第13話 地下から聞こえるもの
ヴァレンティア家の晩餐の間は、その夜、不自然なほど静かだった。
長い食卓の上には銀の燭台が並び、磨き上げられた皿の上に次々と料理が運ばれてくる。鴨の香草焼き、白身魚の葡萄酒煮、季節の野菜を寄せたテリーヌ。半日で用意したとは思えないほどの品数だった。厨房の者たちが昼過ぎから死に物狂いで働いたのだろう。
けれど、それを口に運ぶ音さえ、誰もがどこか遠慮がちだった。
食卓の上座には皇帝アルフレッドが座っていた。
その右手に侯爵ギルベルト、左手に侯爵夫人エリザベート。少し離れて長男ユリウス。壁際には黒い軍装の近衛騎士が四人、彫像のように立っている。
「お口に合いますかどうか」
侯爵が控えめに言った。
「急なことで、十分な支度ができませんでしたが」
「十分だ」
アルフレッドは短く答えて、葡萄酒の杯に口をつけた。
それきり、また沈黙が落ちた。
侯爵は何か話題を探そうとして口を開きかけ、そして閉じた。この若い皇帝を相手に、どんな世間話をすればいいのか見当もつかなかった。帝都の社交界の噂話も、領地の麦の出来も、この男の前ではひどく空々しいものに思えた。
「陛下は、西の反乱を半月で平らげられたとか」
沈黙を破ったのは、ユリウスだった。
侯爵がわずかに眉をひそめる。けれどユリウスは気づかないふりをして、愛想のよい笑顔を皇帝に向けた。
「帝都ではもう、吟遊詩人たちが陛下の武勲を歌にしていると聞きました。一夜にして四十二人の反逆者を討ち取った黒鋼帝の物語、と」
「歌にするほどのことではない」
「ご謙遜を。僕などは、剣を握れば三日で手の皮が剥けてしまう軟弱者ですから。陛下のような方には憧れます」
「そうか」
アルフレッドの返事は、相変わらず短かった。
ユリウスは笑顔のまま、ほんの少しだけ肩をすくめた。それ以上言葉を重ねても、この男の表情はひとつも動かないだろうと悟ったらしい。
「ユリウスったら。陛下はお疲れなのよ」
侯爵夫人が、扇を口元に当てて笑った。
そして、ごく自然な仕草で、胸元の首飾りに指先を添えた。
燭台の光を受けて、青黒い石が深く光った。
◇ ◇ ◇
アルフレッドは、その光をじっと見ていたわけではなかった。
彼の意識は、晩餐の間に入ったときからずっと、別のところに向いていた。
足元だった。
磨かれた大理石の床の、さらにその下。
屋敷に入ったときから肌の内側をかすめていたあの感覚が、晩餐の間に来てから、はっきりと強くなっていた。
《魔脈感知》。
魔力の流れを肌で感じ取るこの力を、軍の魔術師たちはそう呼んでいた。生まれつき備わる者はごくまれで、訓練でどうにかなる類のものでもない。アルフレッドはその力を、戦場で何度も研ぎ澄ませてきた。森に潜む伏兵の気配を、地中に埋められた魔導の罠を、彼はいつもこの感覚で見つけ出してきた。
その感覚が、今、足の下から何かを拾っていた。
途切れ途切れの、魔力の脈動。
とくん、と小さく響いて、しばらく途絶えて、また、とくん、と響く。
規則正しくはなかった。ひどく弱々しくて、今にも消えてしまいそうで、それでいて決して消えきらない。まるで冷たい水の底で、誰かが細い息を繰り返しているかのようだった。
――生きている。
なぜそう思ったのか、自分でも分からなかった。
魔導の罠や仕掛けの放つ魔力は、こんなふうには揺れない。もっと冷たく、もっと平らで、ただそこにあるだけのものだ。
けれどこれは違う。
これは、揺れている。
苦しげに、怯えるように、何かを堪えるように。
まるで、人の心臓の鼓動のように。
「陛下?」
侯爵の声で、アルフレッドは意識を戻した。
「何か、お気に召さないものでも」
「いや」
アルフレッドは杯を置いた。
「この屋敷の下には、何がある」
食卓の空気が、ほんのわずかに凍りついた。
侯爵の手の中で、銀のナイフがかちりと皿に触れた。
「下、と申しますと」
「地下だ。ずいぶん古い屋敷だと聞いた。地下室くらいはあるだろう」
「は、はい。ございます。古い酒蔵と、使わなくなった家具をしまっておく物置が」
「物置か」
「さようでございます。何代も前の当主が集めた古道具が、山のように積んでありまして。お恥ずかしい限りで」
侯爵は穏やかに微笑んだ。
見事な微笑みだった。帝都の社交界で「慎み深い名門の当主」と呼ばれてきた男の、長年かけて磨き上げられた仮面だった。
