閑話①BALスタッフの日常_3
厨房の時計は、針の音を立てない。代わりに、冷蔵庫の低い唸りと、湯気が布巾にしみる音が小さく続いている。外の路地の靴音が一度だけ通り過ぎた。凪斗は呼吸を合わせ、指先の油を布で拭った。これから食べるというだけの場面なのに、妙に満たされている。
皿は温かい。腹は準備万端。言葉は自然に少なくなる。
次の一拍で「いただきます」と言えば、すぐ味が始まる――その直前で、二人は静かに座っていた。
皿は温かく、湯気がゆるく立っている。昔は出てきたらすぐに食べていたのに、今はこの時間が待ち遠しい。
凪斗は一拍だけ呼吸を整え、声に出した。
「――いただきます」
ツユも軽く手を合わせ「いただきます」と同じ言葉を返す。
まずはオムレツ。ナイフの先を入れると表面が小さく割れ、内側の半熟がとろりと広がった。緑の香草が黄色を引き立て、甘い匂いが目の前に集まる。口に運ぶと、柔らかさが先に来て、すぐ後から玉ねぎの甘みが追い、干し肉の粉が細い線のように塩気を結んだ。まとまりがある。具が並んでいるのではなく、同じ方向に歩いている感じがする。
「……うまい」
素直に言葉が出た。
同じように一口含んで「良いまとまりです」とツユが頷く。
「卵は器であり仲裁役。具の居場所が整うと、声を荒げずに済むのです」
次はサンド。歯を立てると、外側は軽く、中はしっとりしている。歯触りが嫌味でない。極薄の玉ねぎがシャリと短く鳴り、心配した苦みは感じられなかった。続いて、トマトの酸味が旨味を迎えようとする。潰したピラフは不揃いな粒が噛むリズムを作り、干し肉の粉がところどころで輪郭を締める。霧吹きの黒曜石ビールの香りが鼻にだけ残って、味は邪魔をしない。
「パンにビール、いけますね」
「麦は仲間同士ですからね。喧嘩になりません」
「もっと、どれも主張してくると思っていました」
「仲間になれば、一致団結するものですよ」
それからスープを一口。香草の香りがすっと通り、余韻は短い。口の中が整い、またオムレツに戻りたくなる。
しばらく、二人ともほとんど喋らない。食べるだけに集中できる時間が、店の音とよく合う。冷蔵庫の低い唸り、布巾が乾く音、湯気が照明に揺れるささやかな気配。肩の力が抜けていくのがわかった。
「――不思議ですね」
フォークを置いて、凪斗が呟く。
「人に出す緊張がないと、料理って、こんなに自由なんだって思いました」
「ええ」
ツユはスープをすすり、ゆっくり置いた。
「お客様の皿は約束の味。お客様の期待に、答えたくなるでしょう。反対に、まかないは自由の味。どんな味でも次に繋がります。そして、どちらか一方だけでは、長く続きません」
「約束と自由……」
凪斗は小さく繰り返す。彼の頭の片隅に、会社員だった頃の夜がよみがえった。会議室の蛍光灯、深夜のコンビニ、片手で食べるサンドイッチ。あの頃、味は仕事の隙間を埋めるものでしかなかった。温度や香りを確かめる余裕も、誰かと並んで座る時間もなかった。
デスクの引き出しに忍ばせたチョコレートを思い出す。ささやかな安らぎと、今を乗り越えるエネルギーの塊。
「会社にいたころは、腹が空いたら入れるだけでした。食べるものも決まっていて、無機質で、味気なかったと思います」
言いながら、彼は自分でも驚いていた。今日は何だか、自分の話がスラスラと出てくる。それも、仕事をしていたころの。
「会議前にコンビニのサンドイッチを早食いして、残業中はカップ麺をすすって。味は覚えてないのに、空腹の重さだけ覚えてます」
「よくあることですよ」
ツユは否定しない。
「忙しさは味覚を奪います。口に残っても、脳が認知しない。だから、働く者のまかないは味覚を戻す時間でもあるのです」
「戻す時間、ですか」
「はい。温度と香りを確かめ、座って噛む。誰かと同じ方向を向いて食べる。――それだけで、人はだいぶ戻ります」
凪斗は、残ったオムレツを口に運んだ。半熟はもう少し落ち着き、柔らかさの中に薄い膜ができている。さっきよりも噛みやすい。味が整っていくのが、時間としてわかる。
「もう一回、作っていいですか」
皿が空になりかけたところで、凪斗が顔を上げた。
「さっきの感覚を、手で覚えておきたいです」
「もちろん」
ツユは頷き、卵を指で示した。
「約束はふたつです。塩は控えめにして後で足せるように。火は弱めから入って、火力を上げるのは最後。あとはご自由に」
ボウルに卵を割る。白身を切り、黄身を崩す。さっきよりも箸が迷わない。フライパンに油。――が、勢い余って少し火が強かった。卵液を流し入れた瞬間、縁が早く固まり、点々と焦げ目が出る。
「あっ」
「大丈夫。焦げは短い苦み。隣に甘さを置けば落ち着きます」
ツユの声は変わらず穏やかだ。凪斗にとっては明らかな失敗だったのに、それを責めようとする気配は微塵も感じられない。
凪斗は呼吸を整え、木ベラで中央に寄せる。玉ねぎを少し、香草は控えめに。畳む手元に迷いが出かかったが、さっきのころん――という感触を思い出し、手首をゆっくり返した。皿に移すと、見た目は少し不格好。しかし、旨味を含んだ湯気はきちんと立っている。




