21 帰る場所
オフィーリアが真っ直ぐに向かったのは、礼拝堂だった
そこは普段とは異なる飾り付けがなされ、気後れを感じる様な厳かな雰囲気を纏っている。
きっと、もうすぐ開かれる式典にはこの全ての蝋燭に火が灯され、その揺らめく明りで聖堂を幻想的に彩るのだろう。
何百もの蝋燭が、じっとその時を待っている。しかし、いまはオフィーリアを見守るように沈黙を守っている。
それらに囲まれるように、オフィーリアの目当ての人はいた。
「ジネット様」
静かな室内に、オフィーリアの声は思ったよりもあざやかに響いた。
しかし、ジネットはまるでオフィーリアを待っていたかのように、全く驚きもせずに振り向く。
「オフィーリア」
確認するように、ジネットは囁く。
「迷いが、消えたのね」
オフィーリアは頷いた。
「一度諦めようと思った場所だったんですけど。…でも、やっぱり諦めきれなかったみたいです。未練たらしくても、辛い未来があるとしても、それでも良いと思ってしまいました」
オフィーリアは少し恥じ入るように、小さく笑った。
「だから、わたし行きます」
黙って聞いていたジネットは、オフィーリアが口を閉じてから、ゆっくりと微笑んだ。
「知っていましたよ。貴女が、ずっとここに居る人ではないということ。きっとここは、貴女の居場所じゃない」
居場所じゃない。その言葉に距離を隔てられた気がして、オフィーリアは少し俯いた。
その様子に、ジネットは珍しくも慌てたように言葉を継ぐ。
「悪い意味じゃないのよ。…ああ、言葉って不便なものですね。全部の気持ちが伝わらない。貴女が幸せを受け取れる場所は、もうずっと前から一つに決まっていたのだわ」
ここでも、オフィーリアは幸せだった。でも、残りの人生を消化しているだけのような根の無い生活は、まるで心の一部を殺しているような空虚感を伴ってもいた。
痛みを感じる心を閉じることで訪れる、虚しいほどの安寧。
「行きなさい。その道があなたの進みたいものならば、私は何よりも応援しますよ」
そして、胸の前で両手を組み合わせ、祈りを口にする。
「貴女の進む道に、いつも光があらんことを」
そこでジネットは、そうそう、と思い出したように呟き「お遣いをありがとう、オフィーリア。とても助かったわ。今年はあなたがいてくれてよかった」と言いながら、ゆっくり近づいてきて彼女の頬を両手でそっと包んだ。
***
オフィーリアは胸の奥に広がるじんわりとした温もりを散らさないように、ゆっくりと部屋への道を辿る。
今は、他の修道女たちの所へ行って、溌剌とした彼女たちとうまく会話をする自信がない。
さくさくとする草の音を確かめるように歩いていると、この一か月で聞き知った声が彼女を呼び止めた。
「オフィーリア…」
オフィーリアは、振り向いた先にある影の名を呼ぶ。
「オリバー」
「聞いたよ。噂になってる。外の人が訪ねてきたって……君を迎えに来たんだろ?」
迎えに。
そう、彼はオフィーリアを迎えに来る、そのためだけに過労で倒れるほど無理をしてここまで馬を駆ってやってきた。
「…ええ」
「行くのか」
「ええ」
迷いなど見せないように頷く彼女を見て、オリバーは苦くて甘いものを噛んだような笑みを浮かべた。
「馬鹿だなあ。あんたが逃げ出すほど不安になるような男の許に行くなんて」
「違うのよ、オリバー…」
オリバーは眉を下げ、少しだけ悲しそうな顔をして、オフィーリアの言葉を遮るように、言葉を継ぐ。
「でも、自分でも驚くけど。俺の許に残れって言えるほどの自信は、全く沸いてこないんだ。全然、違うんだもんな」
オフィーリアの何が?という思考が顔に出たのか、オリバーは口の端をあげ、もういつものおどける様な表情を浮かべてから言った。
「あんたの顔」
何か言わなきゃ、と言葉を選び損ねた隙に、オリバーは猫背になるように背を丸め、顔をすっと近づけて、オフィーリアの額に唇を降らせた。
「幸せになりな」
滲むような余韻を残して、彼はさっと背を向けた。
その後ろ姿を見て、オフィーリアは瞬間的に、不安なほどの寂しさを感じる。
ハインセウムの屋敷はここから近くは無い。
二つから一つを選ぶときの、嬉しさに伴う喪失感を、ずっしりと噛みしめる。
歩くのが早い彼の背中を追いかけるように、オフィーリアは言葉をかけた。
「オリバー、ありがとう。わたし、ここで暮らせて幸せだった」
