第12話 予定にない訪問
ヴァレンティア侯爵家の屋敷に早馬が駆けこんできたのは、その日の昼過ぎのことだった。
泥まみれの伝令が玄関の大広間に転がりこんでくるなり、居合わせた使用人たちは何事かと手を止めた。伝令は息を切らせたまま、執事に一通の書状を差し出した。
黒い封蝋。
そこに押されていたのは、交差する二振りの剣と帝冠の紋章だった。
「――今日だと?」
書斎で書状を受け取ったギルベルト・ヴァレンティアは、珍しく声を荒らげた。
手にした紙が、かすかに震えている。
「どういうことだ。東部視察の日程表には、我が家への御来訪は十日後と記されていたはずだ」
「は、はい。ですが伝令の申しますには、陛下がご予定を変更なさったとのことで……。隣領のシュタイン伯爵家をお発ちになったのが今朝。このまま街道をまっすぐお進みになれば、夕刻にはこちらへお着きになると」
執事は青ざめた顔で頭を下げた。
「理由は」
「何も。ただ、『予定にない訪問ゆえ、もてなしは不要。普段どおりの屋敷を見せよ』との、陛下ご自身のお言葉を預かっております」
普段どおりの屋敷を。
その一言に、侯爵は書状を握りしめた。
しばらく、書斎の中に重たい沈黙が落ちた。
「あなた、どうなさったの」
騒ぎを聞きつけて、侯爵夫人が書斎に入ってきた。その後ろから、長男のユリウスも欠伸を噛み殺しながら顔を覗かせる。
「皇帝陛下が来る」
「まあ。十日後のお話でしょう? わたくし、ちょうど今、当日のドレスを仕立て屋と選んでいたところで――」
「今日だ。夕刻には着く」
夫人の顔から、さっと血の気が引いた。
「今日? そんな、急に……!」
「父上、それは本当ですか」
ユリウスも、さすがに欠伸を引っこめた。
「なぜ急に。我が家が何か、目をつけられるようなことでも?」
「分からん。だが、偶然とは思えん」
侯爵は書状を机の上に置き、片眼鏡を外して目頭を押さえた。
「西の反乱が鎮圧されたばかりだ。陛下は東部の貴族どもの腹を探りに来ている。どの家も多かれ少なかれ、隠し事はある。それを炙り出すつもりなのだろう」
「では、うちだけが狙われているわけではないのですね」
「そう願いたいところだがな」
侯爵は顔を上げた。
灰色の瞳が、いつもの冷ややかな光を取り戻していた。
「いいか。今から言うことを、一言も漏らさずに守れ」
侯爵は執事を呼び、矢継ぎ早に指示を出しはじめた。
「地下へ通じる扉には、今すぐ外から二重に鍵をかけろ。その前に古い戸棚を運ばせて塞げ。あそこはただの物置だ。誰に訊かれても、そう答えさせろ」
「かしこまりました」
「ドルフには、今夜は地下から一歩も出るなと伝えろ。あれの口が軽いのは知っている。陛下の近衛に一言でも漏らせば、その日のうちに首が飛ぶと思え、とな」
「は、はい」
「それから――あれにも、今夜は物音ひとつ立てさせるな」
あれ、という言葉に、執事の肩がかすかに強張った。
侯爵はそれに気づいたが、何も言わなかった。
「書斎の鍵は私が持つ。この部屋には誰も入れるな。陛下の近衛であっても、だ」
執事が慌ただしく出ていくと、侯爵は妻のほうを振り返った。
「お前は、その首飾りを外しておけ」
夫人は思わず胸元に手をやった。
青黒い石を連ねた首飾り。その中央で、ひときわ大きなひと粒が深い光を放っている。
「どうして?」
「出所の分からない蒼涙石が帝国中に出回っていることを、陛下が快く思っていないという噂がある。西の反乱軍の陣からも見つかったそうだ」
「でも、蒼涙石を身につけている貴婦人なんて、帝都にはいくらでもいますわ」
「これほどの大粒を身につけている者は、いくらでもはいない」
