貧血
いつからか心の中で波紋が広がり、世界の見え方に変化が生じた。一つ一つはとても小さなもので気付くのには時間が掛かったが、十分に積み重なったそれらは最早、本人ですら手におえない厄介なものへと成長している。
前原の依頼を終えて以降、タクトはとうとう自分がどうしたいのか分からなくなってしまい、陽の光に当たる時間は激減していた。
それでも普段ならば気分屋な性格ゆえ、連絡がつかないことなど日常茶飯事だが、あまりに無節操な行動はすぐに周囲の耳に入ってしまう。
心配になった司は、仕事上りに事務所を訪ねた。そして、寝室ではなくソファーで横になり微動だにしないタクトを見て、不安を消すように頭を掻いてから呟く。
「荒れてんなぁ……」
タクトの姿はその一言に尽きた。
伏せられた目の下には薄っすらと隈が浮び、ただでさえ白い肌は病的な青さを帯びている。司からすれば今でも十分綺麗な事務所も、普段を考えればどこか埃っぽい。
さらに司の鼻は、彼が日常で嗅ぎなれている匂いを敏感に感じ取る。タクトからは、酒と女の残り香が強くしていた。何種類も混じり合い、爽やかだったはずの事務所を汚している。
麗華は子供ではないのだから放っておけと言っていたが、見に来てよかったとその様子に思う。さらに、矛盾するが安堵もする。タクトがここまで表面に心を映すのは、少なくともこの街では初めてだろう。今まで一度も見た事がない。そもそも司は、出来るとすら思っていなかった。
付き合いがそれなりに長い人間であれば、辛うじての変化で察することはできるが、今の状態は初対面でも荒れていると分かるのだ。らしくない。
「タクト、生きてるかぁ?」
声をかけると、ブラインドの隙間から差し込む光に照らされていた寝顔が歪んだ。
タクトは始め、ソファーの背もたれ越しに覗き込んでくる司が分からず小さく唸っていたが、数度繰り返したことでやっと重い目蓋が持ち上がる。普段とはまるで立場が正反対だ。
司は楽しくなりながら、水を用意してやりテーブルに置いた。
「マネージャーからの伝言。遊び歩くぐらいなら、店に出ろだと。営業妨害するんじゃねーってよ」
「……別に、そんなつもりは」
「お前にそのつもりが無くても、周りがほっとかないだろ。とりあえず、水飲め。そしたらシャワー浴びてこい。部屋換気するぞ?」
か細い声は司が居ることに困惑しているらしく、水の入ったペットボトルを取る手は覚束ない。窓を開けてから、あまりの弱々しさで思わず慰めるように頭を撫でてしまうと、タクトは口元に手を当てて暫し静止してしまった。
大丈夫かと覗き込めば、さっきよりさらに顔が青い。
「吐くか?」
手の下で首が横に動き、ゆっくりと酒臭い息が吐き出された。
タクトが酒に弱いと知っている人は少ない。酔い過ぎると記憶を無くすことに至っては、おそらく司しか把握していないだろう。それでも長嶋の厄介にならないのだけは変わらず、なんとなくずるいと思ってしまった。
「目……、覚ましてきます」
「おー。三十分過ぎたら様子見に行くからな」
片手は口元を押さえたまま、支えなくして歩けない状態で、タクトはなんとか事務所の奥へと進んでいった。
ひどい有様でも普段が普段なのだから、むしろ人間臭くて安心できると思ってしまうのは薄情なのだろうか。左右に揺れる後ろ姿に司は苦笑した。
「にしても、一体何があったんだか」
見当を付けようにも、周りが思っているほど何もかもを曝け出す親密な間柄ではないので悩んでも無駄だ。そう考え、疲れと睡魔に気付かないふりをして、司は独りごちながら一度事務所を出る。
タクトがすっきりした表情でシャワーを浴び終え出てきたのは、コンビニの袋片手に戻ってきた時だった。
「帰ったのかと思いました」
「さすがにそれはないだろ」
人の心配など知った事ではないとでもいう様な減らず口に脱力する。さきほどのやつれ具合はどこへいったのか。
しかし、あまりのマイペースさで苛立ち混じりに頭を叩けば、険しい表情を浮かべかけて顔を逸らし、右手はとっさに持ち上がっている。強がりというよりは癖なのだろう。
ただ、さすがのタクトも二日酔いの気持ちの悪さは隠しきれなかったらしい。
「どんだけ呑んだんだよ」
「分かんないです……。起きたら、知らない人の家で」
「おいおい。そんなこと繰り返してたら、来年ぐらいにえらい目合うぞ」
身体が温まったおかげか、装わずとも良くなったのは顔色だけのようだ。重い溜息と共にソファーに腰を下ろせば、向かい側に司が座りながらコンビニ袋から栄養ドリンクを渡してくれる。
それを受け取り豪快に空けると、背もたれに沿ってゆっくり身体を横にしながらタクトが辛うじて笑う。
「僕がヘマをするわけないでしょう?」
