第15話:砂漠の民の干し肉ピラフ_5
「そろそろ、しめの一品でも作りましょう」
ツユが最後のひと口を用意する。穀は少なめ、鍋底の香ばしさをほんの少し、黒い粒を指先でひと捻り。乾いた葉はごく少量。
「香りを立てて、辛みを短く。……はい」
凪斗はゆっくり噛む。
始まりは香ばしさ。辛みは短く、香りで切る。口の中がすっと整理され、腹は温かいまま。
「満腹じゃないけど、足りています。満足感がある」
「それでよろしい」
ツユが頷く。
「砂漠の夜は長い。満腹にせず、身体の火を落とさない。……今夜のバルも、ここでお開きといたしましょう」
客たちが名残惜しそうに立ち上がる。
「また食べたい」
「明日もやるのか」
「楽しみで仕方ない」
「こないといけないな」
そんな声が飛び交う。
ツユはいつも通り、短く、しかし嬉しそうに「ありがとうございます」と、客たちを見送った。
片付けがひと段落したころ、店内は静かになっていた。
カリンが何やらごそごそとバッグの中を漁っている。「あった!」と取り出した名刺を一枚、凪斗の前に置いた。
「はい、調査員カリンの名刺。困ったらこれ見せてええよ。多分、どっかで役に立つから」
名刺には見慣れない文字と、小さくバルのマーク。触ると少しざらつきがある。砂壁のような感触。
「それと、これはレイファスから」
レイファスが置いていった木札を、ツユが丁寧に差し出す。
「これは、彼の森の名刺代わり。祝祭の印とはまた違うものです。預けていった分を、一枚あなたに。普段の仕事ぶりへの礼も込めて、だそうです」
円で囲われた芽の印。指でなぞると、彫りの浅さが心地よい。言われてみれば、名前のようなものが彫ってあり、印の模様も異なっていた。
「最後に」
ツユがカウンターの引き出しから、古い真鍮の鍵を出した。持ち手の模様は擦れて丸く、先端は細い。
「凪斗君。社員証の代わりです。この鍵は、君がここへ戻るための印になります。迷ったとき、これを手に、湯気の立つ鍋を思い出してください。扉は開きます」
「……ありがとうございます」
掌に置かれた鍵は、見た目以上に重かった。冷たさが指に移り、じきに体温でほどける。
「今までは、私がこちらから招いていました。ですが、これからは自分の意志で」
凪斗はポケットに、木札と名刺と鍵を順にしまう。
質の違う三つの手触りが、確かな重さになった。
「本当に……こんな店、あるんだな」
自分でも驚くくらい小さな声だったが、言葉にしてやっと胸が落ち着いた。
ここで、ようやく認められた気がした。
自分は、いつでも自分の家に帰れる。現に、寝に帰るだけだが、このバルで仕事が終わったら、元の家に帰っている。
少しの娯楽と、お風呂でリラックスしたら、ぐっすりと眠る。そうすると、いつの間にかこのバルへの扉が目の前にあるのだ。毎度、少しだけ扉が開いている。
その扉を、これからは自分自身が出すことになる。
「ええ。ありますとも」
ツユが柔らかく微笑む。
「お疲れでした、凪斗君。今夜はよく食べ、よく働きましたね」
「明日も頑張ります!」
その話を聞いて、何やらうずうずしていたカリンも、ツユに向かって言った。
「マスター、うちも褒めてえや!」
「もちろん。カリンさん、おかえりなさい。そして、よい仕事でした。次の旅も、どうか無事に」
「任しとき!」
外に出ると、路地の空気は乾いていて涼しい。
街の灯りは見慣れた形だが、鼻の奥にはまだスパイスの香りが残っている。
胸ポケットの木札が服越しに当たり、鍵の重みが片方のポケットで揺れる。名刺のざらつきは、指の腹が覚えている。
会社を辞めてから、気分的に空っぽだった胃のあたりが、今日は静かに温かい気がする。
満腹ではない。でも満ち足りているのは確かだった。
歩きながら、凪斗は腹の奥に残った火を確かめる。長く歩ける火だ。
「そいれじゃまた、ナギト!」
少し進んだところで、バルの中からカリンが手を振る。それに応えるように、凪斗も手を振った。
「次は海やで。塩の風、連れてくるわ。楽しみに待っててや!」
「楽しみにしてます!」
軽い会話が素直に出る。口の中にまだ、ピラフの香りが少し残っていた。
別の日。
開店前のBALは静かだ。
ツユが鍋で湯を沸かし、昨夜作った香り塩を卵にひとつまみ入れる。
「凪斗君、味見を。非常に、香りが立つと思いますよ」
卵の白が締まり、黄身がとろりと広がる。香り塩が短く働き、黒い粒の清涼感で終わる。
「……朝から元気が出ますね。身体に染みわたります」
「ええ。朝は気分が乗らない人もいらっしゃいますから。これくらいが、ちょうどいいかもしれません」
鍵がポケットの中で小さく当たり、金属の音がした。
現実に戻る合図のようで、嫌ではなかった。今のこの場が現実だから。
木札、名刺、鍵。
どれも軽いのに、今の自分には十分な重さだった。これは、自分が存在している証。
扉の鈴が、開店を告げて揺れる。
昨日までの味が、確かに腹の中に残っている。
今日からの匂いが、そっと店に入り込んでくる。
――この続きは、また夜の風に乗ってやってくる。