夫人は首飾りを両手で覆うように押さえた。
その目に、子どもが玩具を取り上げられまいとするような色が浮かんだ。
「いやですわ」
「なんだと?」
「皇帝陛下がいらっしゃるのよ。帝国でいちばん高貴なお方が、この屋敷に。そんな日に、わたくしがいちばん美しい石を身につけないでいられるものですか」
「お前は――」
「大丈夫ですわ、あなた。誰に訊かれても、領地の鉱脈から出たものだと答えればいいだけですもの。今までずっと、そうしてきたでしょう?」
夫人はにっこりと微笑んだ。
侯爵はしばらく妻の顔を見つめていたが、やがて苛立たしげに目をそらした。
「……好きにしろ。だが、余計なことは一言も口にするな」
「分かっておりますわ」
ユリウスは窓辺に寄りかかって、そのやりとりを面白そうに眺めていた。
「父上、そんなに心配なさらなくても。陛下がわざわざ地下の物置まで覗きにいらっしゃるとも思えませんよ」
「お前は前にも同じことを言ったな」
「ええ。それで、外れたことがありましたか?」
侯爵は答えなかった。
ただ、机の上の黒い封蝋をじっと見下ろしていた。
◇ ◇ ◇
その日の午後、わたしは牢の中で、いつもと違う音を聞いていた。
頭の上のほうで、たくさんの人がばたばたと走り回る足音。何かを引きずるような重たい音。誰かが怒鳴る声。
お屋敷の中で、何か大変なことが起きているのだ。
わたしは藁の上で膝を抱えたまま、格子窓の向こうを見上げた。差しこむ光はいつもと同じ午後の色をしているのに、空気だけがざわざわと落ち着かなかった。
やがて、鉄扉の向こうに足音が近づいてきた。
ドルフさんだった。けれどその足取りは、いつもよりずっと早くて、乱れていた。
差し入れ口が開く。
「おい、お嬢様」
ドルフさんの声は、ひどく緊張していた。
「今夜は、絶対に声を出すんじゃねえぞ。物音ひとつ立てるな。泣くのもなしだ。分かったな」
「……何か、あったんですか」
「お偉い方がいらっしゃるんだよ。旦那様も奥様も、えらい騒ぎだ」
「お偉い方……?」
「いいから黙ってろ。あんたがここにいることが知れたら、俺の首が飛ぶんだ」
差し入れ口が、乱暴に閉められた。
鍵をかける音がしたあとも、ドルフさんの足音は扉の前から離れなかった。行ったり来たりと落ち着きなく石の床を踏む音が、いつまでも続いていた。
お偉い方。
わたしは膝の上に顎を載せて、その言葉の意味を考えた。
お母さまも、お父さまも、そんなに慌てるようなお客さま。
――新しい買い手だろうか。
ふと、そんなことを思った。
わたしの石を買っていく人たちのことを、わたしは何も知らない。どこの誰で、どんな顔をしていて、あの石を何に使っているのか。
でも、いつかそういう人の中から、石だけでは足りないと言いだす人が現れるのかもしれない。
石ではなくて、石を生む女の子そのものが欲しいと。
そうしたらわたしは、この地下からどこか別の地下へ、売られていくのだろうか。
胸元のボタンを、服の上からそっと握った。
怖い、と思った。
けれど同時に、どこへ行っても同じことだとも思った。
どこへ行っても、わたしは泣くことを求められるのだろう。どこへ行っても、わたしの涙は石になって、誰かのものになるのだろう。
だったら、ここでも、どこでも、変わらない。
わたしは目を閉じて、息を殺した。
言われたとおりに、物音ひとつ立てないように。
◇ ◇ ◇
皇帝の一行がヴァレンティア侯爵邸に到着したのは、空が茜色に染まりはじめた頃だった。
屋敷の正門の前には、侯爵家の者たちと使用人たちがずらりと並んで出迎えた。誰もが緊張に顔を強張らせ、黒い旗を掲げた騎兵の列が近づいてくるのを、息を詰めて見つめていた。