けれどアルフレッドは、その仮面の下で侯爵の喉がかすかに上下したのを見逃さなかった。
「そうか」
アルフレッドはそれだけ言って、また黙った。
侯爵は笑顔を崩さないまま、杯に手を伸ばした。その指先が、ほんの少しだけ震えていた。
◇ ◇ ◇
そのときだった。
足の下の脈動が、ふいに大きく乱れた。
とくん、とくん、とくん。
急に速くなる。まるで何かに怯えて、心臓が早鐘を打ちはじめたかのように。
アルフレッドは息を詰めた。
そして、気づいた。
乱れた脈動に呼応するようにして、すぐ近くで何かがかすかに震えた。
侯爵夫人の胸元だった。
首飾りの石。
燭台の光を受けて深く光っている、あの青黒い石の連なり。
その石のひとつひとつから、目に見えないほど細い糸のようなものが伸びていた。
魔力の糸だった。
蜘蛛の巣の一本よりもまだ細い、今にも途切れてしまいそうな糸。それが首飾りの石から垂れ下がるようにして、床の下へ――足元の大理石を抜けて、ずっと深く、地の底へと続いている。
足の下の脈動が揺れるたびに、その糸もかすかに震えた。
まるで、どこかで鳴っている鈴の音が、細い紐を伝ってここまで届いているかのように。
――繋がっている。
アルフレッドは、目の前の首飾りから目を離せなくなった。
蒼涙石が魔力を帯びていることは知っている。魔導炉の核にも使われる石なのだから、当然のことだ。
けれど、石が放つ魔力は、石の中で完結しているはずだった。石は石だ。生まれた場所や、掘り出された鉱脈と、いつまでも繋がっていることなどありえない。
それなのに。
この首飾りの石は、まるで臍の緒のように、地の下の何かと結ばれている。
「あら」
侯爵夫人が小首をかしげた。
「陛下、この首飾りがお気に召しまして?」
アルフレッドの視線が自分の胸元に注がれていることに、夫人はようやく気づいたのだった。
その頬が、ほんのりと上気した。
「やはり、お目に留まりますのね。わたくしの自慢の品ですのよ」
「エリザベート」
侯爵が低い声で制した。
けれど夫人は、夫の声など聞こえなかったかのように、首飾りを指先でそっと持ち上げてみせた。
「蒼涙石ですわ。これほどの大粒は、帝都の宝石商でもそうそう扱っておりませんでしょう?」
「どこで手に入れた」
アルフレッドの声は、静かだった。
「領地の鉱脈から出たものですわ」
夫人は微笑んだ。何度も何度も繰り返してきた答えなのだろう。淀みなく、少しの迷いもなく、その言葉は唇からこぼれ出た。
「この辺りには、昔から良い石の出る場所がございますの」
「その鉱脈は、どこにある」
「え?」
「この領地の、どこにある」
夫人の微笑みが、一瞬だけ止まった。
「それは……ええと、北の山のほうだったかしら。わたくし、細かいことは存じませんの。そういうことは、主人が」
「陛下」
侯爵が、穏やかに口を挟んだ。
「妻は石の美しさには目がないのですが、どこで採れるかにはとんと無頓着でして。鉱脈は北の山間にございます。ただ、ごく小さなもので、採れる量もわずか。とても陛下にお目にかけられるようなものでは」
「そうか」
アルフレッドは侯爵を見た。
侯爵もアルフレッドを見返した。
灰色の瞳と、黒い瞳。
どちらも、何も読ませない目だった。
沈黙が、食卓の上に重く垂れこめた。燭台の炎が揺れる音さえ聞こえそうなほどの静けさだった。
「……北の山か」
やがてアルフレッドが、ぽつりと言った。
「明日、見せてもらおう」
侯爵の顔から、ほんの一瞬だけ、血の気が引いた。
◇ ◇ ◇
牢の中で、わたしは膝を抱えて震えていた。
夜になってから、頭の上の物音はいっそう激しくなっていた。
たくさんの靴音。馬のいななき。金属の触れあうような、硬い音。それから、聞いたことのない男の人たちの低い声。
ドルフさんは、まだ鉄扉の前を行ったり来たりしていた。
ときどき、その足音がぴたりと止まる。そのたびにわたしは、息を止めた。
物音を立てるな。
泣くな。
ドルフさんの声が、頭の中で何度も繰り返されていた。
でも、怖かった。
上の御屋敷で何が起きているのか、何ひとつ分からないことが怖かった。お偉い方というのが誰なのか、何のためにここへ来たのか、そしてわたしがこれからどうなるのか。
分からないことが、ただ怖かった。
――売られるのかもしれない。
昼間に考えたことが、夜の暗さの中でどんどん大きくなっていく。
