第10話 血も涙もない皇帝
その日、帝都ヴェルディアの大通りは朝から人で埋め尽くされていた。
石畳の両側にびっしりと人垣ができ、建物の窓という窓から人々が身を乗り出している。屋根の上にまでよじ登った子どもたちが、通りの向こうを指さしては何かを叫んでいた。
けれど、そこに祭りのような浮かれた空気はなかった。
誰もが声をひそめ、互いの顔色をうかがうようにして、ただ通りの向こうを見つめている。
「本当に、一晩で全員だったのかい」
パン屋の軒先で、粉まみれの前掛けをした女が隣の男に囁いた。
「ああ。西の辺境で兵を挙げた貴族ども、四十二人。捕らえたその夜のうちに、ひとり残らず首をはねたってよ」
「裁判もなしに?」
「陛下がその場で裁いたんだと。反逆の証拠は揃っている、これ以上の審問は要らない、ってな」
女はぶるりと身を震わせた。
「おっかないねえ」
「おっかねえさ。だがな、あの反乱を放っておいたら、今頃は西の村がいくつ焼かれてたか分からねえ。半月で片をつけたんだ。俺たち下々にとっちゃ、ありがたい話でもある」
「それはそうだけどさ……」
女は言葉を濁した。
ありがたい、と口では言える。けれどそれを心から言い切ることは、誰にもできなかった。
やがて、通りの向こうから蹄の音が響いてきた。
ざわめきが、すうっと引いていく。
先頭を進んでくるのは、黒い鎧に身を包んだ騎兵の列だった。掲げられた旗も黒い。漆黒の地に、銀の糸で交差する二振りの剣と帝冠が刺繍されている。
帝国皇家の紋章だった。
騎兵の列のあとに、ひときわ大きな黒馬が一頭、ゆっくりと進んできた。
その背に跨っている人を見た瞬間、人垣のあちこちで息を呑む音がした。
若い男だった。
二十をいくつか過ぎたばかりの、まだ青年と呼んでもいい年頃。黒い髪を短く刈りこみ、飾り気のない黒の軍装に身を包んでいる。整った顔立ちをしていたが、その顔には何の表情も浮かんでいなかった。
喜びも、誇らしさも、疲れさえも。
凱旋の行列の先頭にいながら、彼はまるで葬列を率いているかのように、ただまっすぐに前だけを見ていた。
「……あれが、皇帝陛下」
「アルフレッド陛下だ」
「目を合わせるんじゃないよ。目をつけられたら、ろくなことにならない」
人々は口々に囁きあいながら、それでも目をそらすことができずに、黒馬の上の青年を見つめていた。
屋根の上の子どもがひとり、母親に向かって大きな声で尋ねた。
「ねえ母ちゃん、あのひとが《黒鋼帝》?」
「しっ! 黙りなさい!」
母親が慌てて子どもの口を塞ぐ。
黒馬の上の青年は、その声のほうを振り向きもしなかった。
まるで何も聞こえていないかのように。
あるいは、聞こえていても、それが何の意味も持たないかのように。
◇ ◇ ◇
《黒鋼帝》。
あるいは、「血も涙もない皇帝」。
若き皇帝アルフレッドがそう呼ばれるようになったのは、彼が玉座についてすぐのことだった。
先帝の崩御ののち、帝国は長い内乱の時代を迎えた。皇位を簒奪した先帝の弟と、それに与した大貴族たち。そして、幼くして帝都を追われ、辺境の戦場で育った正統の皇太子。
皇太子は十四の年から戦場を渡り歩き、二十一の年に帝都を奪還した。
玉座についた彼が最初にしたことは、簒奪者に与した貴族たちの一斉粛清だった。
ある者は斬首され、ある者は爵位を剥奪され、ある者は一族ごと国外へ追放された。その数は数百とも数千とも言われ、正確なところを知る者はいない。
以来、帝国の貴族たちは、この若い皇帝の名を口にするときに必ず声を落とすようになった。
皇帝は慈悲を知らない。
皇帝は情を解さない。
皇帝は、誰のためにも涙を流さない。
だからこそ帝国は、わずか三年でかつての秩序を取り戻したのだとも言われていた。
◇ ◇ ◇
「お帰りなさいませ、陛下」
皇宮の大扉をくぐると、白髪まじりの痩せた男が恭しく一礼した。
帝国宰相クラウス・ベルンシュタイン。先帝の代から宮廷に仕え、内乱の時代には密かに皇太子を支え続けた、数少ない忠臣のひとりだった。
「西の件、見事なお手並みでございました。予定よりも十日早いご帰還です」
「長引かせる理由がなかった」
アルフレッドは外套を脱ぎ捨てるようにして侍従に渡し、そのまま足を止めずに回廊を進んだ。クラウスがその半歩後ろに続く。
「それにしても陛下。一晩で四十二人とは、いささか急ぎすぎたのでは」
「審問が必要だったと言いたいのか」
「いえ。証拠は揃っておりました。いずれにせよ結論は同じだったでしょう。ただ――」
クラウスは小さく咳払いをした。
「帝都では早くも、新しい噂が広まっております。陛下は捕虜の命乞いに眉ひとつ動かさなかった、と。泣いてすがる者の首を、顔色ひとつ変えずにはねさせた、と」
「事実だ」
「存じております。ですからこそ申し上げているのです。『血も涙もない皇帝』という呼び名が、これでまたひとつ確かなものになりました」
アルフレッドは歩みを止めなかった。
「それで困ることがあるのか」
「陛下ご自身は、お困りにならないでしょうな」
「なら、構わない」
短い答えだった。
クラウスは小さくため息をついた。この主君と言葉を交わすたびに、彼はいつも同じ種類のため息をつく。
