閑話①BALスタッフの日常_2
「時間はありそうですね。スープは簡素にいきましょう。あるのとないのでは、味わい方がまた違ってくる」
湯を小鍋で沸かし、香草を一枚、黒い粒をひとつ潰して落とす。塩は控えめ。短く終わって口を整える役目の湯だ。
並べる前に、ツユが戸棚から小さな革袋を取り出した。掌に収まる大きさで、口元に細いひもがついている。
「これは、冷やし袋と呼ばれるものです。砂漠の国の魔具なのですが、外の熱を遮って、中の水分を逃がさない、地方特有のものですよ」
袋の内側はひんやりしていた。触れると、薄皮一枚向こうに井戸の水があるみたいだ。
「冷蔵庫の簡易版、みたいな感じですか?」
「そうですね。氷と合わせれば三日は十分。遠出のときに便利です。――こういうものがひとつあるだけで、余り物の行き先が増えるんです。捨てずに済む」
「異世界の道具、面白いですね」
「面白さに頼りすぎないことですよ。道具が仕事を半分やってくれますが、残り半分は段取りです。……あぁ、他にも沢山ありますので、機会があれば、いずれ」
作業台の片隅では、真鍮の小箱が薄く光っている。見慣れない刻印。蓋を開けると、白い粉が入っていた。
「それは?」
「風の国の塩です。普通の塩と違って、湿気を吸いにくい。嵐の夜でもさらさらです。香り塩と混ぜると、長持ちします」
「へえ……」
凪斗は、ここに来てから塩にも種類があるのだと知った。海の塩、岩塩、風の塩。口に入れると、どれも塩なのに少しずつ違う。
「そういえば、今日、天井近くの席に座っていた小人族の親子、見ましたか」
「見ました。椅子を積み上げて「景色が変わると味が変わる」って言ってました」
「彼らは空気の流れに敏い。湯気の通り道を楽しむのです。皿の置き方も、少し高くしてあげると喜びますよ」
「なるほど……接客のコツも、種族で違うんですね」
「味覚は身体の作りと生活に根ざします。覚えきれなくて構いません。目の前の人が何を嬉しがるかを、よく見る。それで十分です」
オムレツを皿に、サンドを木の板に、スープを小さな碗に。並べた瞬間、厨房の真ん中に二人分の食卓が立ち上がる。灯りを一段落として、湯気がよく見える明るさに調える。凪斗は息をひとつ吐いた。立ち仕事で張っていた脚が、スツールに座った途端にほぐれていく。
「座ると、味の準備が整います」
ツユは隣に腰を下ろし、手拭いで指を軽く拭った。
「立ったままだと戦いの味になりますからね。座れば食事になります」
「戦いと食事……」
「厨房はどうしても戦いに寄りがちです。だからこそ、座る時間を作る。働く者の味方ですよ、まかないは」
ふと、ツユが思い出したように棚を開け、小さな鈴のついた匙を取り出した。匙の根元には見慣れない刻印。振ると、澄んだ音が鳴る。
「これは匙鈴。混ぜ過ぎの合図に使う道具です。音が鈍くなったら、混ぜるのを止めるとちょうどいい」
「音で教えてくれるんですか?」
「ええ。湿りすぎると音が変わるんです。鍛冶場のやり方の応用だそうですよ。グランツに教わりました」
「グランツさん、そういうことも教えるんですね」
「ええ、飲んでいないときは、たいへん有益なことを言いますよ」
二人で小さく笑った。こういう何でもない会話が、最近は楽しい。今までなかったものを身近に感じられて、ここで生きていることを実感する。
サンドの断面からは麦の匂いがかすかに立ち、オムレツの表面はまだ艶を保っている。スープの湯気は細く、香草の輪郭だけが鼻先に届いた。食べる前なのに、腹は落ち着いていく。凪斗は、自分の中にも店と同じ温度ができてきたのを感じた。料理を通して、店と自分が繋がっている。
「そうだ、もうひとつ」
ツユは小さな木箱を開け、金属の薄片を二枚取り出した。爪ほどの大きさで、表に線が刻まれている。
「火加減札。火口の上に立てると、熱の強さで色が変わります。夜遅く、目が疲れているときの助けになりますよ。私はここのところ、お世話になりっぱなしです」
「あはは、便利ですね」
「便利ですが、頼りすぎないこと。最後は匂いと音。――匂いがいいときは、たいてい音もいいのです」
彼は器用に札を返し、箱に戻した。道具をしまう動作にも無駄がない。凪斗は、こういう手つきに安心する。店の全てが、少しずつ自分の中に移ってくる気がするからだ。
「……さて」
ツユは手を合わせるのではなく、ふっと息を整えただけで言った。
「ここからが、まかないです。食べる前の静けさを、少し長く取りましょう」
凪斗は頷いた。皿を前に、肩が自然と下がる。オムレツの裂け目から覗く半熟、サンドの層の具合、スープの湯面の揺れ、水の入ったグラスにつく水滴――見るだけで、次にやるべきことが身体に入ってくる。
この店に来てから、「美味しそう」という言葉の奥に、準備の気配があると知った。腹と頭を同じ方向に向ける時間。誰かと並んで座る距離。道具が静かに鳴りやむ合図。そういうもの全部が、味の一部だ。
「いただきましょう、は次に取っておきますか」
ツユが軽く笑った。
「はい。今日は、この手前を覚えておきたいです」
「いい心持ちです」




