第9話 十年
九日目の朝のことは、よく覚えていない。
覚えているのは、身体がひどく熱かったことと、それなのにひどく寒かったことだけだ。藁の上で丸くなって、歯の根が合わないほど震えながら、わたしは何度も眠りに落ちては目を覚ました。
そのたびに、夢を見た。
林檎の木の下の夢だった。
白い花。陽だまりの匂い。塀の上から顔を出す、黒い髪の男の子。
夢の中のあの子は、何度も何度もわたしの名前を呼んでくれた。リシェル、いる? リシェル、今日はね。リシェル、泣くなよ。
わたしは夢の中で、何度もあの子に手を伸ばした。
けれど指先が届く寸前で、あの子はいつも塀の向こうへ消えてしまう。
待って。
行かないで。
置いていかないで――。
からん、という音で目が覚めた。
ぼんやりと霞む視界の中に、ランプの明かりがあった。
鉄扉が開いている。牢の中に、誰かがしゃがみこんでいる。淡い藤色のドレスの裾が、湿った床に広がっていた。
「……お、かあ、さま……?」
「あら、起きたの」
お母さまが顔を上げた。
その手には、白い手袋の上に、いくつもの青黒い石が載っていた。
わたしは何が起きているのか分からなかった。
どうしてお母さまがここにいるのだろう。どうしてあんなにたくさんの石を持っているのだろう。わたしは泣いていない。泣かないと決めて、ずっと――。
そこまで考えたとき、頬に冷たい感触があることに気がついた。
指で触れてみる。
濡れてはいなかった。けれど頬から顎にかけて、何かが伝い落ちていった跡のような、かすかなざらつきが残っていた。
わたしの枕元の藁の上にも、床の上にも、青黒い粒がいくつも散らばっていた。
「ドルフがね、知らせに来てくれたのよ。あなたが眠りながら泣いているって」
お母さまは床の石をひとつ拾い上げて、ランプの明かりにかざした。
「起きているときはあんなに強情なのに、夢の中ではずいぶん素直なのね」
お母さまは、心から嬉しそうに笑った。
あの日と同じ、うっとりとした笑顔で。
「十九粒。この前よりも多いわ。色もいい。とても深くて、きれいな青」
わたしは声が出なかった。
喉が、ひゅう、と細く鳴っただけだった。
夢の中で、わたしは泣いていたのだ。
あの子に置いていかれる夢を見て。
あの子の名前も知らないまま、何度も何度も手を伸ばして、そのたびに届かなくて。
その涙が、全部、石になった。
あの子を想ってこぼした涙が、全部。
「……かえして」
かすれた声が漏れた。
「なあに?」
「かえして、ください……それは、それだけは……」
わたしは床に這いつくばって、お母さまの手に向かって腕を伸ばした。
けれど身体がまるで言うことを聞かなかった。腕は途中で力を失って、湿った石の上にぱたりと落ちた。
お母さまは、わたしの伸ばした手を不思議そうに見下ろした。
「返して? おかしな子ね。これはあなたのものじゃないでしょう」
お母さまは手のひらの石を、布の上に丁寧に並べはじめた。
「あなたの涙は、ヴァレンティアの家のものよ。あなたが生まれたときから、ずっとそう決まっているの」
一粒、また一粒と、石が布の上に並んでいく。
わたしはそれを、床に頬をつけたまま見ていた。
あの粒のひとつは、あの子が花冠を載せてくれた日の涙かもしれない。あのひとつは、焼き菓子を半分こした日の涙かもしれない。あのひとつは、塀の上から「泣くなよ」と叫んだあの子の背中を想った涙かもしれない。
それが全部、布にくるまれて、どこかへ運ばれていく。
金貨百枚の値段をつけられて。
知らない誰かのお屋敷になって、知らない誰かの首飾りになって。
「ねえ、リシェル」
お母さまは布の包みを胸に抱いて、立ち上がった。
「どんな夢を見ていたの?」
わたしは答えなかった。
「まあいいわ。何の夢だって構わないもの」