「恐れられることは、統治において必ずしも悪ではございません。ですが陛下。民というものは、恐れる相手を心から慕うことはないものです」
「慕われる必要はない」
「そうおっしゃると思っておりました」
「民が飢えず、焼かれず、明日も同じように朝を迎えられるなら、俺のことは好きに呼べばいい」
アルフレッドは回廊の角を曲がりながら、淡々と言った。
「黒鋼帝でも、血も涙もない皇帝でも。好きに呼べ」
執務室の重い扉が閉まると、アルフレッドはようやく足を止めた。
窓辺の大きな机の上には、彼の留守中に溜まった書類がうず高く積み上げられていた。アルフレッドはそれを一瞥しただけで、椅子に腰を下ろそうともせずに、懐から小さな革袋を取り出した。
「クラウス。これを見ろ」
袋の口を開いて、中身を机の上にあける。
ころころと転がり出たのは、青黒い小さな石だった。三つ、四つ、五つ。窓から差しこむ光を受けても少しも明るくならない、夜の底を切り取ったような色。
クラウスの眉が、ぴくりと動いた。
「蒼涙石……でございますか」
「反乱軍の首謀者、ヘルマン伯の陣幕にあった。軍資金の担保として、南方の商会に預けていたものの一部だそうだ」
「これほどの品質のものを、ヘルマン伯が?」
「帝都の闇の競売で買ったと吐いた。どこの誰が出品していたのかは、知らないと言っていた」
アルフレッドは石のひとつを指先でつまみ上げ、光にかざした。
「この石は、この十年ほどのあいだに、帝国のあちこちで出回るようになっている。貴族の屋敷を建てる金になり、商会の魔導炉になり、今度は反乱の軍資金になった」
「出所の分からぬ魔石が、内乱の火種を養っている、と」
「そういうことだ」
アルフレッドは石を袋に戻し、クラウスに放った。
「洗え。どこで採れ、誰の手を経て、どこへ流れているのか。時間がかかっても構わない」
「かしこまりました」
クラウスは袋を受け取り、ふと手の中のそれに目を落とした。
「……それにしても、奇妙な石でございますな。眺めていると、なぜだか胸の奥がひどく冷えるような心地がいたします」
アルフレッドは答えなかった。
ただほんの一瞬だけ、その黒い瞳に、クラウスにも読み取れない何かが揺れた。
◇ ◇ ◇
クラウスが退出したあと、アルフレッドは長いこと窓辺に立っていた。
夕暮れの光が帝都の屋根を赤く染めている。遠く大通りのほうからは、凱旋の祝いの酒に酔った人々のざわめきが、かすかに風に乗って聞こえてきた。
皇帝陛下万歳、と誰かが叫んでいる。
黒鋼帝に栄光あれ、と別の誰かが叫んでいる。
その声のどれもが、どこか上ずっていた。心からの歓呼ではなく、そう叫んでおかなければ不安だから叫んでいる、という種類の声だった。
アルフレッドはそれを、何の感慨もなく聞いていた。
怖がられることには慣れていた。
十四の年に帝都を追われてから、彼は戦場以外の場所をほとんど知らずに育った。泥と血と、焼けた村の匂いの中で。昨日まで隣で笑っていた兵士が、翌朝には冷たくなっている場所で。
そこでは、情けをかけた者から先に死んでいった。
敵の命乞いに耳を貸した指揮官は、その夜のうちに寝首をかかれた。焼け出された村人を哀れんで行軍を遅らせた部隊は、追いついてきた敵に囲まれて全滅した。
だから彼は、情けを捨てた。
迷いを捨てた。
泣くことも、とうの昔にやめた。
涙など流している暇があったら、一歩でも前へ進むべきだった。一刻でも早く、一人でも多く敵を倒すべきだった。そうしなければ、彼が守りたいものは何ひとつ守れなかった。
「血も涙もない、か」
アルフレッドは窓硝子に映る自分の顔を見つめて、小さく呟いた。
表情のない、冷たい顔だった。
自分でも、いつからこういう顔になったのか思い出せない。
「……そのとおりだな」
涙は、とうに枯れた。
最後に泣いたのがいつだったのか、彼はもう覚えていなかった。
夕暮れの光が少しずつ紫に変わっていく。
アルフレッドは窓辺を離れ、執務机の前に戻った。
積み上げられた書類の山には手をつけず、机のいちばん下の引き出しに手をかける。そこには小さな鍵穴がひとつあって、その鍵は皇帝自身が常に身につけている一本しか存在しなかった。
かちり、と小さな音を立てて鍵が回る。
引き出しの奥から、アルフレッドは何かを取り出した。
それが何なのかを、知っている者はこの宮廷に一人もいない。
宰相クラウスでさえ、その引き出しが開けられるところを見たことはなかった。
アルフレッドはそれを手のひらの上に載せて、しばらくのあいだ黙って見下ろしていた。
ランプの火も灯さない、薄暗い執務室の中で。
凱旋の行列の先頭で一度も変わらなかったその横顔に、ほんのわずかに、何かが滲んだ。
それは悲しみのようにも、苛立ちのようにも、あるいはもっとずっと古く、ずっと深いところから滲み出てくる、名前のつけられない何かのようにも見えた。
「……まだだ」
低い声が、誰もいない部屋に落ちた。
「まだ、終わっていない」
やがてアルフレッドはそれを引き出しの奥へ戻し、鍵をかけた。
顔を上げたときには、その表情はもう、いつもの冷たい皇帝の顔に戻っていた。
窓の外では、帝都の灯りがひとつ、またひとつと灯りはじめていた。
そのいくつかは、出所の分からない青黒い魔石によって灯された光なのだということを、帝都の人々は誰も知らなかった。




