第11話 皇帝の探し人
鍵のかかった引き出しの中に入っているのは、二つだけだった。
ひとつは、小さく折りたたまれた子ども用の上着。
もうひとつは、一枚の古びた紙。
アルフレッドは誰もいない執務室で、その上着を机の上にそっと広げた。
濃い紺色の、厚手の毛織りの上着だった。今の彼が袖を通そうとすれば、肩口で縫い目が裂けてしまうだろう。それほど小さい。何度も繕った跡があって、裾は擦り切れ、肘のあたりには焦げたような染みが残っている。
胸元には、銀のボタンが一列に並んでいた。
その真ん中のひとつだけが、欠けていた。
ほつれた糸の切れ端が、まだそこに残っている。
アルフレッドは指先で、その空白をなぞった。
十年。
十年経っても、そこは欠けたままだった。
――新しいボタンを付けなさいって、乳母に何度も言われたんだ。でも、絶対に付けさせなかった。
――残りのひとつは、リシェルが持ってるから。
自分の声が、遠い記憶の底から聞こえてくる。
十四歳の春だった。父帝の容体が急変したという知らせを受けて、狩猟小屋から帝都へ駆け戻ったあの日。帝都の門をくぐるより先に、父が息を引き取ったことを知らされた。そしてその夜のうちに、叔父の兵が皇太子宮を取り囲んだ。
逃げることができたのは、ほとんど奇跡だった。
乳母と数人の近衛に守られて、彼は着の身着のまま帝都を脱出した。そのとき身につけていたのが、この上着だった。
それから何年ものあいだ、彼はこの上着を着て戦場を渡り歩いた。
冬の野営の夜には、これにくるまって凍えをしのいだ。初めて人を斬った夜にも、この上着を着ていた。肘の焦げ跡は、敵に焼かれた村から子どもを担ぎ出したときについたものだ。
身体が大きくなって袖が通らなくなってからも、捨てることはできなかった。
鞍袋の底に押しこんで、どの戦場にも持っていった。
欠けたボタンの場所を、ときどき指でなぞるために。
残りのひとつがどこにあるのかを、忘れないために。
アルフレッドは上着を脇に置き、もうひとつのものを手に取った。
古びた一枚の紙。
帝国貴族院の公式の印章が押された、死亡届の写しだった。
――ヴァレンティア侯爵家長女、リシェル・ヴァレンティア。
――享年十歳。冬、熱病により病死。
――葬儀は近親者のみにて執り行い、同家の墓所に埋葬す。
何度読み返したか分からない。
紙の端は指の脂で黒ずみ、折り目のところは擦り切れて、今にも破れてしまいそうになっている。
それでもアルフレッドは、今夜もまた一字一字を目で追った。
まるでそうしていれば、いつか文字が書き変わるとでもいうように。
◇ ◇ ◇
この紙を手に入れたのは、三年前。
帝都を奪還し、玉座についたばかりの頃だった。
即位してすぐ、アルフレッドは帝国全土の貴族家に対して大規模な監査を命じた。簒奪者に与した家を洗い出すため――というのが、表向きの理由だった。所領、財産、兵力、そして一族の戸籍。あらゆる記録を貴族院に提出させ、宰相府の役人たちに精査させた。
その膨大な書類の山の中から、彼はたったひとつの家の、たったひとりの娘の記録だけを、自分の手で探し出した。
誰にも理由を告げずに。
宰相クラウスにさえ。
そうして見つけたのが、この一枚だった。
読んだ瞬間のことは、今でもよく覚えている。
何も感じなかった。
悲しみも、怒りも、絶望も、何ひとつ湧いてこなかった。ただ頭の中が真っ白になって、紙の上の文字が、意味を持たない黒い染みの羅列にしか見えなくなった。
それから長いあいだ、彼は執務机の前に座ったまま動かなかった。
夜が明けて侍従が扉を叩くまで、ずっと。
――死んだ。
――十歳で。
――熱病で。
頭では、そう理解しようとした。
戦場で何百もの死を見てきた。昨日まで笑っていた者が、翌朝には冷たくなっている。そういうことがこの世界では当たり前に起きるのだと、誰よりもよく知っているはずだった。
あの小さな女の子が、自分の知らない冬に、自分の知らない病で死んでいた。
それもまた、この世界では当たり前に起こりうることだった。
けれど、どうしても。
