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第16話 やっと見つけた

鉄扉が開いた瞬間、光が流れこんできた。

 わたしは思わず手をかざした。

 眩しかった。

 ランプのたったひとつの明かりが、真昼のお日さまみたいに目に刺さった。

 ランプの光なら知っている。お母さまも、お兄さまも、ドルフさんも、この牢へ入ってくるときにはいつもランプを提げていた。

 けれど今夜は、日が暮れてからずっと、格子窓の明かりさえない真っ暗闇の中で息を殺していたのだ。暗さに慣れきった目には、扉いっぱいに広がったその光が、焼けつくほどに強く感じられた。

 目の奥がじんと痛んだ。

 指の隙間から、わたしは光のほうを見た。

 誰かが立っていた。

 扉の枠いっぱいに、背の高い黒い影が。

 顔は見えなかった。その人が胸の前に掲げたランプの光が、まっすぐわたしの目に飛びこんでくるせいで、光の向こうはぼんやりと滲んでしまう。分かるのは、黒い外套をまとった大きな身体の輪郭だけだった。肩幅が広くて、ドルフさんよりずっと背が高かった。

 知らない人だった。

 ――来た。

 わたしの手のひらの中で、さっきまで握りしめていた小さな石が、汗ですべった。

 指のあいだから抜け落ちて、藁の中に転がる。かさりとかすかな音がしたけれど、わたしはそれを拾うことも忘れていた。

 黒い影は、動かなかった。

 扉の前に立ったまま、こちらを見ていた。

 何かを言われるのを待った。

 泣け、と言われるのを。

 立て、と言われるのを。

 お前が石を生む娘か、と値踏みされるのを。

 けれど影は、何も言わなかった。

 ただそこに立って、じっとわたしを見下ろしていた。


 わたしは壁に背中を押しつけたまま、身体を小さく縮めた。

 鎖が鳴った。

 その音に、影がかすかに身じろぎしたような気がした。

 怖かった。

 何も言われないことが、何をされるか分からないことが、何よりも怖かった。

 お母さまは、いつもやさしい声で話しかけてきた。お兄さまは、笑いながら顎をつかんだ。ドルフさんは、差し入れ口の向こうから舌打ちをした。

 みんな、何かをしてきた。

 何かを言ってきた。

 だからわたしは、それにどう耐えればいいのかを知っていた。

 でも、この人は何もしない。

 何も言わない。

 どうすればいいのか、分からなかった。

 わたしは胸元に手を伸ばした。

 いつものように、服の上から小さな丸い形を確かめようとした。

 そこに、なかった。

 指先が布の合わせ目をなぞる。何もない。いつもそこにあるはずの、冷たくて小さな感触が。

 心臓が、どくんと跳ねた。

 ないの?

 どこへ?

 慌てて胸元を見下ろした。

 ボタンは、そこにあった。

 布の合わせ目にくくりつけていた古い糸が、いつの間にかほどけかけていた。さっき壁まで後ずさったとき、背中を押しつけたときに、緩んでしまったのだろう。ボタンは襟元から外へこぼれ出て、細い糸一本だけでかろうじてぶら下がっていた。

 わたしが身体を震わせるたびに、それは胸元で小さく揺れた。

 ランプの光を受けて、かすかに、銀色に光った。

 ――隠さなきゃ。

 わたしはボタンを手のひらで覆おうとした。

 見られたら、取り上げられてしまう。ドルフさんは「がらくた」だと言って見逃してくれたけれど、この人がどうするかは分からない。

 これだけは。

 これだけは、誰にも――。


   ◇ ◇ ◇


 アルフレッドは、扉の前から動けずにいた。

 ランプの光の中に、少女がいた。

 石の壁に背中を押しつけて、膝を胸に引き寄せて、身体を小さく小さく丸めている。

 痩せていた。

 あまりにも痩せていた。

 袖口から覗く手首は、子どもの枝のように細かった。頬はこけ、肌は陽の光を知らない白さで、ところどころに古い痣が黄色く残っている。伸び放題の髪は絡まりあって、肩から背中へもつれたまま垂れていた。

 足首には、鉄の輪が嵌められていた。

 さっき壁に吊るされていたものとは違う、大人の足首に合う大きさの輪。そこから伸びた鎖が、牢の床の杭まで続いている。輪の縁の肌は擦れて赤黒く変色し、古い傷の上にまた新しい傷が重なっていた。

