に、透明な石を指さした。
「氷石です。壺と同じ店で手に入る。触れると温度が落ちますが、水には溶けません。冷やしたい器の下に敷いておきましょう」
「ほんま、便利なもんばっかりやなぁ」
「料理の校庭で、食材は勿論一番ですが、そのあとは道具が半分、段取りが半分。美味しいもののために、覚えておきましょう」
浮き魚をさばく段になる。背開きにして、骨を外す。身は薄く、うっすらと透明だった。これだけでも美味しそうだ。中心には、白い筋が一本通っている。
「ここが気嚢の名残です。強く押さないように」
「はい」
凪斗はピンセットで小骨を抜いた。魚は驚くほど軽く、指先の圧にすぐ形を変えてしまう。
「生でも美味しそうに見えますけど……。刺身にはしないんですか?」
「もちろん刺身もいけますが、今日は水の都の皿として、澄んだスープの中に浮かせます。街を器に閉じ込めるつもりで」
ベースの出汁が引けた。濁りがなく、色はほとんど透明。味見のため口に含むと、確かに海より軽い気がした。
「ここに、壺の浮き水を少しだけ足します。香りが一瞬で変わりますよ」
一筋注ぐと、匂いがふっと涼しくなった。湿り気のない、乾いた清涼。
「……水辺の香りがします。生臭い、ぬるっとした感じじゃなくて、水の涼しさだけ残したみたいな」
「そうです。水の都には、街そのものの匂いがある。スープに街の空気を一滴だけ借りましょう」
澄ませの段取りに入る。
「卵白で軽く引きます。濁りを抱かせて、より澄ませる。強くやる必要はありません。風景をくっきり見せるための一手、くらいの気持ちで」
「了解です」
凪斗は卵白を泡立てずに溶き、冷たい出汁にそっと混ぜた。弱火でゆっくり温度を上げると、細かな汚れを抱いた卵白が浮いてくる。布で漉すと、出汁はさらに透きとおった。
ツユは小さな碗をいくつか選び、底に氷石の薄片を忍ばせる。器自体を軽く冷やすためだ。
「凪斗君、浮き魚の身は湯引きではなく、塩で締めるだけにしましょう。塩を両面に薄くあて、十分数。そうやって水気を拭いて、ごく薄く削ぐ」
「塩はどれを?」
「風の国の塩で。湿気を吸いにくいので、身に塩の粒が残りにくい」




