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こちら異世界BAL《クロスロード》-世界の味、集めます-  作者: 三嶋トウカ
【第一部】第一章:始まりの味

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閑話①BALスタッフの日常_4


 一口。香草が先に来て、焦げの苦みが短く顔を出し、玉ねぎの甘みが受け止めた。

「……甘い。旨味がこれにも詰まってる」

 思わず笑う。

「さっきと違うけど、これはこれで好きです」

「良いですね」

 ツユも味見して頷く。

「君の好きがわかる。料理は人の数だけ正解がある、と私は思っています」

 言葉が腹の底に落ちて、温かさが広がった。

 凪斗は、空の皿を見ながらもうひとつ話を続ける。


「会社では『正解の味』ばかり探していました。レシピどおり、マニュアルどおり。外すのが怖かったから。でも、ここでは『自分の好き』を言ってもいいんだって、今、やっとわかった気がします」

「言っていいのです」

 ツユは短く言う。

「ここは交差点ですからね。正解はひとつに決まりません。揃えるべきは段取りだけですから。迷わないようにだけ。後は自由に」

「段取り……」

「ええ。人が座る場所、皿の温度、灯りの明るさ。順番を整えれば、好き嫌いは衝突せずに並びます」


 会話がひと段落すると、ツユは小さな急須を取り出した。茶葉はバルの常備のもの。湯を注ぐと、土のような柔らかい香りが立った。


「温い茶をどうぞ。口の終わりを優しく整えます」

「ありがとうございます」

 茶をひと口含む。辛くも甘くもない、ただ温度だけで喉を撫でる味。忙しかった一日の角が、少しずつ丸くなる。


「――ツユさん」

 茶碗を置いたところで、凪斗は前から気になっていたことを口にした。

「昔、どんな仕事をしてたんですか?」

 ツユは少しだけ目を細め、笑った。

「昔話は、長くなりますよ」


「長くても、いつか聞きたいです」

「いつか、ですね。今夜はまかないの話のほうが似合います。そう思いませんか?」

 それ以上は語らない。はぐらかすというより、今夜の話題からこぼれないようにそっと枠を戻すような調子だった。


「ヒントくらい、ありません?」

「そうですね……。昔の仲間と、よくまかないを囲みました。決まりは『みんなで座ること』だけ。味は毎回違いましたが、座れば落ち着きました。今と、そう変わりません」

 それが限界だというふうに、ツユは茶をすすった。凪斗は、それ以上は踏み込まなかった。知りたい気持ちはある。でも、こうしてはぐらかす穏やかさも、この店の一部だと思えた。


「ところで」

 ツユが話題を戻す。

「今日の小人族の親子、凪斗君が椅子の高さを変えてあげたでしょう。喜んでいましたよ」

「あ、気付きました? 景色が変わると味が変わる……なら、ちょっとしたズレでも違う景色を見せたいじゃないですか。どんな味になる野か、興味あります」

「良い配慮でした。種族ごとに美味しい条件は違います。全部覚えなくていい。ただ、目の前の人が嬉しそうか、よく見ることです」

「はい」

 こういう会話が、凪斗には嬉しい。正解を押し付けられるのではなく、見方を渡される感じ。彼は茶をもう一口飲み、息を整えた。


「もう少し食べられますか」

「いけます」

「では、サンドの別の終わり方を試しましょう。――パンの表に、香草オイルではなく少しのバター。香り塩は抜き、干し肉粉を増やす。トマトは端を使って水分を抑える。仕上げにレモンを一滴だけ」


 手早く作って、半分に切って渡される。

 かぶりつくと、最初に来るのはバターの乳の香り。すぐに干し肉の塩気が立って、レモンの酸が短く切る。さっきのサンドより一口の終わりがはっきりしている。

「こっちも、好きです」

「終わりが選べると、次が続きます。働く者の夜には、そのほうが良い」


 皿が静かに空になっていく。

 食べながら、凪斗はぽつりと漏らした。


「――ここに来るまで、夕飯って時間の端っこでした。やることの合間。終電と締切の間。食べた気がしないのに腹だけ膨れて、眠れない夜も多くて」

「今は?」

「いまは……真ん中に近いです。食べることが一日の真ん中に戻ってきた、みたいな。ここが、俺の中心なんです」


「良い変化です」

 ツユは凪斗と視線を合わせる。

「BALは客のための場所であり、働く者の居場所でもある。居場所には真ん中が必要です」

 言い切る声が大きくはならないところが、ツユらしいと思う。押し付けにはならない。けれど、確かに支えになる言葉だった。


 食器を重ね、二人で立ち上がる。洗い場に運ぶ音まで、今夜は耳に優しい。

 凪斗がスポンジを取り、ツユが湯の温度を整える。皿を洗う水音が続き、合間に短い会話が挟まった。


「そういえば、ガラスの塊みたいな置物、さっき見ました」

「あぁ、それは囲い小鉢ですね。食べる時に上が開きます。冷めない、ぬるくならない、便利な小鉢です」

「勝手に空くの、面白いですね」

「器が食べごろを守ってくれるんです。そうすると、焦らなくなる」

「焦らない、か」

「ええ。焦らない人は、味を逃しません」


 洗い物が片づく頃には、厨房の温度が一段落ちていた。火口の余熱は抜け、湯気は薄い。タオルを絞り、作業台の水気を拭く。吊るしたレードルがわずかに触れ合って、小さな金属音を立てた。


「今日の約束は守れましたか」

 布巾を干しながら、ツユが尋ねる。

「はい。塩は控えめ、火は弱めから。――あと、座ること」

「それが一番大事です」

 ツユは満足そうに頷いた。


 凪斗は、自分の腹の具合を確かめる。満腹ではないのに、足りている。すぐに走り出す感じではなく、明日に向けて歩ける感じ。

 この手応えを、明日も持っていたいと思った。


「ごちそうさまでした」

「お粗末さまでした」


 灯りはそのまま、店はまだ眠らない。けれど、厨房には確かなおしまいがあった。

 味は静かに終わり、明日の支度が少しだけ始まる。

 凪斗は、胸の中に小さな真ん中を持ったまま、片づけの手をもう一度動かした。

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