石ではなくて、石を生む女の子そのものを欲しがる人。
その人のところへ連れていかれたら、わたしはまた、別の地下牢に閉じこめられるのだろう。別の誰かに、泣けと言われるのだろう。
お母さまよりも、お兄さまよりも、もっと怖い人だったらどうしよう。
もっと痛いことをする人だったら。
わたしの泣き方が気に入らなくて、もっとひどいやり方を思いつく人だったら。
胸の奥が、きりきりと締めつけられた。
息がうまく吸えなかった。
心臓がどくどくと、耳の奥で鳴っていた。
わたしは胸元に手を当てた。
服の上から、小さな丸い形を確かめる。
ちゃんとある。
ここにある。
――あれは夢だった。
十回目の春に、わたしはそう決めた。
あの子は来ない。迎えになんて、誰も来ない。分かっている。
分かっているのに、どうしてだろう。
怖くてたまらない夜には、指が勝手にこのボタンを探してしまう。
冷たい銀の感触を確かめずには、いられなくなってしまう。
わたしはボタンを服の上から握りしめて、ぎゅっと目を閉じた。
泣いてはいけない。
物音を立ててはいけない。
そう分かっていたのに、目の奥がじわりと熱くなった。
鼻の奥がつんと痛んで、喉がひくりと鳴った。
だめ。
わたしは唇を噛んだ。けれど一度こみ上げてきたものは、もう止まらなかった。
ひとしずくだけ。
たったひとしずくだけ、こぼれた。
頬を伝い落ちる途中で、それはひやりと冷たくなって、固くなって――。
からん。
小さな音を立てて、石の床に落ちた。
わたしは慌てて口元を押さえた。
鉄扉の向こうで、ドルフさんの足音がぴたりと止まった。
息を殺す。
心臓の音だけが、うるさいくらいに響いていた。
しばらくして、ドルフさんの足音がまた動きだした。何も気づかなかったのか、それとも気づかないふりをしたのか、わたしには分からなかった。
わたしは床に手を伸ばして、暗がりの中で小さな石を探り当てた。
冷たくて、小さくて、青黒い粒。
どうしようか、と思った。
隠さなければ。明日の朝、ドルフさんに見つかったら、これもまたお母さまのところへ運ばれていく。
けれど、どこに隠せばいいのか分からなかった。藁の中は前に探された。壁の継ぎ目も、床の割れ目も、ドルフさんはもう知っている。
わたしは結局、その石を手のひらの中でただ握りしめたまま、動けなかった。
手の中の小さな石が、なぜだか、かすかに震えているような気がした。
◇ ◇ ◇
晩餐の間で、アルフレッドは息を呑んだ。
足の下の脈動が、ひときわ大きく揺れた。
それはまるで、誰かが暗闇の中で小さくすすり泣いたかのような揺れだった。
同時に、侯爵夫人の首飾りから伸びる細い糸が、ぴんと張りつめたように震えた。石のひとつひとつが、燭台の光の中でほんのわずかに明滅する。
アルフレッドのほかに、それに気づいた者は誰もいなかった。
侯爵は杯を傾け、夫人は扇をゆらし、ユリウスは退屈そうに皿の上の鴨をつついている。壁際の近衛たちも、ただ前を見て立っているだけだった。
この部屋の誰ひとりとして、自分たちの足の下で、今この瞬間に何が起きているのかを知らない。
――いや。
アルフレッドは、目の前の三人の顔を順に見た。
知らないのではない。
知っていて、何も感じていないのだ。
腹の底で、何かが静かに燃えはじめた。
戦場で敵の陣を前にしたときと同じ、冷たく、重たい炎だった。
「陛下」
侯爵が、杯を置いて言った。
「明日の北の山へのご案内ですが、ご覧のとおり山道が険しく、陛下のお身体に障りがあってはと――」
「構わない」
アルフレッドは、侯爵の言葉を最後まで聞かなかった。
静かに、椅子を引いた。
その音に、食卓の三人がそろって顔を上げた。
「陛下? まだお食事の途中で……」
「十分だと言った」
アルフレッドは立ち上がった。
黒い外套の裾が、燭台の炎をかすかに揺らした。
壁際の近衛たちが、言葉もなく姿勢を正す。
侯爵は椅子から腰を浮かせたまま、凍りついたように皇帝を見上げていた。
「侯爵」
「は……はい」
「腹ごなしに、少し屋敷の中を歩かせてもらう」
アルフレッドは、侯爵の顔を見下ろした。
その黒い瞳には、相変わらず何の表情も浮かんでいなかった。
けれど侯爵には、その目が、自分の喉元に突きつけられた剣の切っ先のように見えた。
「この屋敷の、いちばん下まで」




