第14話 開けろ
# 第14話 開けろ
晩餐の間を出たアルフレッドは、迷わずに歩きはじめた。
案内を頼むこともしなかった。回廊を右へ折れ、大階段の脇を抜け、使用人たちが行き来する奥の通路へと入っていく。まるでこの屋敷の造りを、最初から知っていたかのような足取りだった。
侯爵ギルベルトは慌ててそのあとを追った。
「陛下、お待ちください。そちらは使用人の区画でございます。陛下がお歩きになるような場所では」
「構わない」
「ですが、灯りも十分ではございませんし」
「見えている」
アルフレッドは振り返りもしなかった。
そのすぐ後ろを騎士団長のガレスが歩き、さらに二人の近衛が続く。夫人のエリザベートとユリウスも、遅れて晩餐の間から出てきていた。夫人は扇を握りしめたまま、青ざめた顔で一行の背中を見つめていた。
アルフレッドの肌の内側では、あの脈動がずっと鳴っていた。
とくん、とくん、とくん。
晩餐の間を出てから、それは少しずつ近く、少しずつ強くなっていく。足元のさらに下から、細い糸をたぐり寄せるようにして、彼をどこか一点へと導いていく。
通路の突き当たりで、アルフレッドは足を止めた。
そこには、古い戸棚がひとつ置かれていた。
黒ずんだ樫の木でできた、背の高い戸棚だった。扉の蝶番は錆びつき、表面には埃がうっすらと積もっている。何十年も前からそこに置かれたまま、誰にも動かされたことがない。そう見えるように作られていた。
けれど、その足元の石の床には、新しい擦り傷が何本も走っていた。
重たいものを引きずった跡だった。
まだ白く、まだ鋭い。
今日の昼に、誰かがここへこの戸棚を運んできたのだ。
「侯爵」
アルフレッドは戸棚を見上げたまま言った。
「この後ろには何がある」
侯爵の足が止まった。
一瞬の沈黙のあと、穏やかな声が返ってきた。
「地下への入口でございます。先ほど申し上げた、古い倉庫へ下りる階段がこの奥に」
「倉庫か」
「さようでございます。ただの倉庫です。古い家具や使わなくなった道具を押しこめてあるばかりで、とても陛下にお見せできるような場所では」
「なぜ塞いでいる」
「は……?」
「ただの倉庫の入口を、なぜ戸棚で塞いでいる」
侯爵は答えに詰まった。
ほんの一呼吸ほどのあいだだった。けれどその一呼吸は、静まり返った通路の中でひどく長く響いた。
「近頃、地下に鼠が出るようになりまして」
侯爵は微笑んだ。
「使用人たちが気味悪がるものですから、しばらく塞いでおくようにと私が申しつけたのです。お見苦しいところをお目にかけまして」
「そうか」
アルフレッドは短く言った。
そして、ガレスのほうへわずかに顔を向けた。
「どけろ」
ガレスが一歩前に出た。
侯爵がその前に立ちはだかるように身体を滑りこませた。
「陛下、お待ちください!」
声が裏返っていた。
帝都の社交界で「慎み深い名門の当主」と呼ばれてきた男の仮面に、初めてはっきりとひびが入った瞬間だった。
「申し上げましたとおり、地下はただの倉庫です。それに夜も更けておりますし、足元も悪うございます。万が一にも陛下がお怪我をなさるようなことがあれば、私どもは帝国に顔向けができません。どうか明日、明るくなってから改めて――」
「侯爵」
「は、はい」
「開けろ」
静かな声だった。
怒鳴ったわけではない。声を荒らげたわけでもない。けれどその一言は、通路の石壁にしんと沁みこんで、そこにいた全員の背筋を凍りつかせた。
侯爵の唇が、かすかに震えた。
「で、ですが、鍵が……」
「鍵がどうした」
「地下の鍵は執事に預けておりまして。今夜はもう下がらせてしまいましたので、すぐにはご用意が――」
アルフレッドは、そこでようやく侯爵のほうへ顔を向けた。
黒い瞳が、まっすぐに侯爵を見下ろした。
何の表情も浮かんでいなかった。怒りも、苛立ちも、蔑みも。
ただ底のない夜のような静けさだけが、そこにあった。
「皇帝に、二度同じ命令を言わせるな」
侯爵の顔から、すうっと血の気が引いていった。
何か言おうとして口を開き、そして何も言えずに閉じた。
背後で、エリザベートが小さく息を呑む音がした。ユリウスはいつもの退屈そうな顔を忘れて、凍りついたように立ち尽くしていた。
長い沈黙だった。
やがて侯爵は、ゆっくりと頭を垂れた。
「……申し訳、ございません。今すぐ、執事を呼んでまいりますので」
「要らない」
アルフレッドは侯爵の脇を通り過ぎた。
ガレスが慌ててそのあとに続こうとしたが、アルフレッドは片手を上げてそれを制した。
「下がっていろ」
「陛下、しかし」
「俺がやる」
アルフレッドは戸棚の縁に手をかけた。
大人の男が三人がかりで運んだのだろう重たい樫の戸棚が、ぎしりと軋んで動いた。床の上を、石を削るような耳障りな音を立てて滑っていく。
近衛たちが息を呑んだ。