「お前がそう言うならそうなんだろうけどな。それにしても、記憶無いのにえらい自信だな」
「顔が広いと色々融通が利きますからね、方法はいくらでも。司さんだって大して変わらないくせに」
モラルに反したことを至極当然に語り、二人は揃って肩を竦めた。
「で? その有様の原因は?」
そうして、部屋の主の荒んだ心情に比べ幾分和やかな雰囲気が流れかけていたのだが、司が尋ねた途端タクトから表情が消えた。
倒した身体をゆっくりと逆再生しているかのような動きで起こし、拒絶を多分に含んだ眼で射る。
けれどもそれで引き下がる相手ならば、司はとっくに過去に埋もれているだろう。跳ね返ってきた視線は、まるで煙草のように苦々しい。
成分が純粋なお節介のみでないのが余計に煩わしかった。
「別に……。僕だってたまには羽目を外すことだってありますよ」
「本当にそうなら、俺が来ないことだって分かってるだろ? それが通用するのは麗華ぐらいだ」
「どうしてそこで麗華さんが出てくるんですか」
「お前らがお互いに甘いからだよ。ったく……。あのなぁ、今のお前の状態は自暴自棄ってんだ。そんなもののとばっちりを受けるこっちの身にもなれ」
言わずとも心当たりがあるのか、タクトは司の言葉を舌打ちで返し、二人を挟むテーブルが大きく揺れる。振動によってペットボトルが倒れて水が零れ、栄養ドリンクの空のビンが音をたてた。タクトが脚を蹴ったのだ。
この乱暴な行動に、司は内心ギョッとした。まさか八つ当たりで敵意を向けられるとは思わなかったからだ。
そしてそれは、タクトがそれほどに切羽詰っていることを意味していた。
気まぐれではあるが冷静で、底知れない男をそこまで追い詰めるものとは果たして何なのか。考えようにも、それが過去に関係しているだろうことから先へ踏み込む権利を、司は有していない。名前も歳も、何から何まで嘘と決めつけられない程度には関係を持ち、本当だと無条件に信じるには深くもない。
しかし、出来るならば浅い関係の一言で片付けたくはなかった。
「悪い、言葉が足りなかった」
「いえ……。僕こそすいません」
普段はおちゃらけている司だが、彼の長所は素直なところにある。はばかることなく告げられた謝罪に、タクトの方がバツが悪そうに顔を逸らす。
これで一応は空気が落ち着いたかに思えた。
しかし、話が終わったわけではない。今回ばかりは司も引くに引けない理由があった。
「俺もマネージャーも、これでも心配してんだ。今までは、あくまでお前が夜の街から離れたから静かだった。けど、今のお前はどうだ。探偵と名乗れることをしてんのか?」
「つまりは、昔の客がソワレに行かないよう気をつければ良いってことですね」
そして、タクトの言葉で再び剣呑な雰囲気へと戻る。売り言葉に買い言葉ではなく、本心で言っているのだから余計に不味かった。
頼りがいはある司だが、如何せん気が短いのが欠点だ。普段から自分を顧みない言動が気に食わなかったのだから耐えられるはずもない。
またしてもテーブルが激しく揺れる。言わずもがな、今度の犯人は、日本に点在する街の一つで夜の王として生きる男だ。
「いま俺、心配してるっつったよな? それとも何か、お前は俺がたかが客の一人もあしらえないって言ってんのか?」
「……また突拍子もなくキレないで下さい」
衝撃に耐えかね、ペットボトルとビンのどちらもが床を転がる。それを眼で追うに留めたタクトが深々と息を吐くと、逞しい腕が胸元を捉え身体が浮いた。
他人と顔を近付けることは多々あれど、今のような状況は嬉しくないと暢気なことを考えられる程度にはタクトも冷静さを取り戻したかに思えたが、単純に開き直っているだけだった。気が立った司の宥め役を普段は請け負っている分、段々と収集がつかなくなり始めている。
他で頼れるとすればソワレのマネージャーなのだが、残念ながら彼がこの場に居るわけではない。
「気にせずとも、店には行かないようちゃんと言い包めてありますよ。僕が辞めてから一度だって迷惑はかけてないはずですけど」
「お前の前に現れない保障はねぇだろ。今みたいにフラフラしてると、直ぐ広まるのがわかんねぇのか」
「そうだとしても、それで司さんに問題が?」
これで煽っているわけではないのだから性質が悪い。
女と連日遊び歩いているだけでもらしくないが、さらに見境が無くなっている今、あわよくばと再び元客の誰かが訪ねて来でもすれば、ざらつくタクトはきっと断らないだろう。
しかし、ホスト時代の客は、本当に癖が強い女性ばかりだった。執着心もだ。そもそも、もう仕事でも何でもないのだから、手を出せば関係に対する境界線は限りなく曖昧となる。
