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第17話 知らない男

黒い影は、長いあいだ動かなかった。

 わたしは胸元のボタンを手のひらで覆ったまま、息をするのも忘れて、その人を見上げていた。

 ランプの光が少しだけ揺れた。

 その人が、ゆっくりと身をかがめたのだ。

 手にしていたランプを、牢の床にそっと置く。石の床に金属の底が触れる、ことりという小さな音がした。

 光が、低くなった。

 まっすぐ目に飛びこんでいた眩しさが和らいで、わたしは少しずつ、かざしていた手を下ろした。

 その人は、扉のすぐ内側で片膝をついていた。

 ランプの光が、下からその人の顔を照らしていた。

 若い男の人だった。

 黒い髪。黒い瞳。どこか鋭い、整った顔立ち。お兄さまよりは少し年上だろうか。けれど、お兄さまのような退屈そうな色も、ドルフさんのような苛立った色も、その顔には浮かんでいなかった。

 何も浮かんでいなかった。

 まるで、石で彫った人形のように。

 知らない人だった。

 どこかで会ったことがあるのかどうか考えようとして、すぐにやめた。わたしが会ったことのある人なんて、この七年で数えるほどしかいない。お父さま、お母さま、お兄さま、ドルフさん。それより前の、離れにいた頃の人たち。