どうしても、信じることができなかった。
◇ ◇ ◇
ちょうど二年前の秋、東部の国境で小競り合いがあった。
その帰路、アルフレッドはわずかな供回りだけを連れて行軍の列を離れ、ある屋敷の近くにある古い墓地に立ち寄った。
ヴァレンティア侯爵家の墓所だった。
皇帝であることは隠していた。旅の騎士のなりをして、墓守の老人に「古い知人の墓を探している」とだけ告げた。
老人に案内されたのは、墓所のいちばん隅の、陽の当たらない一角だった。
そこに、小さな墓石がひとつ立っていた。
名前と、生まれた年と、死んだ年。
刻まれていたのは、それだけだった。
祈りの言葉も、家族からの別れの言葉もない。花が手向けられた跡もない。苔に覆われかけた灰色の石が、まるで忘れ去られたかのように、ぽつんとそこに立っていた。
周りを見回すと、同じような墓石がほかにもいくつかあった。どれも陽の当たらない隅に、名前と年だけを刻まれて。
いずれも、若くして死んだ娘たちの墓だった。
「侯爵様のお嬢様でございますよ」
墓守の老人は、しわがれた声でそう言った。
「ずいぶん小さいうちにお亡くなりになったそうで」
「……葬儀には、出たのか」
「いいえ、とんでもない。わしらのような者は。お身内だけで、ひっそりとね。棺も最後まで閉じられたままだったと聞いております」
「閉じられたまま?」
「流行り病だったそうですから。人にうつしちゃいけないってことでしょうなあ」
老人は帽子を取って、墓石に向かって頭を下げた。
「お気の毒なことです。わしはこの墓所の番をもう三十年もやっておりますが、このお嬢様の墓に、侯爵様ご一家がお参りにいらしたところは、一度も見たことがございません」
アルフレッドは黙って墓石を見下ろしていた。
「ほかの墓もそうなのか」
「ほかの?」
「あの隅の墓だ。同じように、名前と年だけの」
老人は少しだけ困ったような顔をした。
「さあ……ずいぶん昔の方々ですからなあ。ヴァレンティアのお家には、昔からどういうわけか、若くしてお亡くなりになるお嬢様が多いんだそうで。わしの爺さまの代からそう言われております」
風が吹いた。
乾いた落ち葉が、灰色の墓石の上をかさかさと転がっていった。
アルフレッドはその場に膝をつき、墓石に刻まれた名前に手を伸ばした。
冷たかった。
石は、どこまでも冷たかった。
――ここに、あの子がいる。
そう思おうとした。
けれど指先に触れたその冷たさは、彼が知っているあの子の何ものとも重ならなかった。
陽だまりの庭で、白い花を握りしめていた小さな手。
焼き菓子の最後のひと切れを押しこまれて、むせながら怒っていた顔。
自分がつぶされた花冠のことで泣いていたくせに、別れの日には一粒も涙をこぼさずに、「待ってる」と言った声。
そのどれもが、この冷たい石の下に眠っているとは、どうしても思えなかった。
◇ ◇ ◇
「陛下」
扉を叩く音で、アルフレッドは我に返った。
机の上に広げていた上着と紙を、素早く引き出しの中に戻して鍵をかける。
「入れ」
扉が開いて、クラウスが顔を覗かせた。窓の外はもうすっかり夜が明けていて、宰相はいつもと同じ、きちんと整えた身なりをしていた。
「お休みにならなかったのですか」
「目が冴えた」
「凱旋の翌朝くらいは、ゆっくりなさればよろしいものを」
クラウスはため息まじりに言って、小脇に抱えていた書類の束を机の上に置いた。
「昨日の蒼涙石の件でございます。まだ手をつけたばかりですが、ひとつだけ、ご報告しておくべきことが」
「聞こう」
「帝都の闇の競売に出入りしている商人を一人、たどることができました。その男の話によれば、上質な蒼涙石が出品されるのは決まって月に一度。そして、その品はいつも東部諸州のほうから運ばれてくるのだそうです」
「東部か」
「はい。ただ、それ以上のことは分かりません。運び手は毎回違い、出品者の名も伏せられております。東部のどこから来ているのかまでは、まだ」
アルフレッドはしばらく黙っていた。
東部諸州。
二年前の秋に立ち寄った、あの墓所のある地方。