先頭の黒馬から、ひとりの青年が降り立つ。
黒い軍装に、黒い外套。供回りは、近衛の騎士がわずか二十騎ほど。皇帝の行幸にしては、驚くほど少ない数だった。
「ようこそお越しくださいました、皇帝陛下」
侯爵ギルベルトが進み出て、深々と頭を垂れた。
「このような辺境の屋敷に、陛下御自らお運びいただけるとは、身に余る光栄にございます。急なことで十分なおもてなしもできませんが、どうぞごゆるりと――」
「もてなしは不要だと伝えたはずだ」
低い声が、侯爵の言葉を遮った。
アルフレッドは侯爵の顔を一瞥しただけで、すぐに屋敷のほうへ視線を移した。
「一晩、厄介になる。近衛の者たちの寝床と、馬の世話だけ頼めればいい」
「は、ははっ。もちろんでございます」
侯爵はもう一度頭を下げた。その背筋を、冷たい汗が一筋伝い落ちていった。
帝都の社交界で、彼は何度もこの若い皇帝の姿を遠目に見たことがある。だが、こうして目の前で言葉を交わすのは初めてだった。
噂には聞いていた。
けれど、これほどまでとは思っていなかった。
この男の黒い瞳には、何も映っていない。目の前に立つ侯爵の顔も、居並ぶ家人たちの姿も、まるで道端の石ころでも眺めるように素通りしていく。
それでいて、何ひとつ見逃していないような気がした。
「妻のエリザベートと、長男のユリウスでございます」
侯爵に紹介されて、夫人とユリウスが優雅に礼をとった。
「お目にかかれて光栄にございます、陛下」
夫人が顔を上げ、とっておきの微笑みを浮かべる。夕陽を受けて、その胸元の首飾りが深い青黒い光を放った。
アルフレッドの視線が、ほんの一瞬だけ、その首飾りの上で止まった。
夫人はそれに気づいて、内心で小さく胸を張った。
――ほら、ご覧なさい。皇帝陛下でさえ、この石に目を留めずにはいられないのだわ。
けれどアルフレッドは何も言わなかった。
すぐに視線を外して、屋敷の玄関へと歩きはじめた。
「案内を頼む」
「は、はい。こちらへ」
侯爵が慌ててその先に立つ。近衛の騎士たちが無言でそれに続き、そのいちばん後ろを、騎士団長のガレスが油断なく周囲に目を配りながら歩いていった。
◇ ◇ ◇
玄関の大扉をくぐった瞬間だった。
アルフレッドは、足を止めた。
ほんの一呼吸ほどのあいだ。案内に立っていた侯爵も、すぐ後ろにいたガレスも気づかないくらいの、わずかな間だった。
――何だ。
肌の内側を、何かがかすめていった。
冷たい、細い、糸のようなもの。
アルフレッドには、生まれつき魔力の流れを感じ取る力があった。戦場では、それで何度も命を拾ってきた。茂みの奥に潜む魔術師の気配。地中に仕掛けられた魔導の罠。遠くの丘の向こうで編まれつつある攻撃魔法の兆し。目に見えないものの流れを、彼は肌で感じ取ることができた。
その感覚が、今、かすかにざわめいていた。
屋敷のどこかから、魔力が漏れ出ている。
ひどく微弱なものだった。注意を向けていなければ、気づかずに通り過ぎてしまうほどに。燃え尽きた暖炉の灰の中に、ほんのわずかに残っている熱のような。消えかけた蝋燭の煙のような。
残滓。
何かがそこにあった痕跡だけが、薄く、薄く、屋敷の空気に溶けこんでいる。
「陛下? いかがなさいましたか」
侯爵が振り返った。
アルフレッドは表情ひとつ変えずに、再び歩きはじめた。
「いや。古い屋敷だと思っただけだ」
「恐れ入ります。この館は曾祖父の代に建てられたもので、手入れが行き届かず、お恥ずかしい限りでございます」
「そうか」
短く答えて、アルフレッドは侯爵のあとに続いた。