お母さまはやさしく微笑んだ。
「その夢、また見てちょうだいね。毎晩でもいいのよ」
◇ ◇ ◇
その日の昼、差し入れ口から盆が押しこまれてきた。
温かいスープと、柔らかいパンと、林檎がひとつ。
「奥様がな、よく頑張ったってよ」
ドルフさんはそう言って、少しだけ気まずそうに差し入れ口を閉めた。
わたしはしばらく、その盆を見つめていた。
食べたくなかった。
これは、あの子の夢と引き換えにもらったものだ。あの子を想って流した涙が、このスープとパンと林檎に変わったのだ。
でも、お腹は正直だった。
スープの匂いが鼻に届いた瞬間、空っぽの胃がねじれるように痛んだ。手が勝手に伸びて、椀を抱えて、わたしは気がつくとスープを喉に流しこんでいた。
温かかった。
身体の芯まで、しみわたるほど温かかった。
わたしはパンをちぎって口に運びながら、ぼろぼろと泣いていた。
頬を伝う涙が、途中で冷たく固くなって、膝の上に、盆の上に、からん、からんと落ちていく。
止められなかった。
止める力も、もう残っていなかった。
――泣くなよ。約束だからな。
塀の上から叫んだあの子の声が、耳の奥で響いた。
ごめんね。
ごめんね。守れなくて。
わたしは泣きながら、パンを食べた。
食べながら、泣き続けた。
◇ ◇ ◇
その夜、わたしは長いこと眠れなかった。
藁の上に横になって、格子窓の向こうの暗い空を見上げていた。
胸元のボタンを、服の上から握る。
いつもなら、そうしていると少しだけ心が落ち着いた。あの子のことを思い出して、あの日の約束を胸の中で繰り返して、それでどうにか夜を越えてきた。
でも、今夜は違った。
ボタンに触れるたびに、あの子の顔が浮かぶ。あの子の声が聞こえる。
そうすると、胸の奥がきゅうっと締めつけられて、目の奥が熱くなる。
――また、泣いてしまう。
今泣いたら、その涙もまた石になる。明日の朝ドルフさんが見つけて、お母さまのところへ運んでいく。お母さまはそれを光にかざして、うっとりと笑うのだ。
「その夢、また見てちょうだいね」
お母さまの声がよみがえって、わたしは身体を硬くした。
あの子を想えば想うほど、わたしは泣いてしまう。
泣けば泣くほど、あの子の思い出は石になって、売られていく。
だとしたら。
わたしがあの子のことを大切に思い続けるかぎり、わたしはあの子を、少しずつ、少しずつ、この家の人たちに売り渡していることになるのだろうか。
そんなの、いやだった。
何よりも、いやだった。
わたしは目を閉じて、長いあいだ考えていた。
どうすれば、あの子を守れるのだろう。
どうすれば、あの子のことを想っても泣かずにいられるのだろう。
考えて、考えて、考えて。
やがて、ひとつの答えにたどり着いた。
それはとても簡単で、とても冷たい答えだった。
――あの子のことを、もう待たなければいい。
待っているから、苦しいのだ。
信じているから、来ない日々が痛いのだ。
痛いから、泣いてしまうのだ。
だったら、最初から何もなかったことにすればいい。
あの子なんて、本当はいなかった。
あの春の庭も、花冠も、焼き菓子も、ボタンをくれた日のことも、塀の上の約束も。
全部、ひとりぼっちの女の子が見た、都合のいい夢だったのだと。
そう思ってしまえば、もう待たなくていい。
待たなければ、もう泣かなくていい。
◇ ◇ ◇
それから、季節がいくつも過ぎていった。
わたしは、それを格子窓の光の色で知った。
光が白くまぶしくなって、牢の中までむっとした熱気がこもるようになった頃。わたしはまた泣くことを求められて、何度か泣いて、何度かは泣かずに耐えて、そのたびに食事をもらったり、取り上げられたりした。
