和解
その連絡がタクトの元へと入ったのは、覚えている限り人生で二度目に涙を流し、泣き疲れて日付を越して眠ってしまった日の夕方だった。
鏡の中の自分の目が、キツネにでも追い詰められたウサギのように腫れぼったく真っ赤になっているのが惨めなほど笑え、顔を洗った水が滴るのも忘れて見入ってしまう。口元にも見事な痣ができている。こんなひどい顔は誰にも見せられない。
ぼんやりと思っていた矢先、微かなバイブ音が耳に届いた。
放置してもよかったが、このまま殻に閉じこもってしまえば夢から出てこれない気がして、緩慢な動作で事務所へと戻る。表示されていた名前は、出なくても怒鳴り声を響かせてくれそうな雰囲気を感じさせ、諦め以前にまるで義務だと思わせる何かがあった。
そして、たった一言を告げて一方的に切られた携帯を耳に当てたまま、タクトはゆっくりと溜め息を零すしかなかった。
泣き腫らした顔については、この際忘れる事にした。手早く身形を整え、冷たい飲料水で喉を潤し、車のキーを掴む。
一人で生きているようで、常に誰かに翻弄される日々は不思議と嫌にはならない。むしろ、ひとたび一人きりの時間となれば、まるで世界で唯一生き残った感覚に苛まれ恐怖すら抱く。
車を走らせながら、行き交う人々を眺めて安堵する自分の弱さ加減に苦笑せざるを得なかった。ポツリポツリと降り出した雨がフロントガラスを叩き、作動させたワイパーの揺れはまるでタクトの心を映したかのようだ。
呼び出された場所へ到着するまでの間、ハンドルを叩く爪の伸びた人差し指が止まることは無かった。
タクトが車を降りたのは、雨によってコンクリートが満遍なく黒で染まり、頭上も同じく光が隠れた頃合いだ。ただの建物なはずなのに、シンボルとなるマークと制服を来た職員が立つだけでグッと引き締まるものがあるそこを我が物顔で進む姿は、関係者と思われても不思議ではないほど堂々としている。足取りにも迷いがない。
階段を上り、すれ違う数人と挨拶を交わし、とある一室までやって来たタクトを、片手を挙げて歓迎する人物がいた。古臭いものばかりで揃えられた室内で、どっしりとソファーに腰を下ろしている。
くたびれたスーツが不思議と様になる、何かと付き合いが絶えない定年間近だった刑事――長嶋だ。つい最近まで無かった、指導員の腕章が巻かれている。
「ほらよ、お迎えだ」
黙って頭を下げたタクトの視線は、面白そうに口元を歪める長嶋に小突かれるもう一人の人物へ注がれる。
不貞腐れてそっぽを向いていたせいで、促されるまで気付いていなかったのだろう。タクトに気付いた彼は、慌てて憤りを長嶋へ訴える。昨日、容赦のない拳をぶつけてくれた司だった。
「嶋じぃ、なんでタクト呼ぶんだよ!」
「あぁ? 他に誰がお前みたいなアホを迎えに来てくれるってんだ」
気まずいのも頷ける。いくら相手を思ってのことだったとはいえ、なにしろ本気で殴ってしまい、さらには逃げるように言われるがまま立ち去ったのだ。初めて見たタクトの弱々しい姿に怖気づいた。親友としても年上としても、合わせる顔などない。
しかし、そんな司とは裏腹で、長嶋から連絡を受けて警察署へとやって来たタクトは、今まで何度も繰り返してきた同じ状況と変わらない態度と表情を浮かべている。違いを知らせてくれるのは痣ぐらいだ。
司にとってはそれが無性に気に食わなく感じられた。長嶋から茶化されているのが分かるから、余計に素直からは遠ざかっていく。
「迎えはいらねぇって言っただろうが!」
「馬鹿みたいにいきまく奴を泊めてやるほど、警察の留置所は安かねぇんだよ。お前は思春期の餓鬼か? なぁ、司」
「だったらこんなむさ苦しい所じゃなくて生活安全課に連れてけや」
「あそこは大昔にお前が喰い尽しただろうが。優しい街の婦警さんを、お前みてぇなぼんくら相手に本気にさせてたまるかってんだ」
喚く司と慣れた様子でそれを受け流す長嶋の掛け合いは、署内の名物と言えるほどに良く見られる光景だ。タクトも気にする素振りを見せず、暢気に誰かのデスクの上の食べかけのおやつを拝借している。
口を開けた時、痛みの電気が走り顔を顰めたがそれだけだった。
「二時間ばかりずっと、あれの繰り返しだぞ」
「いつもの事ですよ」
そんなタクトの前へ、紙コップがつき出された。目も合わせず受け取り、久し振りだなと声を掛けてきた相手と珍しく不満を前面に対峙した。
よほど反りが合わないのか、それとも地味に根に持つ性格だったからか。タクトのあからさまな態度は、印象そのものには同感な横山もを苦笑させる。
「なんでここに居るんですか」
「それがなぁ」
