第15話 鉄扉の向こう
石段は、思っていたよりもずっと長かった。
近衛騎士団長ガレス・ハーゲンは、ランプを掲げて主君のすぐ後ろを降りていた。
一段降りるごとに、空気が冷たく重くなっていく。湿った石の壁には苔がこびりつき、ところどころから水が染み出して細い筋を作っていた。足元の段は中央だけが擦り減って、くぼんでいる。長い年月のあいだに、何度も何度も同じ場所を踏まれてきた跡だった。
ただの倉庫へ下りる階段なら、こうはならない。
ガレスはそう思った。
ここは毎日、誰かが行き来していた場所だ。
前を行く主君は、一度も振り返らなかった。ランプの光が届くか届かないかのところを、少しの迷いもなく降りていく。暗がりの中で足を踏み外すことも、壁に手をつくこともない。
まるで何かに呼ばれているかのようだった。
二十段を過ぎたあたりで、匂いが変わった。
黴と苔の匂いの奥にあった別の匂いが、急に濃くなったのだ。
ガレスは思わず息を止めた。
戦場で何度も嗅いできた匂いだった。長いあいだ換えられていない汚れた藁の匂い。湯を使うこともできずにいる人間の、垢と汗の匂い。それから、膿んだ傷口から立ちのぼる、甘く腐ったような匂い。
捕虜を押しこめた牢の匂いだ。
それも、ひどく扱われている捕虜の。
「……陛下」
思わず声が出た。
主君は答えなかった。
ただ、その足取りが、ほんのわずかに速くなった。
石段の終わりは、小さな部屋になっていた。
天井の低い、四角い石の部屋だった。壁際に粗末な木の卓と椅子がひとつずつ。卓の上には飲みかけの酒の瓶と、欠けた木の椀がいくつか転がっている。壁の鉤には鍵束がひとつと、汚れた布が何枚か引っかけてあった。
そして部屋の奥に、鉄の扉があった。
黒く錆びた分厚い鉄の扉。その下のほうに、小さな四角い差し入れ口がひとつ。
扉の前に、大きな男がひとり立っていた。
ずんぐりとした身体に、汚れた革の前掛け。手には太い棍棒を握っている。
看守だった。
男はランプの光の中に現れた黒い軍装の青年を見て、目を見開いた。
その目が、主君の外套の留め金に刻まれた紋章に止まる。
交差する二振りの剣と、帝冠。
男の手から棍棒が滑り落ちて、石の床に乾いた音を立てた。
「こ……こう、てい……」
男はその場に崩れるように膝をついた。
「へ、陛下、お、お許しを。わ、わしは何も、何も知らねえんで。旦那様のお言いつけで、ただ、ただ番をしていただけで」
主君は男のほうを見もしなかった。
ランプを掲げたまま、ゆっくりと部屋の中を見回していた。
ガレスも主君の視線を追った。
そして、見た。
鉄の扉の前の床に、黒ずんだ染みがいくつも広がっていた。
石の継ぎ目に沁みこんで、何度こすっても落ちなかったのだろう。ひとつではなかった。古いものも、まだ新しいものもあった。扉の差し入れ口の真下から、床を這うようにして点々と続いている。
血の痕だった。
壁の鉤に引っかけられた布にも、同じ色の染みがこびりついていた。
ガレスは喉の奥が冷たくなるのを感じた。
それから、部屋の隅の壁に目が留まった。
太い鉄の杭が打ちこまれていて、そこから何本もの鎖が垂れ下がっていた。
ただの鎖ではなかった。
鎖の輪のひとつひとつに、細かな文字が刻まれていた。ランプの光を受けて、その文字がかすかに鈍く光る。
魔術の刻印だった。
「……魔力封じ」
ガレスは呟いた。
軍でも使われることのあるものだった。捕らえた敵の魔術師に嵌めて、その力を封じこめるための鎖。ひどく高価で、そう簡単に手に入るものではない。
それが、こんな屋敷の地下に何本も吊るされている。
主君が、壁の鎖のほうへ歩いていった。
ランプをかざして、垂れ下がった鎖の先を見る。
鎖の先には、足首に嵌めるための鉄の輪がついていた。
ひとつは、大人の足首にちょうど合うほどの大きさだった。
もうひとつは、それよりずっと小さかった。
子どもの足首ほどの大きさの、小さな鉄の輪。
その内側は擦れて黒く光り、縁には錆とは違う赤黒いものがこびりついていた。長いあいだ、誰かの細い足首に嵌められ続けていたのだ。その子の足首が大きくなって、もう嵌められなくなるまで。
主君は、その小さな輪を見下ろしていた。
身じろぎもせずに。
ガレスは、主君の横顔を見た。
そして、背筋がぞっと冷えた。
何もなかった。
主君の顔には、何ひとつ浮かんでいなかった。
怒りも、悲しみも、嫌悪も。眉ひとつ動いていない。唇も引き結ばれてさえいない。ただ静かに、まるで道端の石でも眺めるように、小さな鉄の輪を見下ろしている。
ガレスは十年近くこの方に仕えてきた。
戦場で、主君が怒るところを何度も見てきた。部下を無駄死にさせた指揮官を殴り飛ばしたこともあった。焼かれた村の子どもの亡骸を前にして、拳から血が滲むほど手を握りしめていたこともあった。
けれど、こんな顔は見たことがなかった。