回廊を進むあいだも、その感覚は消えなかった。
それどころか、ある場所を通り過ぎるたびに、ほんのわずかに濃くなったり、薄くなったりする。まるで屋敷のどこか一点を中心にして、目に見えない波紋が広がっているかのようだった。
回廊の壁には、歴代の当主とその家族の肖像画が並んでいた。
厳めしい顔をした老人。豪奢なドレスをまとった貴婦人。剣を手にした若い騎士。何代にもわたるヴァレンティア家の人々が、金の額縁の中から、通り過ぎる皇帝を見下ろしていた。
「こちらが祖父、こちらが曾祖父でございます。そしてこちらが、わたくしどもの家族の肖像で」
侯爵が、いちばん新しい一枚を誇らしげに示した。
まだ若い頃の侯爵と、その妻。そして二人のあいだに立つ、幼い金髪の少年。
アルフレッドは足を止めて、その肖像画を見上げた。
長いあいだ、黙って見上げていた。
侯爵は少しだけ居心地が悪くなって、小さく咳払いをした。
「……陛下?」
「ほかの絵はないのか」
「は?」
「ご家族の肖像は、これだけか」
侯爵の顔に、ほんのわずかな強張りが走った。
けれどそれは一瞬で消えて、すぐに穏やかな当主の顔に戻った。
「はい。これだけでございます。我が家は、ご覧のとおり三人きりの家族でございますので」
「そうか」
アルフレッドはそれ以上何も尋ねなかった。
肖像画から目を離し、再び歩きはじめる。
侯爵はその背中を見つめながら、胸の奥で小さく息をついた。
――何も知らぬはずだ。知っているはずがない。
そう自分に言い聞かせた。
七年前に、すべては片づけたのだ。死亡届も出した。墓も作った。帝国のどの記録を調べても、あの娘はもうこの世にいないことになっている。
知っているはずが、ない。
◇ ◇ ◇
客間に通され、一人になると、アルフレッドは窓辺に立った。
夕陽はすでに沈みかけ、屋敷の庭は薄紫の闇に包まれはじめている。
その庭の向こう、屋敷の裏手のほうに、古い石造りの建物がひとつ見えた。
蔦に覆われた、小さな離れ。
そしてその裏に、高い塀に囲まれた、四角い庭がある。
薄闇の中で、庭の真ん中に一本の大きな木が立っているのが見えた。
林檎の木だった。
アルフレッドは窓枠を握る手に、知らず力をこめていた。
――十年前と、何も変わっていない。
あの塀を越えた日のことを、昨日のことのように覚えている。
鷹を追いかけて、息を切らせて、塀のてっぺんに手をかけて。そこから見下ろした庭の真ん中で、白い花を膝に並べた小さな女の子が、まんまるな目でこちらを見上げていた。
あの庭は、今もそこにある。
けれど今、あの庭には、誰もいない。
「陛下」
扉の外から、ガレスの声がした。
「晩餐のご用意ができたそうです。いかがなさいますか」
「すぐに行く」
アルフレッドは答えて、窓辺から離れた。
けれど、扉に向かいかけたところで、ふと足を止めた。
目を閉じる。
肌の内側で、またあの感覚がざわめいていた。
冷たい、細い、糸のような魔力の残滓。
それは屋敷のどこか、ずっと下のほうから――足元の、さらにその下から、かすかに、かすかに、立ちのぼってきているような気がした。
「ガレス」
「はっ」
「今夜は、近衛の者たちを寝かせるな。交代で屋敷の中を見張らせろ。特に、人の出入りの少ない場所を」
扉の向こうで、騎士団長が一瞬だけ息を呑む気配がした。
「……何か、お気づきになりましたか」
「まだ分からない」
アルフレッドは目を開けた。
黒い瞳の奥に、静かな光が宿っていた。
「だが、この屋敷は何かを隠している」
窓の外では、林檎の木の影が、夜の闇の中にゆっくりと溶けていこうとしていた。




