閑話①BALスタッフの日常_1
最後の客が扉を抜け、鈴の音が細くほどけて消えた。店内の空気が一段落ちる。テーブルの上に残った水滴は丸く、灯りに光っている。凪斗はクロスを固く絞って、手順どおり端から拭き始めた。最初の頃は「どこから片づければいいか」で頭が真っ白になったが、今は身体が先に動く。椅子を押し込み、グラスを伏せ、明日のための並びに整える。指先に付いた水の冷たさが、ようやく夜になったことを教えてくれる。
「お疲れさまでした、凪斗君」
厨房からツユの声がした。相変わらず落ち着いた、少し低めの声だ。
「お疲れさまです」
「今日はよく動けていましたね。混み始めの波で慌てなかった」
「……皿を回すという感覚が、少しわかってきました」
「良い兆しです。素晴らしい」
厨房に入ると、ツユは袖をきちんと折り返し、蛇口で手を洗っていた。指の間を一本ずつ、爪の際まで。彼のこの所作を見ると、店全体が静かに整う気がする。作業台の端には、使い切らなかった食材がまとめられていた。卵が四つ、小ぶりのパンが二つ、玉ねぎの半分、トマト一個。刻みかけの香草、昨日作った“香り塩”、干し肉の端。小鉢にはピラフがほんの少し。黒曜石ビールの瓶底には指一本ぶんほどの液が残っている。
カウンターの裏にも小さなキッチンはあるが、他の調理担当はこっちにいるし、量をこなすには心もとない。仕込みももちろん、この厨房で行っている。
「まかないにいたしましょう。今日は残り物だけで、良い皿になります」
「お願いします」
「基本は二本立て。オムレツとサンド。様子を見てスープを足す。――分担です。凪斗君、玉ねぎは極薄と粗みじんで半々。香草は刻み過ぎないように。干し肉はすりおろして粉に」
「了解です」
まな板に玉ねぎを置く。繊維の向きを確かめ、刃を寝かせて滑らせる。薄い半月が重なっていくたび、目頭が少し熱くなった。涙が落ちそうになる前に、呼吸を整える。
「玉ねぎは泣かせ上手ですからね」とツユが笑う。凪斗は玉ねぎが苦手だった。あの、切った時の刺激臭と、生で食べた時の舌にいつまでも残る辛みが。陽を通せば問題ない。その場合は、むしろ好きな部類に入る。
「水にさらせば楽になりますが、香りも抜けます。今日は諦めて、涙と仲良くしてください」
「仲良く、ですね」
「ええ。慣れれば、涙の出るタイミングも読めますよ。ちなみに、わざと泣かしてくる『赤裂玉ねぎ』もありますが、今日は普通の玉ねぎです」
極薄が一皿分たまると、残りを粗みじんに切り替える。刻む音が細かく弾み、甘い匂いが強くなってきた。香草は束ねて、刃を軽く往復させるだけで止める。細かくしすぎると香りが飛ぶことを、最近ようやく身体で覚えた。干し肉の端はおろし金へ。目に当たるたび、乾いた旨みがふわりと立ち上がる。粉になった端肉は、昨日のそれよりも調味料の顔をしていた。
「先に玉ねぎを炒めておきましょう。塩蜜で、コクを加えたうえで旨味を閉じ込めます」
そうツユに言われて、凪斗はホッとした。生焼けの辛味から、逃れることができる。
「ところで、今日は面白いお客が多かったですね」
凪斗が言うと、ツユは「どなたのことかな」と視線だけ寄越した。
「昼に来た、小柄で耳が尖ってる――あ、レイファスさんじゃないほうの……」
「河原の工房の子でしょう。森の隣国から来た混じりの青年です。味の感じ方が繊細で、塩の量に敏い」
「やっぱり、そんな感じでした。塩を一粒増やしただけで今の方がずっと先まで歩けますって」
「良い表現です。歩ける味、疲れが抜ける味。言葉は国ごとに違っても、身体の表現は近いですよ」
火口では小鍋が温まり、バターの角が少しずつ溶けていく。甘い匂いが立ち上がると、それだけで腹の準備が始まる。フライパンには油を薄く引き、粗みじんの玉ねぎを入れる。じゅっと音がはね、すぐに落ち着く。
「色づく直前で止めます。ここで香り塩をひとつまみ、干し肉粉は耳かき一杯」
凪斗は小さじの背で量り、ぱらりと落とす。香りが一段深くなり、思わず喉が鳴りそうになる。
「卵を合わせてみますか」
「やってみたいです」
「どうぞ。今はお客様に出すわけではありません。自由に――ただし、順番はきちんと守ってください」
ボウルの卵は、白身を切って黄身を崩し、空気は入れすぎない。牛乳は入れずに、白身を伸ばす。フライパンへ流し入れた瞬間、縁から静かに固まり始める。木ベラで中央に寄せ、流れた卵をまた広げる。焦らない。止めない。薄く伸びた表面に炒めた玉ねぎを散らし、香草をふわりとのせる。
「ここで奥へ送って、手前へ戻す。……はい、畳みます」
木ベラで端を支え、手首をゆっくり返す。卵がころんと形になった。表面に薄い艶、縁に小さな裂け目。そこから半熟が控えめに覗く。
「きれいですよ」
ツユの声は、社交辞令の色がない。凪斗は小さく安堵した。皿に移す手つきも、今夜は震えない。
「次はサンドです」
パンを軽く温め、片面に香草オイルを薄く塗る。極薄の玉ねぎと輪切りのトマトを重ね、干し肉粉をぱらり。もう片面には、残りのピラフをスプーンの背でさっと潰して薄く塗る。粒が少し残る程度に。
「黒曜石ビール、霧吹きで一噴き」
「パンにビールですか?」
「香りだけ借ります。麦の匂いは、働いた後の身体を解きます。アルコールは消えるので、安心してください」
霧がパンに薄くかかると、ほんのわずかに甘い麦の香りが立った。二枚を合わせ、手のひらで一度だけ押す。
「切り方は?」
「具の層が見える角度で。食べやすさと気持ちの上がり方は、だいたい同じ方向にあります」
対角に包丁を入れる。カリ、と軽い抵抗が伝わり、断面に黄と赤、緑と白。干し肉粉の斑点が全体を繋いでいるのが見えた。