だから司は心配しており、マネージャーも諸手を挙げて出戻りを了承していた。
だというのにこの態度。分からず屋で済めばいいが、タクトの場合は分かろうとすらしていない。
「まさか不誠実だとでも言うんですか? それとも不純?」
「自分を安売りすんなっつってんだよ!」
思わず怒鳴ってしまうと、涼しげな瞳が丸く回転した。
けれど、今まで何度も綺麗な色だと思ってきたそれも、この時ばかりは違う。まるで溝のようにどこかどんよりと濁っている。
本当に、一体何があったのかと愕然としている司の前で、するとタクトは突然肩を震わせた。
「司さんって、王さまっていうより王子さまですよね。見た目は暴君さながらですけど」
「あ?」
馬鹿にしていると感じる言葉は、それでも淀む瞳よりは何倍もあどけない響きを持っている。
しかし、怪訝な表情を浮かべる司の前で一頻り笑ったタクトが、幾度となく女を魅了してきた唇を次に開いた時、零れ出たのは劣情以外の何ものでもなかった。
そこに居たのは自由気侭に日々を送る探偵でも、ましてや夢を見せるホストでもなく。誰も知る者が居ない、妖しく不透明な一人の青年だった。
「使えるものを僕は使ってきただけですよ。それしか無かったから」
「後先考えろって今の話をしてんだよ。何に悩んでるのかしんねぇけど、逃げに女を使うな」
「悩んで……? 違います。汚れたいだけですよ、僕」
司が心配してくれていると気付かないはずがないというのに、タクトが彼らしく穏やかな笑みを浮かべることはない。それどころか、あろうことか真っ直ぐに向き合ってくれている友人に対し、驚くべき行動を取る。
タクトは胸倉を掴まれていることを気にも留めず、ゆっくりと両手を司の首に回した。
そして、これまで何度も多くの女へそうしてきたように、艶やかな熱を浮かべようとする。
ただ、司にとってはそれこそが泣き顔に見えた。迷子になって途方に暮れている。そう思えて仕方なかった。
「タクト、お前……」
訳ありな奴など、周囲にゴロゴロと転がっている。何も語らない以上、タクトもその中の一人としての認識を初めから持って関わってきたつもりだ。けれど、こうしていざ何も知らなかったことを突きつけられた時、悔しく思う自分に司は驚く。
そして何より、今までで一番腹が立った。屈折した願いそのものではなく、気にかけている相手まで同じ枠で見るその無関心さに。
タクトの薄い唇が目指した場所へ到達するより早く、彼はソファーに強かぶつかっていた。
「っ――! いって」
「そんなに汚れてぇなら、泥の中でも転がってろ!」
しなだれようとしていた身体は喧嘩慣れした拳によって簡単に離れ、口元からは薄っすらと血が滲む。タクトが痛みに呻いていれば、テーブルを踏み越えてきた司が馬乗りの形で再び胸倉を掴み、怒声を発した。
怯むことなく「そんな意味じゃないんですけど……」と、そんなことをのたまう神経は相当図太い。が、それは今の司に拍車をかけるだけだ。
「女を抱こうが、男と寝ようがかまわねぇけどな、何様だお前。自分がお綺麗で、俺は汚ねぇって?」
「誰もそこまで言ってないでしょう」
「同じ意味だろうが! でも、確かにそうかもな。お前は自分の事を、お人形か何かと勘違いしてんだろ?」
そして司も、さざ波に似た一見穏やかさが目立つ不明瞭な内側を、飾らない言葉で見事に乱れさせる。
淀んでいた目に鋭さが宿り、細く長い指は力強く対抗を示す。
一度も流れたことのない雰囲気が、物静かな事務所を支配していった。
「じゃあどうしろって? 自分が汚れる以外で僕をこんな風にしたあの人を、どう綺麗に出来るって言うんだよ!」
それはまるで悲鳴のようだった。司への言葉というより、自身に向けているように思える。
口元を赤くし険しい顔をするタクトは、どうしてかとても幼く司の目に映った。
「どれだけ従順でも、結局は捨てられてばかりなのに!」
生立ちも何も知らないせいで、微塵も言葉の意味を理解してはやれない。
当たり前に受け取れば、失恋から立ち直れないだけにも聞こえるが、そこは様々な人間を見てきている司だ。そうでないことは明らかだった。
「なのに、どうして。どうして彼女を、恨めないんだ……」
ズルリとタクトの指が司の服から離れ、身体がゆっくりとソファーに落ちる。司の腕からも力が抜けていた。
掛ける言葉も返す文句も見当たらない。「一人にしてください」タクトは弱々しく、絶句する司へ言った。
「……勝手にしろ!」
軋む扉は思いの外静かに閉まり、遠ざかっていく足音は古びたビル中に響き渡る。二人の男が言い争ったにしてはそれほど荒れなかった室内から生まれるすすり泣きは、それに隠れて誰に届くこともなかった。