声は、叫ぶほどに大きくは無かった。オリバーもなにも聞こえた風もなく、歩みを止めることはなかった。
でも、彼は屹度聞いている。聞いて、受け止めてくれただろう。
オリバーの背に、オフィーリアは名残惜しさは感じなかった。
むしろ今までオフィーリアが見ていなかった、オリバーの新たな一面であるような気さえする。
しばらくその見慣れぬ背を見つめ、扉に消えたところで、オフィーリアはようやく踵を返した。
***
扉を小さくノックをしたが返事はない。
さっき部屋を出てからそんなに長い時間は経っていない。きっとまだ彼は寝ているのだろうと思い、勝手に扉を開いて彼の姿を確認しようとベットに視線を向けたが、あるのは僅かに乱れた寝具のみで、彼の姿はそこになかった。
オフィーリアは、あれ、と思う間もなく、頬杖をついて外を見ているアルフォースの姿を窓の隣に置いてある椅子に見出す。
オフィーリアの存在に気付いていないはずは無いのに、ぼんやりと外を見る様子は寝起きなようにも見える。
何を見ているのか視線を辿ると。
あ、と思った。
そこから、さっきオフィーリアがオリバーと話していた場所は丸見えだった。
見ていたのだろうか。でも。見ていたとして、一体彼は何を思っているのだろう。
「……ええと、アルフォース様?」
「僕は、割と狭量なんだ」
こちらを見ないまま、アルフォースは応じた。
「あまり不安にさせないでくれ」
少しだけふてくされたような雰囲気を纏う彼に、オフィーリアはこういうとき、どうしたらいいのかと悩みながら首を傾げた。
「不安、ですか」
真っ直ぐに顔をこちらに向けたその顔が僅かに決まりが悪そうで、オフィーリアはほっと息を吐いた。
「ごめん。君を信用してないわけではないよ。だから、あいつは誰だとか問い詰めるようなことはしたくない。ただ、ずっと長い間共にいたのに、君の全てを知っているわけではないことを思い知って。…少し、面白くないだけだ」
「知らないのは、当り前ですよ……あ、と、ちなみに、あの人はここにきて最初にできた『友達』です。とっても、優しい人で。危なっかしいわたしを心配してくれているんです」
アルフォースはそうか、と頷きながら、オフィーリアから目をはずして再び外を見据えた。
「この一カ月だけで、僕の知らないことは山のようにあるんだろうな」
アルフォースが自身の知らないオフィーリアのことを歯がゆく思うというのなら、むしろオフィーリアの方が知らないことは多いに違いない。
オフィーリアの心に、エルクスとエルノーラの顔が気泡のようにぷかりと浮かんだ。
「…そうかもしれませんね。でもお互い様です」
オフィーリアはそこで勇気を振り絞って続けた。
「わたしも、その、面白くないですし。…知らない貴方のことを、知りたい、です」
言葉のぶつ切り具合が顕著にオフィーリアの気持ちを吐露している。
使用人には許されない言葉。オフィーリアが自らアルフォースに手を伸ばした最初の一言だった。しかし、何が、とまでは言えない。
言った後にじわじわと紅に染まる顔を隠すように背けると、アルフォースは一瞬ぽかんとし、破顔した。
「そうだな、先はまだ長い」
そういって、アルフォースはオフィーリアに手を差し伸べた。
その手に応えるように、おずおずと伸ばした手は、直ぐに大きな手に捕まる。
「手の届く範囲に君が居て、そうやってこちらに手を差し伸べてくれるなら、こんなに嬉しいことは無い」
しっかりと掴んだ手を、その唇に持ってきながら、彼は約束をもう一つ口にする。
「夫として君に見合う男となるように努力するよ」
嬉しそうに呟かれるその声に、また泣きそうななほどの眩暈がした。
しかし、その閉じた瞼の裏で、美しい女の人の笑みがちかりと光る。
相変わらず、思考の表面を漂うそれは、しかし気泡のように消えてはくれない。
でも、彼はオフィーリアへの気持ちを唯一の恋だと言った。
そして、オフィーリアは彼の言葉だけが自分にとっての真実だと心に決めた。
だから、今は、まだいい。いまはこれでいっぱいいっぱいなのだ。
こんな雰囲気での触れ合いに慣れないオフィーリアがそっと手を引こうとしても、その手はなかなか自分のもとには帰ってこない。
その掌の温かさを感じながら、オフィーリアは、勝手に心に不安を飼うのは筋違いだと自分に囁く。