 この人は、そのどれでもなかった。


「……リシェル」

 その人が、わたしの名前を呼んだ。

 低い声だった。少しかすれていて、ひどくゆっくりと、まるで壊れやすいものを扱うみたいに。

 わたしは、びくりと肩を震わせた。

 どうして。

 どうしてこの人は、わたしの名前を知っているのだろう。

 ――決まっている。

 お父さまか、お母さまが教えたのだ。

 売り物には名前をつける。帳面に書きこむ。石と一緒に、きっとわたしの名前も、どこかの紙に書かれてやりとりされていたのだろう。

 そう考えたら、ほんの一瞬だけ胸の奥で何かがきしんだ。

 けれどそれは、すぐに冷たい納得に変わった。

 ああ、そうか。

 やっぱり、そうなのだ。

「……はい」

 かすれた声で、わたしは答えた。

 七年間、何度も繰り返してきた返事だった。名前を呼ばれたら、はいと答える。それ以外の答え方を、わたしは知らなかった。

 その人の顔が、ほんのわずかに動いた。

 何かに耐えるように、唇が引き結ばれる。

 けれどそれも一瞬で、すぐにまた、何もない顔に戻った。


 沈黙が落ちた。

 その人は膝をついたまま、何も言わなかった。

 わたしも、何も言えなかった。

 何を言えばいいのか、分からなかった。

 この人が何をしに来たのか、わたしには分かっている。分かっているのに、どうしてこの人は何も言わないのだろう。

 泣け、とも。

 立て、とも。

 ついてこい、とも。

 何も。

 沈黙が長くなればなるほど、胸の奥がざわざわと落ち着かなくなっていった。

 お母さまは、言葉で追いつめてきた。お兄さまは、手で追いつめてきた。ドルフさんは、食事を盾にして追いつめてきた。

 みんな、何をすればいいのかだけは教えてくれた。

 この人は、それさえ教えてくれない。

 ――試されているのだろうか。

 わたしが自分から、何をすべきか分かっているのかどうか。

 ちゃんとした「品物」なのかどうか。

 わたしは唇を湿らせた。

 声が震えないように、両手を膝の上でぎゅっと握りしめた。

「あの……」

 その人の黒い瞳が、わたしを見た。

「あなたが、わたしを……買った、方ですか」

 言ってしまってから、喉の奥がひりひりと痛んだ。


   ◇ ◇ ◇


 アルフレッドは、言葉を失っていた。

 買った方ですか。

 少女の唇から出たその言葉が、意味を結ぶまでに時間がかかった。

 そして意味を結んだ瞬間、腹の底が冷たく凍りついた。

 この子は、自分が売られると思っている。

 見知らぬ男が地下へ降りてきて、扉を開けた。それをこの子は、新しい持ち主が自分を引き取りに来たのだと受け取ったのだ。

 それ以外の可能性を、思いつきさえしないのだ。

 少女は、膝の上で両手を握りしめていた。細い指の関節が白くなっている。それでも、その声は震えまいとしていた。必死に、礼儀正しく、何かを間違えないように。

「違う」

 アルフレッドは言った。

 自分の声が、ひどく硬いのが分かった。

「違う。俺は、お前を買いに来たわけではない」

 少女は、ゆっくりとまばたきをした。

 信じていない目だった。

 そうですか、とも、では何を、とも言わなかった。ただ、またひとつ何か分からないことが増えた、というように、じっとこちらをうかがっている。

 アルフレッドは、喉の奥まで出かかっている言葉を、もう一度噛みしめた。

 ――覚えているか。

 ――あの庭で会った。花冠を作った。焼き菓子を半分にした。

 ――そのボタンを渡したのは、俺だ。

 ――迎えに来た。遅くなったが、約束どおり、迎えに来た。

 言いたかった。

 十年分の言葉を、全部ここでぶちまけてしまいたかった。

 けれど、目の前の少女の顔を見ていると、どうしても口が開かなかった。

 この子は今、ひどく怯えている。

 何を言われるのか、何をされるのか、何を求められるのかを、ひとつも見逃すまいと身を硬くしている。

 その子に、「覚えているか」と問えばどうなる。

 この子はきっと、それを新しい命令として受け取るだろう。

 覚えていなければならない。思い出さなければならない。この男が望む答えを、差し出さなければならない。

 覚えていると言えば喜ばれるのか。覚えていないと言えば罰されるのか。

 そうやって、また顔色をうかがいながら、正しい答えを探そうとするだろう。

 それだけは、させたくなかった。

 十年かけて、ようやくここにたどり着いたのだ。

 最初にこの子に与えるものが、新しい「正解探し」であってはならなかった。


 アルフレッドは、言葉をすべて飲みこんだ。

 代わりに、もう一度だけ、名前を呼んだ。

「リシェル」

 少女の肩が、また小さく跳ねた。

「……はい」

 同じ返事だった。

 名前を呼ばれたら、はいと答える。それ以外の答えを知らない子どもの声だった。

 アルフレッドは、目を伏せた。

 十年前、この子は自分の名前を呼ばれて、きょとんと目を丸くしていた。それから、少し照れたように笑ったのだ。

 今のこの子は、自分の名前を、まるで鎖の音のように聞いている。


   ◇ ◇ ◇


 違う、とその人は言った。

 買いに来たわけではない、と。

 わたしは、その言葉をどう受け取ればいいのか分からなかった。

 買いに来たのではないのなら、何をしに来たのだろう。

 石を検めに来たのだろうか。わたしがちゃんと泣けるのかどうか、確かめに来たのだろうか。それとも、もっと別の、わたしには想像もつかない何かのために。

 分からなかった。

 分からないことが、怖かった。

 その人がもう一度わたしの名前を呼んだとき、わたしは思わず、膝の上の手をさらに強く握りしめた。

 何か言わなければ。

 何かをしなければ。

 何もしないまま黙っていたら、きっともっと悪いことが起きる。

「あの」

 わたしは、もう一度口を開いた。

「何を、すれば……いいですか」

 その人は答えなかった。

 黒い瞳が、ただじっとわたしを見ている。

 わたしは息を吸った。

 お母さまが来たときのことを思い出す。お兄さまが来たときのことを思い出す。

 みんな、最後には同じことを言った。

「……泣けば、いいですか」

 その人の目が、わずかに見開かれた。

 わたしは慌てて言葉を続けた。

「今は、あの……すぐには、出ないかもしれません。でも、少し時間をいただければ……お腹が空いていれば、もう少し早く出ると思います。今日は朝から何も食べていないので、たぶん、そんなに時間はかからないと……」

「やめろ」

 低い声が、わたしの言葉を断ち切った。

 わたしは口をつぐんだ。

 その人の声は、怒鳴り声ではなかった。けれど、さっきまでよりずっと硬く、ずっと低かった。

 怒らせた。

 また、間違えた。

 身体の奥が冷たくなって、わたしは反射的に頭を下げた。

「も、申し訳、ございません。余計なことを、申しました」

「……違う」

「お気に障ったのでしたら、あの、なんでも――」

「違うと言っている」

 その人の声が、わずかにかすれた。

「お前が謝ることは、何もない」

 わたしは、顔を上げることができなかった。

 謝ることは何もない。

 そんなことを言われたのは、生まれて初めてだった。

 だからこそ、怖かった。

 この人はきっと、わたしが今まで会った誰よりも、何を考えているのか分からない人なのだと思った。


   ◇ ◇ ◇


 泣けばいいですか。

 お腹が空いていれば、もう少し早く出ると思います。

 アルフレッドは、片膝をついたまま拳を握りしめていた。

 爪が手のひらに食いこんでいた。

 この子は、自分の涙が出るまでの時間を、まるで仕事の段取りのように説明した。空腹であれば早く泣ける、と。それがこの家で学ばされた、この子の「常識」なのだ。

 さっきまで凪いでいた腹の底で、何かがゆっくりと煮えたぎりはじめていた。

 けれど、それを今ここで表に出すわけにはいかなかった。

 少女は頭を下げたまま、小刻みに震えていた。

 自分の「やめろ」の一言で、この子はこれほど怯えたのだ。声を荒らげたつもりはなかった。それでもこの子にとっては、低い声というだけで、殴られる前の合図と同じだったのだろう。

 アルフレッドは、ゆっくりと息を吐いた。

 怒りは、ここで向ける相手ではない。

 この子の前では、絶対に。

「……少し、待っていてくれ」

 できる限り、静かな声で言った。

「何もしなくていい。泣かなくていい。ここで、少しだけ待っていてくれ」

 少女は顔を上げなかった。

 けれど、かすかに、小さく頷いたように見えた。

 アルフレッドは立ち上がった。

 ランプは床に置いたままにした。この子のそばに、少しでも明かりを残しておきたかった。

 扉の外へ一歩出る。

 石段の下で控えていたガレスが、背筋を伸ばした。

 ガレスは主君の顔を見て、何も言わなかった。

 アルフレッドも、ガレスを見なかった。

 ただ、扉の内側にいる少女には届かない低さで、たったひとつだけ命じた。

「侯爵を、ここへ連れてこい」

 ガレスが一礼して、石段を駆け上がっていく。

 その足音が遠ざかっていくのを聞きながら、アルフレッドは扉の枠に背中を預けた。

 牢の中から、かすかな鎖の音が聞こえた。

 少女が、身じろぎをしたのだろう。

 逃げ場のない壁際で、少しでも小さくなろうとして。

 アルフレッドは目を閉じた。

 十年前、あの子は「待ってる」と言った。

 今、自分はあの子に「待っていてくれ」と言った。

 同じ言葉なのに、その重さはまるで違っていた。

 あの子にとって、今の自分は、迎えに来た約束の少年ではない。

 鉄の扉を開けて入ってきた、ただの――知らない男だった。

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