言外に会いたくなかったと伝える疑問に答えたのは、子供染みた文句を並べる司の相手に飽きた長嶋だった。司の頭を強く叩き、痛みに呻いている間で颯爽と二人の前に移動してくる。
嫌な予感がしたタクトが二歩ほど身を引くと、節くれ立つ指が口元の痣を狙って宙を滑った。
「そいつ、左遷されかけたんだよ」
「あぁ、なるほど。相手を考えずやりすぎたんですね」
自分の時みたいに、そんな言葉を呑み込んだタクトに長嶋が「良く分かってるじゃねぇか」と笑い、図星を突かれた当の本人は決まり悪そうに舌打ちをしてみせた。
腕に物を言わせるタイプな横山だが、おそらく正義感に溢れて根は真面目なのだろう。だから長嶋に拾われた。それで現在は、指導の名目で馬車馬のごとく扱き使われているはずだ。
しかし、考えなしに詮索してくるような人間が近くに来てしまったのはあまり好ましくない。厄介なことにならなければ良いが。そんな不安が込められた憂いの呼吸をするタクトの様子を、長嶋は見逃さなかった。
ちなみに司は、まだ頭を抱えている。どれだけの力が込められていたのだろうか。
「で? 司と喧嘩したんだってな。いやぁ、タクトお前ぇがなぁ」
にやついた表情で触れられたくないことを突くなど、大の大人がすることではないのだが、性質悪くもそれを楽しむのが長嶋という刑事だ。普段は年寄り扱いを嫌うくせして、指摘されればそれが年寄りの楽しみだと言ってくるのだから、よくもまあ定年まで職務を全うできたものだと、人のことは言えないであろう横山がまず強く思っている。
タクトはそんな人物の言葉を、涼しい顔をして受け止めていた。
「言っときますけど、僕は手を出してませんから」
「けど、司に手を出させたんだろ? いやぁ、たいしたもんだ」
「……長嶋さんも人が悪い」
何故か責められ始めたタクトは、これといって長嶋に対しては反論せず、二つの無遠慮な好奇の視線に晒されながら眉を寄せる。
しばらくしてフッと息を吐くと、さきほどから一切こちらを見ない司の前へと移動した。
そして、普段と変わらないトーンで呼びかけ顔が上がった瞬間を狙い、浅くとも確かに頭を下げる。「すいませんでした」小さめな声はまるで子供のように幼く、どこかくすぐったい響きがあった。
「色々と、大分ひどいこと言って」
彼らの歳で繰り広げるにはかなりのごっこ遊びだが、残念ながらタクトにはこれ以外どうすれば良いのか分からない。
大人げなく不貞腐れていた司も、さすがに毒気が抜かれた。ここで今の態度を貫けば、どちらが悪者になってしまうかぐらいさすがに分かっていた。
とにかく長嶋の出歯亀な視線と、横山からの疑問を訴える視線がヒシヒシとしていて痛い。
しかし、もう良いと口を開こうとしたところで、タクトがまさかの仕返しに出る。それが本当に殴られた腹いせだったのか、それとも気遣いだったのかは微妙なところだ。どちらにせよ、司の罪悪感を抉ったのは間違いないのだから。
「――だからって、年甲斐もなく暴力で鬱憤を晴らすのまで、僕の責任にされたら困りますけど」
「なっ! それはお前……」
「はいはい。どうせ最初は穏便にいこうとしたんですよね。でも、いくらそのつもりでも、最終的に長嶋さんの厄介になるなら言い訳でしかないって分かってますか?」
傍で見ていたかのような的確な言葉にぐうの音も出ない司へ、容赦なく辛辣な言葉をぶつけていく。
けれど、タクトは勿論のこと長嶋だって、街で蔓延る吐いて捨てるほどいるチンピラと司が同類だとは思っていない。再三この場所で説教を受けている身ではあれど、彼は一度だって自分の立場が悪くなるような乱暴を働いたことはなかった。
「それで、今日はどんな女性を助けたんですか?」
派手に落ち込んで見せた司を放置し尋ねれば、長嶋は豪快に笑って横山の背中を大きく叩いた。タクトならば余裕で前につんのめって痛みで動けなくなるだろう。それを微動だにせず受けていられるあたり、横山の将来が見える気がする。
「連れ去られそうになった女性を助けるってんで、三人と取っ組み合ったんだよ、そいつ」
「いつもより派手ですね。なんというか……。王子さまじゃなくて、どこかのヒーローですか。怪我は?」
「司の場合、ご自慢の顔が無事なら問題ねぇだろ」
そのままの意味で三者三様、言いたい放題されるがままな司は我慢ならず一喝しようとした。けれど、タクトが堪えきれない笑いで全身を震わせたせいで力及ばず、「うるっ! せぇ……」と、なんとも間抜けた声になってしまう。
声だけではない。立派な、しかも、どちらかといえば厳つい顔立ちをした三人の男が、優男であるタクトを見ながら大きく口を開けて呆けている。