侯爵は、言葉もなくそれを見ていた。
戸棚の後ろから、古い木の扉が現れた。
黒ずんだ分厚い板に、鉄の帯が何本も打ちつけられている。そこに大きな錠前がふたつ、上と下にひとつずつ、まるで何かを閉じこめるようにしっかりとかけられていた。
ただの倉庫の扉にしては、あまりにも厳重だった。
アルフレッドは錠前を見下ろした。
そして扉の向こうへ、意識を向けた。
とくん、とくん、とくん。
脈動は、もうすぐそこにあった。この分厚い板の向こう、さらに下の暗がりから、細く冷たい糸のように立ちのぼってくる。
苦しげに。
怯えるように。
何かを、必死に堪えるように。
「ガレス。剣を」
「はっ」
ガレスが腰の剣を鞘ごと外して差し出した。
アルフレッドはそれを受け取ると、鞘から抜きもせずに逆手に握り、柄頭を上の錠前に叩きつけた。
鈍い金属音が、通路いっぱいに響き渡った。
錠前がひしゃげる。もう一度。三度目で、留め金が弾け飛んで石の床に転がった。
アルフレッドは息ひとつ乱さずに、下の錠前にも同じように柄頭を振り下ろした。
二つ目の錠前が床に落ちたとき、侯爵がその場に膝をつく気配がした。
誰もそれを振り返らなかった。
アルフレッドは剣をガレスに返し、扉の取っ手に手をかけた。
古い蝶番が、悲鳴のような音を立てた。
扉の向こうから、冷たい空気が這い上がってきた。
湿った石の匂いだった。黴と、苔と、長いあいだ陽の光を知らずにいた土の匂い。そしてその奥に、ほんのかすかに、鼻の奥を刺すような別の匂いが混じっていた。
ガレスが顔をしかめて、外套の袖で鼻を覆った。
「……陛下、これは」
アルフレッドは答えなかった。
扉の向こうには、細い石段が下へ下へと続いていた。
灯りはひとつもない。数段先から先は闇に呑まれて、どこまで続いているのかさえ見えなかった。
けれどアルフレッドには分かっていた。
この闇の底に、何かがいる。
何かではない。
――誰かが、いる。
「灯りを」
近衛の一人が慌てて壁の燭台からランプを外し、差し出した。
アルフレッドはそれを受け取り、石段の最初の一段に足を下ろした。
「陛下、お一人では危険です。せめて私が先に」
「いい」
アルフレッドは振り返らずに言った。
「ガレス、侯爵家の者を一人もここから動かすな。上の扉の前にも二人立たせろ。誰も外へ出すな。誰も中へ入れるな」
アルフレッドはそこでほんの一瞬だけ言葉を切った。
「逆らう者がいれば、斬り捨てて構わない」
背後で、誰かが短く息を詰める音がした。
床に膝をついたままの侯爵か、青ざめた夫人か、それとも立ち尽くしていたユリウスか。アルフレッドは振り返らなかった。それが脅しではないことは、その場にいる誰もが分かっていた。
「……はっ」
ガレスは何か言いたげに口を開きかけたが、主君の背中を見て、それ以上は何も言わなかった。
主君の背中から、目に見えない何かが立ちのぼっていた。
戦場で何度も見てきたものだった。敵の陣へ単騎で駆けこんでいく直前の、あの静かな背中。
ガレスは無言で二人の近衛に合図を送り、自分はランプを手にして主君のすぐあとに続いた。
◇ ◇ ◇
頭の上で、大きな音がした。
がん、と。
何か硬いものを、硬いものに叩きつけるような音。
わたしは藁の上で跳ね起きた。
もう一度。もう一度。
石の天井が震えて、細かな砂粒がぱらぱらと降ってきた。
鉄扉の向こうで、ドルフさんが何か叫んでいた。何を言っているのかは聞き取れなかった。ただ、その声が今まで聞いたことのないほど怯えていることだけは分かった。
それから、ぎい、と長く軋む音がした。
ずっと上のほうで、古い扉が開く音だった。
冷たい風が、石段を伝って降りてきた。ほんのわずかに、外の夜の匂いがした。この七年間、わたしが一度も嗅いだことのない匂いだった。
足音が聞こえた。
ひとつ、ふたつ。重たい靴音が石段を一段ずつ降りてくる。
ドルフさんの足音ではなかった。お父さまのものでも、お兄さまのものでもなかった。
知らない足音だった。
ゆっくりと、けれど少しの迷いもなく、まっすぐにこちらへ近づいてくる。
わたしは牢のいちばん奥の壁まで後ずさった。鎖が鳴った。背中が冷たい石にぶつかって、もうどこにも下がれなくなった。
――来た。
お偉い方。
わたしを買いに来た人。
石だけでは足りなくて、石を生む女の子そのものを欲しがる人。
心臓が、痛いくらいに鳴っていた。
息がうまく吸えなかった。
わたしは胸元に手を当てて、服の上から小さな丸い形を握りしめた。
手のひらの中には、さっきこぼした青黒い石が、まだ一粒だけ残っていた。
隠す場所を見つけられないまま、ずっと握りしめていたものだった。
足音が、石段のいちばん下で止まった。
鉄扉の隙間から、揺れるランプの光が細く差しこんできた。
わたしは目を閉じることもできずに、その光を見つめていた。