いや、一度だけある。
三年前、帝都奪還の直前。乳母を殺した叔父の腹心を捕らえたときだ。主君はその男の前で、今と同じ顔をしていた。何の表情もない、凪いだ湖のような顔を。
その男がその夜どうなったのか、ガレスは知っている。
知っているからこそ、今、指一本動かすことができなかった。
後ろに控えていた若い近衛が、小さく喉を鳴らすのが聞こえた。その手が、無意識に剣の柄から離れていく。主君に向かって剣を抜く者などいるはずがないのに、まるでそうしなければ自分が斬られるとでもいうように。
部屋の中の空気が、凍りついていた。
膝をついていた看守は、もう声を出すことさえできずに、がたがたと震えていた。
「鍵は」
主君が言った。
静かな声だった。
晩餐の間で侯爵に「開けろ」と言ったときと、何ひとつ変わらない声。
看守がびくりと肩を跳ねさせた。
「へ、へい」
「その扉の鍵だ」
「こ、ここに……」
看守は震える手で前掛けの内側を探った。けれど指がうまく動かないのか、何度も取り落としそうになる。ようやく引っぱり出した鉄の鍵を、看守は両手で捧げるように差し出した。
主君はそれを受け取った。
看守の顔を、そこで初めて見下ろした。
「名は」
「ど、ドルフと、申します」
「ドルフ」
主君はその名を、確かめるように一度だけ繰り返した。
「この扉の向こうに、誰がいる」
ドルフの顔から、すうっと血の気が引いた。
何か言おうとして口を開き、閉じ、また開いた。
「……旦那様の、お嬢様で」
「名前は」
「り、リシェル、様と」
主君の手の中で、鉄の鍵が、ぎしりと軋んだ。
ガレスにはそう聞こえた。
けれど主君の顔は、やはり何ひとつ変わらなかった。
「何年だ」
「は……?」
「何年、ここに入れている」
「な、七年、で、ございます。お嬢様が十のときから……」
ドルフは額を石の床にこすりつけた。
「わしは、わしはただ、旦那様に言われたとおりにしていただけで。飯を運んで、水を運んで、それだけで。泣かせろと言われたのも奥様で、わしは、わしは何も」
「ガレス」
主君は、看守の言葉を最後まで聞かなかった。
「この男を上へ連れていけ。侯爵家の者と一緒にしておけ」
「はっ」
「殺すな」
短い一言だった。
ガレスはそれを聞いて、ほんのわずかだけ息をついた。
殺すな。
それは慈悲ではないことを、ガレスは知っていた。
今ここで殺せば、それで終わってしまう。この男が知っていること、見てきたこと、やってきたことを、ひとつ残らず吐かせなければならない。主君はそう考えているのだ。
そしてその考えを、今のこの顔のまま、冷静に組み立てている。
それがガレスには何よりも恐ろしかった。
若い近衛が二人がかりで看守を立たせ、石段のほうへ引きずっていった。看守の嗚咽が、狭い石段に反響しながら少しずつ遠ざかっていく。
部屋には、主君とガレスだけが残された。
主君は鉄の扉の前に立った。
しばらくのあいだ、何もしなかった。
鍵を手にしたまま、扉の差し入れ口の真下に広がる黒い染みを見下ろしていた。
ガレスは声をかけられなかった。
扉の向こうは、しんと静まり返っていた。物音ひとつしない。息遣いさえ聞こえない。
けれど、そこに誰かがいることだけは、ガレスにも分かった。
息を殺している。
見つからないように。
声を立てないように。
まるで嵐が通り過ぎるのを待つ小さな獣のように、扉の向こうの誰かは、じっと身を縮めている。
「陛下」
ガレスは、ようやく声を絞り出した。
「お顔を」
主君がわずかに首を傾けた。
「……なんだ」
「そのお顔のまま扉を開ければ、向こうの方は怯えます」
言ってしまってから、ガレスは自分の無礼に気づいた。
皇帝に向かって、顔色をどうこう言うなど。この場で斬り捨てられても文句は言えない。
けれど主君は、何も言わなかった。
ランプの光の中で、長いあいだ黙っていた。
それから、ゆっくりと目を閉じた。
深く、深く、一度だけ息を吸った。
吐き出す。
もう一度、吸う。
目を開けたとき、その顔はやはり無表情のままだった。けれどその黒い瞳の奥で凍りついていた何かが、ほんのわずかに、溶けているように見えた。
「……下がっていろ」
「はっ」
ガレスはランプを床に置き、石段の下まで退いた。
主君は鉄の扉に向き直った。
鍵を、鍵穴に差しこんだ。
手が、震えていた。
戦場で一度も震えたことのない皇帝の手が、ほんのかすかに震えていた。
ガレスはそれを見て、見なかったことにした。
鍵が回る。
重たい音を立てて、錠が外れる。
主君は取っ手に手をかけ、そして、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
十年。
ガレスの知らない何かを、その一瞬のうちに飲みこむようにして。
鉄の扉が、軋みながら、ゆっくりと開いた。