光が少しずつ黄色みを帯びて、格子窓の外から乾いた葉の匂いが流れこんでくるようになった頃。ドルフさんが差し入れ口の向こうで、誰かと話している声が聞こえた。
「帝都の若い皇帝がな、また貴族の首をはねたらしい。今度は南の伯爵家だとよ」
「おっかねえ話だ。血も涙もねえってのは、ああいうのを言うんだろうな」
「うちの旦那様も、せいぜい目をつけられねえようにしてもらわなきゃな」
皇帝。
この国に、そういう人がいることは知っていた。けれどそれは格子窓の外の、ずっとずっと遠い世界の話で、わたしには何の関係もないことだった。
わたしは藁の上で膝を抱えたまま、ぼんやりとその声を聞き流した。
やがて光が鈍い灰色になって、格子窓の外を白いものがひらひらと舞いはじめた。
雪だった。
わたしは冷たい石の床に座って、手のひらほどの小さな窓から降ってくる雪を、長いこと見上げていた。
夢は、まだときどき見た。
林檎の木の下の夢。白い花の夢。塀の上から顔を出す、黒い髪の男の子の夢。
そのたびにわたしは、目が覚めると同時に自分に言い聞かせた。
――あれは、夢。
――ただの夢。
――本当には、何もなかった。
そう言い聞かせているうちに、少しずつ、本当にそんな気がしてきた。
あの子の顔が、前よりもっとぼやけてきた。
あの子の声が、前よりもっと遠くなった。
あの日の約束の言葉さえ、ときどき、本当にあの子が言ったのか、それともわたしが勝手に作り上げたものなのか、分からなくなる夜があった。
それでいいのだと思った。
そうやって少しずつ忘れていけば、いつかはあの子のことで泣かなくなる。
あの子の思い出を、この家の人たちに売らずに済む。
ただ、ボタンだけは、どうしても手放せなかった。
何度か、捨ててしまおうと思ったことがある。
格子窓の外に放り投げてしまえば、もう二度と思い出さずに済むかもしれない。この牢の床の割れ目に押しこんでしまえば、もう二度と指先でなぞらずに済むかもしれない。
でも、そのたびに、手が止まった。
冷たい銀の感触を手のひらに感じると、胸の奥がきゅうっと痛んで、どうしても指が開かなかった。
夢だったのなら、どうしてこのボタンはここにあるのだろう。
そんなことを考えそうになるたびに、わたしは慌てて首を振った。
拾ったのだ。
きっと、どこかで拾ったのだ。庭の草むらに落ちていたのを、小さかったわたしが勝手に宝物にしただけなのだ。
そういうことにしておこう。
そういうことにしておけば、もう痛くない。
◇ ◇ ◇
また、格子窓の光が明るくなりはじめた。
牢の中の空気が、ほんの少しだけ柔らかくなる。どこか遠くで、鳥が鳴いている。
春が来たのだと、わたしは思った。
指を折って数えてみる。
七つの春に、あの子と出会った。
あの春から数えて、これで――十回目の春だった。
十年。
十年、待った。
十年のあいだ、塀の向こうから誰かが顔を出すことはなかった。鉄扉を開けて、わたしの名前を呼んでくれる人は一人もいなかった。
わたしは胸元のボタンを、服の上からそっと握った。
そして、誰もいない牢の中で、静かに声に出して言った。
「――あれは、夢だった」
言葉は、湿った石の壁に吸いこまれて、すぐに消えた。
胸の奥は、思っていたよりも静かだった。
痛くないわけではなかった。でも、その痛みはもう、涙になるほど鋭くはなかった。
ずっと遠くで、古い傷がかすかに疼いているような、そんな痛みだった。
わたしは目を閉じた。
瞼の裏に、林檎の木が浮かびかけて――わたしはそれを、そっと暗闇の中へ押し戻した。
もう、待たない。
もう、信じない。
あの春の庭は、ひとりぼっちの女の子が見た、ただの夢。
そう決めた十回目の春の夜、わたしは久しぶりに、何の夢も見ずに眠った。
胸元で握りしめた、小さな銀のボタンだけを残して。