 少女は、片手を目の上にかざしていた。

 ランプの光が眩しいのだ。

 たったひとつのランプの光が。

 その指の隙間から、怯えた瞳がこちらを見上げていた。

 アルフレッドは、その瞳を見た。

 灰色がかった青。

 夜明け前の空の色。

 ――知っている。

 息が止まった。

 知っている。この色を、知っている。

 十年前、塀の上から見下ろした庭の真ん中で、まんまるに見開かれていた瞳の色だ。白い花の冠を載せて、照れたように見上げてきた瞳の色だ。最後の別れの日に、涙をこらえて真っ赤になりながら「待ってる」と言った瞳の色だ。

 けれど、あのときの瞳には光があった。

 今、目の前の瞳には、何もなかった。

 怯えと、諦めと、それから、こちらが何をするのかをじっとうかがう、小さな獣のような警戒だけが沈んでいた。

 まるで光という光を、ひとつ残らず誰かに抜き取られてしまったかのように。


 何か言わなければ、と思った。

 声をかけなければ。怖がらせてはいけない。名前を呼んで、もう大丈夫だと伝えて、それから――。

 言葉が、出てこなかった。

 喉が締めつけられたように動かなかった。

 十年間、何度も考えてきたはずだった。もしも彼女を見つけたら、最初に何を言おうかと。戦場の野営の夜に、帝都の執務室の夜に、何度も何度も言葉を組み立てては崩してきた。

 そのどれもが、今、ひとつも出てこなかった。

 少女が、身じろぎをした。

 ほとんど無意識のように、胸元へ手を伸ばしている。何かを確かめるように、服の上をなぞる。

 そしてその手が、ぴたりと止まった。

 少女の顔に、目に見えるほどの動揺が走った。慌てたように胸元を見下ろし、そして何かを手のひらで覆い隠そうとする。

 その指の隙間から、何かがこぼれた。

 ランプの光を受けて、小さく光った。

 細い糸の先に揺れている、小さな丸いもの。

 黒くくすんで、縁が少しだけ欠けた――。


 銀の、ボタンだった。


 アルフレッドの中で、何かが音を立てて崩れた。

 十年間、ずっと胸の奥に積み上げてきたもの。理屈で押さえつけてきたもの。死亡届の文字の上に、墓石の冷たさの上に、何度も何度も塗り重ねてきたもの。

 それが一度に、崩れ落ちた。

 ――このボタンを持っていて。なくさないで。

 ――そしたら僕は、どこにいたって、リシェルを見つけ出すから。

 十四の自分の声が、耳の奥で鳴った。

 持っていた。

 この子は、持っていた。

 陽の光も届かない地下の底で。鎖に繋がれて。痩せ衰えて。体中に痣と傷を刻まれて。

 それでも、このボタンを持っていた。

 あの日の約束を、なくさずに。

 アルフレッドの手が、外套の内側の胸元へ伸びかけた。

 そこには何もない。あの紺色の上着は、帝都の執務室の引き出しの奥にしまってある。けれど身体が勝手に動いて、そこにあるはずの欠けた場所を探そうとした。

 十年分の、空白を。


 背後の石段の下で、ガレスが息を呑む気配がした。

 アルフレッドは気づかなかった。

 少女の胸元で、銀のボタンが揺れていた。

 少女が震えるたびに、それはランプの光の中で小さく揺れて、かすかに光った。

 まるで、ここにいる、と。

 ずっとここにいた、と。

 ささやくように。

 アルフレッドは、扉の枠を握りしめた。

 そうしなければ、膝から崩れ落ちてしまいそうだった。

 戦場で何度死にかけても、一度も膝をついたことのない男が。

 血も涙もない皇帝と呼ばれる男が。

 目の前の、痩せた小さな少女ひとりのために。

 目の奥が、焼けるように熱かった。

 泣いたことなど、もう覚えていない。涙の流し方など、とうの昔に忘れた。

 それなのに今、何かが、喉の奥からせり上がってこようとしていた。

 アルフレッドはそれを、奥歯を噛みしめて押し戻した。

 今は、だめだ。

 この子の前で、取り乱してはいけない。

 この子は、何も知らない。目の前の男が誰なのかも、なぜここにいるのかも。この子にとって自分は、ただの見知らぬ男だ。

 怖がらせてはいけない。

 これ以上、一瞬たりとも、この子を怖がらせてはいけない。


 少女は、まだ手で光を遮りながら、こちらを見上げていた。

 その唇が、かすかに震えていた。

 何か言おうとしているのか。それとも、何かを言われるのを待っているのか。

 アルフレッドは、ゆっくりと息を吐いた。

 声は、まだ出なかった。

 ただ胸の奥で、たったひとつの言葉だけが、繰り返し繰り返し響いていた。

 十年分の夜を越えて。

 戦場の泥と血と、帝都の冷たい玉座を越えて。

 ようやくたどり着いた、たったひとつの言葉が。


 ――やっと、見つけた。

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