それがさらに笑いを誘い、必死な抵抗も空しく最後は腹を抱えて爆笑する。それでもどこか気品が失われないのは、タクトだからこその芸当だろう。部屋に響く笑い声も柔らかい。
しかし、何がそこまでツボに嵌ったのかは不明だ。
「何ですか、その顔。僕だって、笑ったりしますよ」
息も絶え絶え訴えるも、一度しか顔を合わせたことがなかった横山でさえ、タクトがこのように大きな動作をするイメージを微塵も抱けなかった。それだけ常に、洗練された雰囲気と一線を置く危うさが濃く漂っている。
作り物の人形では無いのだから笑いもすれば怒りもするけれど、素がこんなにも幼く初々しいとは。当たり前にただの青年の姿だった。
「あー、おっかしい。口が痛いんですけど」
またしても気のおけない友人の知らない顔を見せられた司が複雑な心境を整理する前で、タクトは目尻に浮んだ涙を拭う。
「ほら、司さん。帰りますよ」
「……おう」
「良いですよね? 嶋さん」
「その為に呼んでたからなぁ。さっさと連れて帰れ。にしても、お前のさっきの様子、自慢したらやっかまれるだろうな。良い酒の肴になりそうだ」
「もったいないので、安売りしないで下さいよ」
中々動かない司をうながし、長嶋のからかいを軽くいなし、タクトは先ほどの少年っぽさを微塵も残さず横山の脇を通っていく。
タクトを呼ぶ際、口を酸っぱくして長嶋から言われていたため態度には出さないようにしていたが、初対面でも感じていた凡人にはない気配は微塵も消えていない。刑事の勘か何かがひどく疼き、横山は終始落ち着きがかけていたのを自覚している。
そして、すれ違い様だった。
「お困り事があれば、ぜひ僕の事務所へ」
まるで見透かした呟きは、ほんの一瞬だけ危険な香りを横山に届ける。からかって遊んでいるのか、それとも煽っているのか。
いつもの調子で掴みかかりそうになった腕にグッと力を込めて耐えている視線の先で、タクトは司にさらなる追い討ちを掛けているところだった。
「このまま麗華さんの所へ行くんで」
「お前まさか、あいつに連絡したのか!」
「綺麗なもの好きの麗華さんがこの痣見たら、何て言うんでしょうね」
その背中は、極々ありふれた様子を見せていた。微かに感じられた怪しさはどこにもないはずだ。
それでも自然と、横山の目付きは鋭さを帯びていく。
「――横山よぉ」
「なんですか」
「あれは止めとけ」
けれど、瞬時に察した長嶋が苦言を呈す。
刑事である彼らが犯罪を犯した者を前に見て見ぬフリをすることは出来ない。それを前提に、現役を退いたベテランは、見つけないままでいることは出来るとその時たしかにそう言った。
「グレーも社会には必要だ」
「しかし……」
「タクトが何かしら染まってるってんなら、相当な大物だろうよ。俺らみてぇな下っ端に手は出せねぇぐらいのな」
「だったらなおさら、放っておくべきじゃないでしょう」
「んじゃあ調べてみるか?」
待ったをかけながら挑発している。有無を言わせない厳しさを込めながらも、のらりくらりとした矛盾溢れる長嶋の言葉に首を捻ってしまう。
話の中心の青年は、とっくに署を出て車を走らせているだろう。その腹の中でどんな一物を隠しているのか。やはり気になって仕方がない。
「調べて……みます」
「そおか。なら、深入りはしすぎるなよ。下手したらおめぇ、死ぬかもしれねぇぞ」
真剣な面持ちで頷けば、長嶋が笑った。
それを間近で見た横山の脳裏には、早くに亡くした父親が過ぎる。
「ま、そん時は、大手を振って面の皮を剥げるんだ。無駄死にはなんねぇから、安心して成仏しろ」
果たして、心配しているのかそうでないのか。気になったのは、まるで以前に動いたことがある口振りだったこと。
不真面目さが際立つ態度をしているが、誰よりも顔が広く仲間からの信頼も厚かった人情溢れる刑事が長嶋という男である。口ごたえしながらも、横山は誰よりも尊敬の念を抱いている。根がどんなに腐った輩とも正面から向き合ってきた、そんな人間がもてあます青年には純粋な興味も尽きない。
「鬼が出るか蛇が出るか」
煙草を咥え喫煙室へと向かう道すがらの呟きは不吉極まりなかったが、そんな彼らとは違って件の探偵は暢気そのもの。騒ぐ司の相手を楽しんでいた。
タクトが窮地に立たされるのは、殴られて出来た痣がすっかり消え、太陽が燦然と輝き出す青々とした季節が訪れる頃だった。彼の前に一人の女性が現れたことで、消したはずのホストとしての面影が再び顔を出す。
交わった汗の量だけ、そこには艶かしい欲望が渦巻いていた。