偶然だ、と頭のどこかが言った。東部は広い。何十もの貴族家がひしめき合っている。そのどこかから魔石が流れていたとしても、それがあの家と結びつく理由はない。
それでも――。
「クラウス」
「はい」
「東部諸州への視察を組め」
クラウスが目をまたたいた。
「視察、でございますか。陛下ご自身が?」
「そうだ。西の反乱で、東の貴族どもも浮き足立っているだろう。皇帝が直接顔を見せておけば、妙な気を起こす者も減る」
「それは確かに理にかなっておりますが……ずいぶんと急なお話ですな。西からお戻りになったばかりで」
「急ぐ理由がある」
「蒼涙石の件、でございますか」
「それもある」
アルフレッドは机の上に東部の地図を広げ、いくつかの領地を指先で示していった。
「ここと、ここ。それからこの辺り。主だった家を一通り回る」
クラウスは地図を覗きこみ、皇帝の指が示した場所をひとつずつ確かめていった。
その指が、ある侯爵家の領地の上でほんの一瞬だけ止まったことに、老練な宰相は気づいた。
ヴァレンティア侯爵家。
「……ヴァレンティア家も、お回りになるのですか」
「主だった家を回ると言った」
「ヴァレンティア侯は、内乱の折にも中立を保った慎重な方でございます。古い名門で、帝都の社交界でも評判がよい。陛下が直々にお訪ねになるほどの懸念があるとは思えませんが」
「だからだ」
アルフレッドは地図から目を上げなかった。
「評判のいい家ほど、何かを隠すのが上手い」
クラウスはしばらく主君の横顔を見つめていた。
何か言いたげに口を開きかけて、けれど結局、何も言わずに閉じた。
「……かしこまりました。日程を組みましょう」
「頼む」
クラウスが一礼して出ていく。扉が閉まる直前、宰相は一度だけ振り返った。
皇帝は地図の上に手をついたまま、身じろぎもせずにひとつの領地を見下ろしていた。
その姿が、なぜだかクラウスには、ひどく孤独なもののように見えた。
◇ ◇ ◇
この三年のあいだ、アルフレッドは誰にも告げずに探し続けてきた。
皇帝として表立って動けば、必ず人の口にのぼる。人の口にのぼれば、隠し事を抱えた家は、なおさら固く口を閉ざすだろう。だから彼は、内乱の時代から自分に仕えてきたほんの数人の古い部下だけを使って、ひそかに手を伸ばしてきた。
東部の村々で、十年前に屋敷から連れ出された娘がいなかったかを尋ねさせた。
奴隷市場で、ヴァレンティアの名を持つ娘が売りに出されたことはないかを調べさせた。
貴族の屋敷に奉公に出された娘たちの名簿を、ひとつ残らず洗わせた。
何も見つからなかった。
手がかりはひとつも出てこなかった。
部下たちは誰も口にはしなかったが、その目が何を言っているのかは分かっていた。
――陛下。その方は、本当にお亡くなりになったのです。
分かっている。
理屈の上では、誰よりもよく分かっている。
死亡届がある。墓がある。十年の歳月がある。死んだと信じない理由など、どこにもない。
ただひとつ。
自分の中の何かが、どうしてもそれを受け入れないのだ。
あの墓石に触れたときの冷たさが、あの子の何ものとも重ならなかったように。
あの子は死んでいない。
あの子は、まだどこかにいる。
理屈ではなかった。証拠もなかった。戦場で何度も自分の命を救ってきた、言葉にならない勘のようなもの。それが、今もまだ、彼の中で消えずに燃え続けていた。
その夜、アルフレッドはもう一度だけ引き出しを開けた。
小さな紺色の上着を取り出して、欠けたボタンの場所を指でなぞる。
残りのひとつは、リシェルが持っている。
あの子は約束してくれた。なくさない、と。待っている、と。
――だったら、俺も約束を守らなければならない。
「迎えに行く」
低い声が、暗い執務室に落ちた。
十年前、塀の上から叫んだときよりも、ずっと静かな声で。
「……リシェル」
十年ぶりに、その名前を声に出した。
誰もいない部屋の中で、その名前はひどく頼りなく響いた。
けれど彼は、それを打ち消そうとはしなかった。
血も涙もない皇帝と呼ばれる男の手の中で、小さな上着は、まるで温もりを確かめるかのように、長いこと握りしめられていた。




